8 彼女は視線をふわふわと彷徨わせながら「あの」と言いにくそうに口を開いた。 「そんなことをして、セイボリーさんは……大丈夫ですか?」 「なぬ?」 「だって貴方、私のことが好きだったんでしょう」 心臓を冷たい手で撫でられるようなおぞましい心地がした。つい先程まで容疑者であったはずの彼女が為す、ぎこちないながらも的確な謎解きに、セイボリーは言葉を忘れて固まることしかできない。 「この道場の皆さんに以前の私が好かれていたことは理解しているつもりです。皆さんが私を大事に思っていてくれていた分だけ、今の私への気遣いを沢山してくれていて、その気遣いの連続に、ちょっとだけ疲れ始めていることも」 「……」 「子供たちやミツバさんも時折、苦しそうな顔をします。でも貴方がいつも一番苦しそう。だから何となく分かります。きっと貴方がこの中で一番、私のことを好きだった」 これまで、道場の皆が為してきた、彼女の平穏を守るための細やかな配慮。それを知らないのは彼女だけなのだと思っていた。全員が共犯となって行われ続けた、気遣いという名の犯行に、今の彼女が気付いているはずがないだろうと。 けれど違った。ユウリの慧眼と洞察力は今の彼女にもそのまま根付いており、その才能をもってして、彼女はセイボリーの最も暴かれたくなかったところに手を差し入れ、容赦なく開いていく。この追い詰められる感覚は、かつての彼女と毎日のようにしたポケモンバトルで感じたそれにも似ていて、こんな時だというのに妙に、懐かしい。 「早く、戻らなきゃいけないとは思っています。戻りたいとも思っています。ただそのために、よりにもよって貴方に私のことを話させるのは、あまりにも酷な気がします」 その懐かしさに繋ぐようにして、こんな面白い言葉まで出てくる始末だ。記憶を失くした彼女が為す、既視感のありすぎるお上品な「配慮」に、セイボリーは思わず喉でくつくつと笑ってしまう。似たことが前にもあった。ユウリが道場で暮らし始めてすぐの頃に起きたちょっとした論判であり、二人の転換点にもなった大事な出来事でもあった。 ねえユウリ、あなたの配慮は相変わらず、いっそ不気味な程に優しすぎる。 「そんな配慮は不・必要です。クタクタに煮込んでヤドンのサパーにでも出して差し上げなさいな」 あの頃の語り口をなぞるように、やや声を荒げてそう告げる。驚いたように目を見開く彼女の有様もまた懐かしくて、少し楽しくなる。 「あなたは昔から配慮が下手でした。あなたの配慮も献身もいつだってとんだ的外れでした。それが原因で喧嘩になったこともありました。もう、半年も前のことですが」 今の彼女が覚えているはずのないこと、このような雑な説明では思い出すことも叶わないようなこと。それでもセイボリーにとっての「大事な思い出」をなぞることで彼の心は満たされた。彼女について話すことで救われるのはもしかしたら彼女ではなく、むしろセイボリーの方であるのかもしれなかった。 だって今、覚えてもいない話をされている彼女は眉を下げて困ったようにしているだけだというのに、セイボリーは場違いながら、ほら、こんなにも嬉しくなっている。 「大事な思い出なんですね」 そして、覚えていないながらも彼の嬉しさに同意するかのように、その思い出の尊さを他でもない彼女が柔らかな笑顔で認めてくれるものだから、彼はもう、これだけで十分だとさえ思えてしまう。 「貴方が……どれだけ私のことを話してくれても、貴方が好きになってくれた私は戻ってこないかもしれない」 「そんなことを今のあなたが気にする必要はありません」 「教え甲斐のない空っぽのままの私のことを、見限りたくなってしまうかもしれない」 「そんなことは天地がひっくり返ろうとも、ええ絶対に在り得ません」 懐かしい遣り取りに、先程とはまた違う意味で心臓を撫でられているような心地になる。魂の奥深くを抱き上げられ、あやされているような感覚。きっと何度だってやり直せるはずだ、などという傲慢めいた確信さえ抱けてしまいそうな幸福感。こうした些末な奇跡の瞬間に臨むためなら、きっとセイボリーは星の数程の言葉さえ尽くすだろう。 「あなたのご推察通り、ワタクシはあなたのことがずっと好きでした。そんなあなたのためなら多少の傷など構いやしません。舐めないでいただきたい」 末尾の語気を強めて宣言する。驚きに目を見開いてから、彼女は右手で口元を隠し笑い出す。告白にも似た宣言を面白がっているようにも、憂いを強引に奪い取るための少々乱暴な言葉遣いに呆れているようにも見える。どちらにせよ喜ばしいことには違いない。彼女はきっと、セイボリーがかつての話をすることを許してくれるだろうから。 「分かりました、教えてください。私に、かつての私のことを」 「ええ。……ええ勿論です」 「でも、念のためにこれだけ言わせてくださいね」 果たしてセイボリーの予想通り、ユウリは彼の提案を受け入れた。けれどもそこは以前の豪胆さを忘れた彼女らしく、念押しと称してこんなことを口にしてきた。 「私が元に戻れなかったとしても、貴方が好きになったユウリをどうか嫌わないで」 その言い回しに若干の引っ掛かりを覚えつつ、セイボリーは勿論ですと首肯して手を差し出した。躊躇うことなく握り返してきた彼女から、先程のハンカチに染み付いていた甘い香り……セイボリーの関与を許さない「大事な思い出」の香りがした。 『貴方が好きになってくれた私は戻ってこないかもしれない』 実のところ、セイボリーにはずっと「違和感」がある。今のユウリとかつてのユウリが違うこと、その差異を記憶の有無だけで説明しきることへの「無理」を、彼は集中の森で彼女を捕まえたあの日から、ずっと、ずっと感じている。 2021.10.9
800歩先で逢いましょう(第一章)