800歩先で逢いましょう(第二章)

13

 取り寄せたというモンスターボールの数は五十個とのことだったので、私は思ってもいないような形だけの不平を呟きながら、彼が投げつけてきたためあちこちに散らばってしまった、元・恐怖の象徴を拾い集める作業に入ることとなった。
 トオルさんも手伝ってくれると思ったのだけれど「キミにもう少し特訓させてあげようと思ってね」などと言って、先程の荒療治の続きを仄めかしながら地べたに胡坐をかいて座り込んでしまった。私がボールを一つずつ拾っては、口を大きく広げたナップサックの中へと放り込んでいく様をただ見ているばかりだったのだ。

「上手いじゃないか。しばらくボールを持っていなかったとは思えない程にコントロールがいい」
「ふわりんごなら毎日何百個と投げていたからね。あれの下半分が白くなっただけだ、どうってことないよ」

 彼の言葉を引き取る形でそう告げれば、コロコロと子供のように笑いながら「そうだろうね、そうだろうとも」と目を細めて同意してくれる。それが彼なりの優しさであることくらいは、彼のような慧眼を持たない私にも分かる。
 どうってことない、などという強がりも、隠し切れていない顔色の悪さも、まだ手に思うように力が入っていないことだって、おそらく彼は見抜いている。どんな高性能のカメラにも勝るその二つのレンズが、私の下手な誤魔化しを捉えていないはずがない。その慧眼で見抜いた上で黙っているのだ。私が、私こそが勝利したことにしておいてくれているのだ。覚悟のかさ増しは、トオルさんの同意と協力とほんの少しの意地悪によって成功した。先程私が吐き出した大仰な強がりたちも、唱え続ければきっと私の真実になる。かさ増しの覚悟もいつか本物の勇気になる。そのためには、ほら、目を逸らさずにちゃんとこれを握らなければ。

「キミの空元気、かっこよかったよ。『そんな犠牲はお断りだ』とか、獲物を狩るような強い目と相まって最高だった。時間を巻き戻してもう一度聞きたいくらいだ」
「ちょっと! 茶化さないでくれないかな」
「いやいや本気さ。それに、キミのようにかっこよくは言えないけれど、僕も同じ気持ちだよ。僕だって御免だ。キミを代わりにするのも、キミの代わりになるのも、ね」

 胡坐をかいた状態で肩を揺らしながら、何てことのないように彼は呟いてみせる。

「優秀なキミなら『代替品』には申し分ない。この世界に残った恩義としてキミはこの先ずっとカメラを手放さないだろうし、僕から離れたりもしないだろう。その安心はおそらくキミでしか手に入らない。でも駄目なんだ。キミはキミであって、ルイじゃないから」

 それはもう、まるきりその通り。私も彼も同じ気持ちだ。そしてきっとルイだって同じ気持ちだ。今も彼の胸元に光るそれを見るだけで、彼女の彼へと向ける想いが如何ほどのものであるかなど、もう手に取るように分かってしまう。

「いつかいなくなってしまうかもしれない人でも、そのことでいずれ、死んでしまいたくなる程に傷付いたとしても、それでも、戻ってきてくれた方がずっといい」

 ええその通り、全て貴方の言う通り。私が元の世界に戻りわざわざ苦しみ直すことを選ぶ理由だって、貴方がトオルさんであり「彼」ではないからに他ならない。苦痛の意味などそれで十分で、大好きな相手をたった一度呼ぶだけで回答になり得る。

 私の苦しむ意味、苦しみに見ることができる絆にはきっと「セイボリー」という名前が付いているのだ。

『あなたこそ、ワタクシ以外の人にただいまなどと言ったりしたら許しませんから!』
 彼が私に見る意味もまた、似たようなものであればいいと思う。欲を言えばこれさえも「お揃い」であればどんなにか、とも思う。

「ただ、さっきの空元気に一つだけアドバイスがあるとすれば……」
「え?」
「キミは『彼』にくらいは、頼ることを覚えてもいいんじゃないかと思うよ。きっとその人が『静かに傍にいてくれただけ』だったのも、キミの心が凭れかかってくるのを待って、敢えて沈黙を作っていたのだろうからさ」

 誰にも私を救えやしない、と豪語したあの強がりに対しての「アドバイス」なのだろうなとすぐに察しが付いた。少し恥ずかしい気持ちになりながら、私は「彼」の得意気な表情を思い出しつつ弁明する。

「既に十分、拠り所としているよ。いてくれるだけで、彼は私にとってかけがえがない」
「もうちょっと甘えてみたらってことさ。話をするだけじゃなくてね、一緒にいてほしいとか、支えてほしいとか、あるだろう。一人で立とうとするから、自分が支える側だとばかり思っているから、一人で立てなくなったときにこういうことが起こる」
「っ、はは、耳の痛い話だ」
「本気だよ? 特にキミの場合はその人、キミよりずっと年上なんだろう? ならもっと頼ればいい、甘えればいい。彼をうんと喜ばせてしまえばいい。きっとキミがひとたびそうすれば、彼は何を犠牲にしてでもキミを支えようとしてくれるはずだよ」

 それは、とても困る。そこまでしてもらおうとは思わない。彼の歩みの足枷になることなど望まない。そんな在り方こそ御免だ。けれどもそんな私の表情の曇りもすぐそのレンズに見抜かれてしまう。フラッシュがたちまち言葉の形を取り、鋭く焚かれる。

「彼は、キミがちょっと甘えたくらいでダメになってしまうような人なのかい?」

 ああ、違った。そんなはずがなかったのだ。私がこの半年間、苦しみながらも彼を待つためあの場所で戦い続けたように、彼だって私に並び立つことを夢のひとつとした上で、あの島で特訓を続けてきたのだ。私も彼も、ダメになってなどいるはずがない。

「そうじゃない。もう、そうじゃなくなったんだ」
「うん、そうだろうとも」
「分かった、少し頼り方を変えてみるよ。貴方のアドバイスを無駄にはしない。きっと何かが動くはずだ。いい方向にかどうかは……断言する自信がないけれど」
「大丈夫だよ、みんなキミのことが大好きなんだから」

 ここに来てからの間、何度か繰り返されたその言葉を笑いながら指摘すれば、彼は何を今更といった表情になり、逆に笑い返されてしまった。

「博士や僕の言った言葉のこと? 本心さ、嘘やお世辞なんてちっとも混じっちゃいない。キミやルイのことがみんな大好きなんだ。誰もがキミのことを好きになる。そしてキミもこうして、世界に蔓延る苦しみごとひっくるめてみんなのことが好きになる」
「……」
「キミたちみたいな子に『責務』があるとするなら、僕はこれだと思うんだよ」
「みんなに愛され、みんなを愛することだとでも?」

 歯の浮くような言い回しだ。こんなものを私の責務とするなんてそれこそ馬鹿げていると思う。私は博愛主義者ではないし、万人に好かれるような性格をしているとも自分ではとても、思えない。
 ただ、その言葉の後ろに「苦しみさえ抱き込んで」と付加してしまうことで、妙にしっくりときてしまう自分もいて、強ち間違いではないのかも、とも思えてしまって。

「そうさ、だからキミもルイもこうして戻ることになった。キミたちが一番愛すべきところにね。きっとそうなるように出来ているんだよ、この世界の物語ってのは」

 まるで、世界という物語がいずれは正しい形に戻ることをずっと前から確信していたような語り口である。私が此処に留まりルイが二度と戻らない可能性など端から考えていなかったような頼もしい笑顔でもある。ただ、ずっと私の葛藤に寄り添ってくれていた彼が、捻れたままの物語を想定していなかったはずがない。きっと不安だったはずだ、恐れもしたはずだ。それでもルイと私のことを信じてくれた。彼の構えたカメラのピントは最終的に、やはりこの物語に対してさえもぴったり合ってしまうのだった。

「ポケモントレーナーであるキミの苦痛とはちょっと違うかもしれないけれど、ボクも写真を持って社会に出ていくとき、やさしくない目に遭うことがあるんだよ」
「えっ、貴方のような人でも?」
「そうとも。だからたまにとても……その、へへ、うんざりするのさ」

 彼の慧眼に敵うレンズなど、この世界の何処にもないと思っていただけに、そんな彼が写真の界隈で生き辛さを見ることがあるという、その告白にはひどく驚かされた。けれどもしかしたら、彼の「撮りたい写真」と、社会の「見たい写真」の間には、私のバトルと同じような「ズレ」が少なからずあるのかもしれない。彼にもまた、写真業界を盛り上げたりフォログラファーの熱を支えたりとかいう、彼が本来負う必要のない責務のようなものがのしかかってしまっているのかもしれない。そうすなわち、「うんざりしている」のは私だけではなかったのだ。

「全てにおいて無傷のままにいられる夢のような生き方なんて、何処にもないのかもしれないね」
「そう、だね。世界さえ超えても手に入らないものだった」

 ナップサックに投げ込んだボールは四十を超えた。遠くへ転がったものを薄暗い広場の中、夕焼けを頼りに探しながら一つ、二つと手を伸ばす。彼も作業がそろそろ終わることを察したようで、すっと立ち上がり、ナップサックの口を大きく広げて私の方へと向けてくれた。

「おや、この場所はキミを傷付けたかい?」
「いや全然! でも今日の貴方の言葉はかなり痛かったよ。泣いてしまうところだった」
「あっはは、よく効いてくれたようで何より!」

 最後の一つと思しきボールを手に取り大きく振りかぶる。元の世界に戻ったら、道場で一日だけ過ごしてからあの神様に会いに行こう。そんな思い付きが自然と出てきたことに驚きながら、もう手の震えも一切感じないままに力強く投げられることに安堵しながら、投げ込んだそれがナップサックの中央にきちんと吸い込まれる様を、私はじっと見ていた。
 お疲れ様、と微笑んで彼はナップサックの口を閉め、そのまま私へと歩み寄り、頭を撫でてくれた。

「ね、僕等どうせ苦しくて、何処にいたって夢のようには生きられないんだよ」
「ええ、分かってる。もう、とてもよく分かってる」
「だから休んだっていいんだ。誰が許さなかったとしてもキミだけは立ち止まることを許してあげていいんだ。そこに罪悪感を覚えなくたっていいし、頼ることや甘えること全部を制限する必要もない。帰ったらそのあたり、もっと上手にやれるといいね」

 こんな、世界さえ取り違えさせてしまうような方法じゃなくて。
 言外に滲み出た言葉さえありありと分かってしまったので、相変わらずよく効く言葉だと思いながらまた笑った。
 そうとも、次こそもっと上手くやろう。貴方がかさ増ししてくれたこの覚悟に相応しい人になろう。私の責務かもしれないものを、果たしてみよう。

「幾つになっても、どれだけ忙しくても苦しくても、自分のための場所、大好きなもの、大事な人との時間は抱えておくべきなんだ。どうしようもない理由で離れゆくものでもある以上、自分の意思で抱え置ける分はそのままにしておくべきだ。一時の平穏のために手放して、なかったことになんかしてしまうと、いつか必ず後悔する」

 一度は口を閉めたナップサックを少しだけ緩め、トオルさんはボールを一つだけ取り出して私の手に握らせた。彼のような慧眼を持たない私でも、はっきりと見える。遠からず訪れるその未来、この小さな餞別を何処で誰に使うことになるか、ということが。

「もう放しちゃいけないよ」

 その日、トオルさんは博士お手製の分厚いホットサンドを、五人前、綺麗に平らげた。

2021.10.31

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