4 翌朝、丸っこいフォルムの鳥ポケモンが囀る音で目を覚ました。テントを張って寝袋で眠る生活に慣れていたためか、しっかりとした作りのベッドでコロコロと寝返りを打ちながら意識を覚醒させていく時間がとても贅沢なもののように感じられる。 「ユウリお姉ちゃん、おはよう! 朝ごはんはもうちょっと後だよ。でもムックルが朝から賑やかだから、どうしてもこの時間に起きちゃうよね。あたしもそう!」 顔を洗い、外に出た私に、イーブイと遊んでいたと思しきリタが駆け寄ってくる。コテージの傍で今もピチュピチュと鳴いている彼等はムックルというらしい。ポケモン図鑑に登録しようと手を伸ばしたところで、そのスマホロトムを置いてきてしまったことを思い出した。そうだった。私、何も持っていないんだった! 私ごと、一からリセットされてしまったかのような感覚に、不謹慎ながらとてもわくわくした。メッソンと一緒にハロンタウンを飛び出して、一番道路の草むらを駆け抜けたあの頃の高揚を思い出させた。あの頃はただ、ポケモンと一緒にいられるだけで楽しかった。野生のポケモンと必死にバトルして、一つずつ積み重ねていく小さな勝利が誇らしくて堪らなかった。 大好きなポケモンと一緒に勝つことができて嬉しい。それだけでよかった。 それだけではいけなくなったから、私はボールを投げることができなくなった。 果てにはインテレオンの入ったボールを持つことさえいよいよ怖くなってしまったので、私はもう、ポケモントレーナーではいられないのかもしれないと、思って。 「おはようリタ。朝食のお手伝いをしたいのだけれど、博士は研究所にいるのかな?」 「えっすごい! ユウリお姉ちゃん料理ができるんだね。お手伝いしてあげたら博士もきっと喜ぶよ! あたしはまだ、お皿洗いくらいしかさせてもらえないんだ」 こっち、と小さな手に引かれる形で回想はぷつんと途切れる。楽しさと心苦しさとを混ぜこぜにした実に複雑な気持ちになる。でも昨日の研究所へ上がり込み、寝癖が付いたままの博士に挨拶をした頃にはもうすっかり楽しい気持ちばかりになっている。 照れたように頭をかきながら「おはよう」と笑った博士は、私にトーストとミモザサラダの準備を任せてくれた。ゆで卵の黄身と白身を分けて潰す作業に夢中になっていると、欠伸と共にトオルさんが姿を現す。テーブルの上に並んだ朝食に視線を向けてから「僕はもう少し焼き色がある方が好みかな」と言って、既に焼けていたトーストのうち一枚を取り上げて再びトースターへと差し入れていった。 「ふふ、これは失礼! 明日はもう少し濃い目に焼くようにするよ」 「わあ、優しいねキミ。博士はいつも『それくらい自分でやりなさい』って言って、いつも薄い焼き色しか付けてくれないのにさ」 「こらこら、あまりお客さんを困らせるんじゃないよ。ユウリもユウリだ。こいつを甘やかしちゃいけない。すぐ調子に乗ってしまうんだから」 初めての空間であるはずなのに何処か懐かしさを覚えるのは、おそらくこれが、ヨロイ島で食べた初めての食事風景に酷似しているからだろう。大鍋を掻き混ぜていたミツバさんに手伝いを申し出ると、それはそれは喜んでくれた。料理の場に積極的に立とうとする私を有難がってくれたことが嬉しくて、随分と張り切ったのを覚えている。後ろに立った彼が「オッホン! そんな姑息な点数稼ぎを初日からするなんて、随分と意地汚い妹弟子ですね!」などと悪態を吐いて、先輩の門下生に叱られていたっけ。 大切な家族だ。何にも代えがたい思い出だ。いつもいつでもすぐに戻れると信じて旅立った第二の我が家だ。 けれども「すぐには戻れない」という、第二の我が家を失った今でさえも、私は似たような場所に似たような安息と幸せを見出して、同じように笑っている。「オッホン!」と咳払いをする彼の幻聴を拾い上げたくなった。「なんて薄情な人!」と眼鏡を曇らせつつ叱ってほしくなった。けれども彼の幻聴を拾うより先に、トースターが今度こそトオルさん好みの濃い色のトーストを弾き出したので、私はまた何も考えられなくなって、火傷をしないようにとだけ気を付けながらトーストを取り出すのだった。 * バターを塗ったトーストとサラダ、それにヨーグルトを食べ終え、オニオンスープの表面を冷やしながら少しずつ飲み下して朝の空腹を満たした私に、カガミ博士はにっこり笑ってカメラを渡してきた。 「折角だからキミも調査に出かけてみるかい? ネオワン号に乗っていくから危険はないよ、心配しなくていい」 「ネオワン号? 調査というのは……このカメラでポケモンを撮影するってこと?」 「そうだよ。このレンティル地方は、百年前に一人の冒険家が上陸して以来、人の訪れない未開の地だったんだ。だから他の地方よりもより自然な形で、ポケモンの生態系を詳しく観察できるんだよ。どうだい、楽しそうだろう」 おそらくは私と交代で取り違えられてしまった少女、ルイの役目であったはずのそれ。一時的にとはいえ、その調査を引き継ぐことができるのはとんでもない誉れに感じられた。ただそのためには、おそらくルイと私の間にあるであろう決定的な違いについて……博士やトオルさんに一度知らせておかなければいけないような気がする。 「私、その……ポケモントレーナーだったんだ」 「おや、そうなのかい」 だった、のところを強調して伝えるも、博士は特に意に介していないかのように穏やかな顔のまま相槌を打つだけだった。あれ、と怪訝に思いながらも私は更に続ける。 「トオルさんは昨日、私のことを密猟者と疑っていたけれど、野生のポケモンを次から次へと捕まえて図鑑に登録していた私は同じような身分かもしれない。でも此処では決してボールを投げたりはしないから、どうか警戒しないでほしい」 「……ふっ、あっはは! キミ、随分と平和な世界で育ってきたんだねえ」 フィルと一緒にテーブルの上の食器を回収していたトオルさんが、安心したように笑いながら私の頭をぽんと叩いた。 「僕の口にした密猟者っていうのはね、ヤドンのしっぽやサメハダーの背びれを手当たり次第に捌いて売りに出すような、そうした非道な連中のことを言うんだよ。流石にポケモントレーナーを密猟者呼ばわりしたりはしないさ」 「えっ……あ、ごめんなさい! 私ちょっと、間抜けな勘違いをしていたみたいだ」 「いいよいいよ、おかげでとっても安心できた。キミならこの島にいるポケモンたちをいたずらに刺激したり、危害を加えたりするようなことは決してしないだろうから」 ガラルのワイルドエリアではそのような人を見たことがなかったから、全く思い至ることができなかった。カレーに何度か入れたことのあるヤドンのしっぽのパッケージにも、正式な流通経路を通ってきたことを示すマークが必ず付いていたから、特に疑いもしていなかったのだ。そのような不穏な形でポケモンの乱獲が行われることがあるというレンティルの「現実」に、少しばかり眩暈を覚えそうになる。 何処であっても、完璧な「夢のような夢物語」は在り得ないのかもしれない。 「でもそうだね、此処ではポケモンを捕まえることはしないでほしい。キミがボールの代わりに投げるのはこれだよ」 笑いながら差し出されたその真っ赤な林檎は、見た目よりもずっと軽く、指で強く表面を押せばすぐにへこみが付いてしまう程に柔らかかった。「ふわりんご」というのだと、シンクで皿洗いを始めたフィルが大声で教えてくれた。 「これでポケモンを近くに呼んだり、目当ての場所へ誘導したりするんだ。僕が全力で投げてもデデンネがひっくり返る程度の威力しか出ないから安心して」 「ああ、あの小さな子に当たってもそれくらいなら、怪我をさせることはなさそうだね。でもコントロールが難しそうだ、私に……できるかな」 「ははっ、そこまで難しいことじゃないさ」 難しいことじゃない。博士は笑いながらそう言う。けれども本当にそうだろうか。だってこれまで、草むらや水辺から飛び出してきたポケモンとコミュニケーションを取っていたのは、私ではなく私のポケモンたちだ。私はインテレオンを挟んで相手を見ていたに過ぎない。パートナーである彼等がいない今、どうやって野生のポケモンを「調査」しようというのだろう。どうやって彼等を分かろうとすればいいのだろう。 「ポケモンがしてくれていたことを、今度はキミが代わりにするんだよ」 「!」 私の不安を見抜いたかのような助言が飛んできて、思わず勢いよく振り向いてしまう。 「補助はネオワン号と道具に任せればいい。キミはキミのすべきことをするだけだ」 頼もしく断言するトオルさんの貫禄はまさにプロのポケモンカメラマンとしてのそれで、とても立派な人から直々に指導を受けているような心地になって、背筋が自然にすっと伸びた。不安も消え去っていて、不思議と、大丈夫なのかもしれないと思えた。 「……び、びっくりした。心を読まれたのかと思った」 「あっはは! サイキッカーじゃあるまいし、そんなことできないさ」 サイキッカーという単語に灯る水色を想いながら、私はふわりんごを右手にそっと握った。私の、小さくはないが男性のそれには劣る大きさの掌に余裕で収まる大きさだ。ポケモンを繰り出す前の予備動作で大きくしたモンスターボールに、サイズ感としてはぴったり重なる。でもあれよりずっと軽く、あれよりずっと柔らかかった。「これはモンスターボールではない」と認識できたことで、私の腕はかつてのようにすんなりと動き、かつてに全く見劣りしないフォームで投げることができた。ボールよりもずっと軽いのに、飛んでいく軌道はボールのそれにとてもよく似ている。これなら狙ったところへ狂いなく飛ばせるだろう。 「うわっすげえ! ユウリ上手いじゃん!」 「おお! やるじゃないか、これはフィルやリタもうかうかしていられないぞ?」 大丈夫、やれるはずだ。「ポケモンたちがやっていたこと」ならすぐに思い出せる。手に取るように分かる。私が何百回、何千回と彼等に指示してきたことだ。私ができなくてどうするんだ。 「じゃあ、まずはネオワン号の試乗だね。こっちにおいで」 そうした決意が冷める暇もなく、博士は私を研究所の外に連れ出した。彼の示した先にある乗り物は少々面妖で……黄色く丸いポット型のフォルムに、ライトやエンジンと思しき機械が色々とくっ付いていた。こんなものはガラルでは見たことがない。 乗ってごらんと促されたので、はやる気持ちを抑えきれずにひょいと飛び乗った。少し私には小さいと思われた椅子はけれども案外体にぴったりで、エンジンの稼働音はほとんどせず、快適そのものだった。ただそれら以上に私を驚かせたのが……中に乗っている人を守るため自動的に現れた透明な水色の保護パネルと、地球の磁場でも利用しているかのように機体がふわりと「浮き上がった」ことだった。 「……」 何故私は浮いているのだろう。此処には彼の「一指し」などありはしないのに。この水色だって、彼の指先が灯したものではないのに。彼はいないのに。 「ユウリ、大丈夫かい? 乗り物酔いしやすい質かな? それとも怖くなった?」 「いや、そんなことはないよ。あまりにも素晴らしい機械だから感動していただけ。それに私、浮かぶのには慣れているから怖くもないんだ」 「慣れている?」 「元いた世界ではそれはもう私、しょっちゅう浮かせてもらっていたものだから」 楽しさと心苦しさ、平穏と不穏、夢物語と思い出、彼のいない世界と彼のいた世界。心の天秤はぐらぐらと揺れて定まらない。心苦しさに身を任せるには私はあちらの世界で絶望しすぎていたし、楽しさだけに浸るには私は彼のことを覚えすぎている。 2021.10.22
800歩先で逢いましょう(第二章)