800歩先で逢いましょう(第二章)

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 すぐにでも「呼び戻される」のではと、二人分のホットサンドを平らげつつ若干不安に思っていたのだけれど、夕食を食べ終えても夜が更けても、翌朝になっても、私には何の変化も起きなかった。ただ、世界を跨ぎ直すためにまだ何かが足りないのだろうか、と悩んでいたのは翌日の昼までのことで、私ではなく神様やルイの準備がまだなのでは、あるいは「楽しみ尽くして」いないのでは、という可能性に思い至ってからは、焦る心地も失われていた。そして不思議なことに、「いつ戻っても構わない」と思えるようになってからは、此処での調査……ボールではなくカメラを構える生活がより一層楽しくなってしまった。

 リタやフィルと一緒に遠くのビーチへと撮影に出掛けて、青色の羽を持つビビヨンや珍しい姿のライチュウを見かけては嬉しくなった。フロレオ島の北にあるジャングルでは、遠くからこちらを窺うようにしているメッソンを見つけることができて、泣き虫だった頃の相棒を思い出しひどく懐かしい気持ちになった。
 遠くに浮かぶ島々を見ながら、きっと向こうにも雄大な自然が広がっていて、どんなポケモンも楽しそうに暮らしているのだろうと想像した。本当に夢のよう。いつまででも楽しんでいられそう。そう思っていた頃にようやく私は「呼ばれた」のだった。ヨロイ島で感じたあの、一人にならなければと急に急き立てられるような心地。二週間ほど前と同じ感覚。一人で調査に出ているようなタイミングではなくて本当によかった。少なくとも、お世話になった皆さんに挨拶をするだけの猶予は作ってもらえそうだ。

「……ユウリ?」
「どうしたの? 今日のシチューの味、変だった?」

 帰りたくないという思いが再燃した訳ではない。痛烈な未練がこの世界にある訳でもない。ただこの世界は綺麗で優しくて、ポケモンたちの調査は本当に楽しくて、私が私であることさえ忘れてしまう程に夢中になれて……。それでも、その時が来るに従って「それじゃあ帰ろう」とすぐに思えたのは、トオルさんにかさ増ししてもらった覚悟と、この世界の調査へと全力で取り組み、楽しみ尽くした経験があったからだ。

「ううん、いつも通り美味しいよ。叶うなら全部食べ切りたかった」

 そう言って立ち上がれば、トオルさんと博士は顔を見合わせ、私の言葉の意味するところにすぐ辿り着いてくれた。リタやフィルも怪訝そうな顔をしながらも、私が「帰る時」が来たのだということを、場の雰囲気で何となく察してくれたようだった。

「行っちゃうの?」
「うん、ちょっと長くお世話になり過ぎたからね」

 ポケットに手を差し入れて、水色のハンカチと空のモンスターボールが入っていることを確かめてから、ご馳走様でしたと頭を下げて外に出る。ユウリ、と名前を呼んで、食器を置いて立ち上がり、走って追い掛けて来てくれる小さな足音たちに涙が出そうになる。未練だとか覚悟の有無だとかそういった理由ではなく、単純に別れは寂しいものだ。おそらくこれが永遠の別れになると思われる相手であれば、尚の事。

「リタ、フィル。沢山お世話になったね、今までありがとう」
「……うん、ありがと、ユウリお姉ちゃん」
「ありがとな! 写真を見せ合えて、一緒に遊んだりもできて、すげえ楽しかった!」
「うん、楽しかったね。本当に夢のようだったよ。此処に来たのが私でなくてもきっと同じことを思っただろう。此処を世界のふるさとにできた彼女は幸せ者だ」
「ははっ、そう言ってもらえて光栄だよ」

 笑いながら博士とトオルさんも研究所から出てくる。光栄だ、と答えてくれた博士の表情が本当に嬉しそうで、そこに彼の、自らの研究と調査に対する矜持を見た気持ちになって、私まで嬉しくなってしまう。

「でもきっとキミの世界だって負けちゃいないさ。そうだろう?」

 そうとも、と僅かに胸を張って答えた、その言葉はもう「強がり」などではなくなっていた。私にとってあのガラルは戻る価値のある世界だ。手放せないものが沢山ある世界だ。苦しむ意味のある世界だ。博士ほど穏やかに「光栄だ」と笑うことはまだ難しくとも、いつか同じように思える日が来るはずだ。そのための力を此処で貰った。優しい世界に、水色の光に、大好きな人たちに。
 その恩返しをこの場所でできないことを申し訳なく思う。貰った力で苦しみ直す私の有様を彼等に見てもらえないことを悔しく思う。でもそれ以上に、この場所へただ綺麗なだけの思い出を残していけることを、喜ばしく、嬉しく思う。

 正しく、夢のような夢物語だった。だからそろそろ目覚めてしまおう。

「真っ直ぐ、帰れるといいね」
「ふふ、どうだろう? もし神様の意地が私の想定よりずっと悪かったら……私はまた別の世界に飛ばされて、面白い思いをすることになってしまうのかもしれない」
「あはは、それを『面白い』とできるキミならもう大丈夫だ!」

 トオルさんが豪快に笑いながら歩み寄ってくる。私のポケットがハンカチとモンスターボールの分だけ大きく膨らんでいることを確認して、少しだけ寂しそうに目を細めて笑う。首元には相変わらず、あの子の水色が仄かに光っている。

「心配しないでいい。必ずキミは元の世界に帰れる。キミの帰りを待つ人にちゃんと『ただいま』を言えるよ。もしちょっと遠回りしたとしても心配しなくていい。飛ばされた別の場所でも、此処と同じようにすればいいだけの話だからね」
「同じように?」
「そうさ。キミなら皆のことをすぐ好きになれる。そして誰もが……キミが愛した誰もがきっとキミを好きになるんだ」
「……それが、私の責務だから?」
「そうだよ、世界に愛された主人公たちにしかできない責務だ。キミに似合っているよ、とても」

 彼はにっと得意気に微笑んで私の頭上に手を伸ばしたけれど、いつものようにニットベレーの上から頭を撫でるようなことはしなかった。代わりにその少し上のあたりで手を宙に留めて、何か見えないものへそっと触れるかのように手首を動かしていた。まるで、彼にしか見えない「責務の証」が……それこそ「冠」とでも呼べそうなそれが私の頭上にあるかのような手の動きだった。

 目に見えないもの、鏡にも写真にも写らないものを「とらえる」力がこの人にはある。そんな彼に「似合っている」と言ってもらえるのは正直、悪い気分ではなかった。似合っているのならこのままで、苦しいままでもいいか。そんな風に思えてしまう程度には、私の「かさ増しの覚悟」は「本物の勇気」へと変わり始めていた。
 あとは簡単だ、この勇気を奮う場所と相手を間違わないだけでいい。私はこの冠を被ったまま、堂々と世界を飛び越えていけばいい。それだけでいい。

「さようなら、ユウリ。今度は本当の夢で遭えるといいね」
「ふふ、いいアイデアだ! それじゃあまた夢で。シチューの続きは、その時に」

 二歩、三歩と後退って、大きく手を振る。めいめいに振り返してくれる四人のシルエットが、夕日の逆光でくっきりと網膜に黒く焼き付いている。くるりと向きを変え、背を向けて、目を閉じて歩き始めてもしばらく消えることはなかった。

 夢で遊びに来るときは、この網膜に留めた「写真」を道標にしよう。
 そう思って小さく微笑んだ瞬間、ぐにゃりと何かが歪むようにして、足元がすぐさま広場の乾いた土から森の草むらへと置き換わる。聞き慣れたウッウとピカチュウの鳴き声をすぐ傍で感じる。あの日によく似た、紅茶を青空にひっくり返したような見事なグラデーションの夕焼けだ。
 何もかもが懐かしかった。けれども感極まって泣き出すような真似はできなかった。

「ユウリ! ねえ、きみ戻ってきたの!?」

 ずっと前から私のことを分かってくれていたみたいな響きで、私の名前を呼んでくれるその声が、残念なことに「彼」のものではなかったからだ。

「……」

 声のする方へ振り返る。白とピンクの大きなリボンを髪に飾った女性が、大きな歩幅でずかずかとこちらへ歩み寄ってくる。一言も声を発せずにいる私の肩をぐいと掴んで容赦なく揺さぶり「ねえ、ちゃんと本物? 何とか言いなさいよ!」と、彼とは似ても似つかぬ高い声で捲し立てている。

「君、は……」
「は……はあ!? うちのことが分からないってのォ!?」

 分からない訳ではない。君のことは知っている。半年前に見た夢の中で一度だけ会っている。姉弟子がいて兄弟子がいない世界。この人がいて「彼」がいない世界。数ある世界の中の「可能性」として当時の私が何よりも恐れた世界。
 やっぱりあれは夢ではなかったのだ。夢のような夢物語を現実としてこの二週間余り、過ごしてきたように、夢のような悪夢だって現実になり得るのだ。

 神様の悪戯はもう少しだけ続くようだ。きっとまだ「遊び足りない」のだろう。

「君は『ユウリ』の姉弟子さんだね?」
「えっ、な、なんでそんなこと」
「君のことは夢の中で少しだけ知っているよ。やっぱり本当にあったんだね、あの恐ろしくて寂しい世界、一番大事な人だけがいない世界は」

 もし一番初めに飛ばされたのがこの世界だったなら、きっと凄まじく動揺していただろう。だって元の世界と何もかも同じであるように見えるのに、今目の前で私を呼ぶのはセイボリーではなくこの女性で、彼はきっとこの世界の何処にもいないのだから。

 この恐ろしい世界を私は知っている。半年前に夢で見て知っている。彼だけがいない世界を恐れ怖がり、彼へと縋り付いてみっともなく泣き出しさえしたあの日のことを覚えている。恐れた可能性は確かにあった。そんな世界へと私はやって来たのだ。
 それでも泣かずにいられたのは、「面白くなってきたじゃないか」と笑えたのは、さっきまでの世界でかさ増ししてもらった覚悟のストックが十分にあったからだ。

 此処も、私が「ただいま」とは言えない世界である。でも大丈夫。どうすればいいかはあの世界が教えてくれた。もう怖くない。
 道標は今も目蓋の裏に、ポケットの中に、ちゃんとあるのだから。

2021.11.1
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