9 朝食の片付けと洗濯物干しの手伝いを終えたユウリが「セイボリーさん」と呼びつつ駆け寄ってきた。インテレオンは数歩遅れたところから、視線だけはピタリとその背中に合わせてのんびりと付いてくる。 「ユウリ、本日も朝からお疲れ様でした。疲れていませんか? 食事の片付けも洗濯も当番制で、本来あなたが毎日こなさずともよいものなのですよ」 「お皿を洗うのも洗濯物を干すのも好きですよ? 今の私にできることが次々に見つかるのは、何だかこう……宝探しをしているみたいで、楽しくて」 すぐ傍にある「モンスターボールを握る」という、かつての彼女にとっての至上の宝には目もくれず、今のユウリは道場内の様々な雑務をミセスおかみと共にこなす日々を送っている。彼女が選んだ平穏であり、道場の皆が暗黙の了解と共に守り続けた平穏でもある。 かつての彼女について話して聞かせることが、その平穏にメスを入れることと同義であることは承知している。とんだ荒療治だ。記憶の有無による隔絶をまざまざと直視することで、互いに傷付き、血と痛みを伴う結果になる予感だって少なからずしている。それでも互いの同意の上、話すことを選んだのだから躊躇ってなどいられない。ユウリもまた、同じ意思をもって今、セイボリーの元へ来たのだろう。 「さて、何処から話しましょうかね」 「何処から、の前に、何処で話をするか決めませんか?」 少し声を潜めた形でそう提案され、これではまるで我々が共犯のようだ、と少々おかしな気持ちになる。これまでは道場の皆が「隠す」という罪の共犯、今からはこのユウリが「明かす」という罪の共犯。かつてのユウリを隠すにせよ、明かすにせよ、セイボリーは犯罪者の様相を呈さずにはいられないようだ。 問題ない。大罪人でもならず者でも構いやしない。あくタイプに魂を売ることさえ厭わない。それがユウリのためであるならば大抵のものにはなってやれる。 「ふむ、いいでしょう。何処か希望があるのですか?」 などと思いながら尋ねた彼を真っ直ぐに見上げて、彼女は少々驚くべきことを言った。 「集中の森に行きましょう。ずっと、あそこに行きたいと思っていたんです」 * 背の低い草を踏み拉く二人分の音。ポケモンの高い声と風の低い声。少し湿度の高い空気からは花と木の蜜の香りがする。同じヨロイ島にありながら、この集中の森の様相は一礼平原や清涼湿原とは一線を画している。 大きな木々の隙間から降る木漏れ日は、ポケモントレーナーであるセイボリーには心地良いと感じるばかりだが、開けた場所である平原や湿原と比較してみると、少々不気味に感じられなくも……ないかもしれない。ユウリがあの日「怖かった」と口にした理由に今、ほんの僅かながら同調できた気がした。 「あなたが此処に来たいと言い出すとは少々予想外でした。あの日のあなたは……随分と怯えていましたから」 「そうですね、トレーナーとしての戦い方を知らない状態で入るには、やっぱり怖い場所だと思います。ただ今はセイボリーさんもインテレオンもいますから、大丈夫ですよ」 怖くない、と示すように眉を上げてにっと微笑んでみせる。笑顔を作れるだけの余裕があることに安心して、セイボリーはそうでしたかと同意しつつ歩を進めた。 「それに、私が元に戻るためにはいずれ、此処には来なきゃいけないような気がしていましたから」 「此処に? どうしてです?」 「私の……記憶は、此処で途切れていたみたいですから。取り戻さなきゃいけないものがあるとすれば、きっと此処に置き忘れているはずだと思ったんです」 早く戻らなければならないと思っている。先日彼女はそう口にした。皆でひっそりと作り上げた平穏に甘んじる傍ら、彼女は密かに焦っていたのだろう。セイボリーが先日、一歩を踏み込み共に外出する機会を得たことで、彼女の失せ物探しにも貢献できるというのなら、それは願ってもないことだった。 彼女の置き忘れてきたもの。思い出や記憶や、愛着やその他諸々の全て。かつての修行の折、どちらが先に見つけるかを競い合ったあのダイキノコのように、はっきりと目視ができるような圧倒的存在感のあるものであればよかったのにと思う。 こんなにも互いにとって大事なものであるはずなのに、思い出も記憶も愛着も、目に見えず触れられない。加えてこれらはセイボリーだけが持っていてもただ虚しいだけのものだ。彼女と共有できないのであれば、ほとんど意味がない。 「あこれ、そんな隅を歩いては川べりに足を取られますよ」 傍を歩いていたはずの彼女がほんの少し先を行き、川のすぐ近く、小さな崖のようになった少々危なっかしい位置を歩いていたため、セイボリーは歩幅を大きくしてすぐさま追い付き声を掛けた。小さな肩に右手で触れ、左手でそっと、足を滑らせる危険のない方へと手招きする。彼女は素直にセイボリーの誘導に従って川べりから遠ざかり、ありがとうございますとお礼を言ってから、何か面白いものを見つけたかのように、細めた目を彼へと滑らせつつクスクスと笑い始める。 「セイボリーさんって、本当はこんなにも優しい人だったんですね」 「なぬ!? 優しい? そ、そんな訳がないでしょう。必要に応じてエレガントなエスコートをすることはやぶさかではありませんが、基本的にワタクシは……」 一呼吸おいてから、セイボリーはかつての互いにとって大事な言葉を、自らの喉に染み込ませるようなしっとりとした語り口で宣言する。 「ワタクシは、あなたと同じく『質の悪い』人ですから」 「……あれっ? ふふ、どうしてそんなに誇らしげなんですか? 質が悪いって普通、誉め言葉じゃありませんよ?」 「ええ、ええそうでしょうとも! ですがこの質の悪さこそが、この島に来た当初からずっと品行方正であったあなたと、少々性格に問題のあったワタクシとの間に認め合えた、初めての『揃い』であり、絆のようなものだったんです」 彼女は歩幅を小さくしてゆっくりと歩きながら、肯定も否定もしないまま静かに黙してセイボリーを見上げた。続きを語ることを許されているような心地になる。彼女の許可さえ得られるのならこうしたことをいつまでも話していたいとさえ思う。そうした浮足立った心地を誤魔化すように、コホンと咳払いをひとつ挟んでから再度口を開く。 「ま、まあ? ガラル本土であなたが仲良くしていたのは、お利口で優秀なトレーナーばかりだったようですから? 年長の分際で大人げない態度ばかり取るワタクシと一緒にいるのは、あなたにとっても新鮮で楽しいものだったのではないでしょうか」 「それじゃあ私、貴方とお揃いだっていうその『質の悪さ』で、本土では皆さんに迷惑ばかり掛けていたんでしょうか」 「そんなことはありませんよ! 少なくともワタクシの知る中では、あなたは誰よりも理知的で聞き分けがよくて、皆さんからの評判も上々で……大人よりもずっと大人びていました。誰もがあなたのことを好きでした」 そこまで話したところで、彼女の足が止まった。何かマズいことを言っただろうかと僅かな不安を抱きかける。しかしどうやら杞憂だったようで、彼女はこちらを見上げてにっと笑い「成る程?」と首を傾げてみせる。懐かしさに心臓を撫でられる心地を覚えるのと、彼女が楽しそうな声音でとんでもない爆弾を落とすのとが同時だった。 「だから私、『質の悪さ』を喜んでくれる貴方のことを好きになったんですね」 「……はい!?」 セイボリーの大声に驚いたらしきピカチュウとモンジャラが、遠くの草むらからぴょんと飛び出して川上へと駆け出していく。彼女は「そんなに驚かなくても」と揶揄い混じりに告げてきたが、そんなことを言われて平静を保っていろという方が無理な話だ。 「い、いやそのワタクシ確かに『ワタクシがあなたを好きだった』とは言いましたが!」 「ええ聞きましたよ。えっと、何か問題がありましたか?」 「大アリですよ! あ、あなたがワタクシをどう思っていたかなんて、今のあなたには分かりようのないことでしょうに!」 「分かりますよ、そんなこと」 また違和感。この少女に覚えるそれは日増しに大きくなるばかりだ。かつてのユウリと今のユウリとの不一致、その原因。しかしセイボリーには未だ「その」確証が持てない。推理に穴があるうちは語るべきではない。まだ謎解きの時間には相応しくない。 「貴方のことを何も知らなくても、元に戻れなくても、これだけは分かります。私は貴方が好きだった。貴方と同じように、私がきっと一番、貴方のことを好きだった」 2021.10.10
800歩先で逢いましょう(第一章)