800歩先で逢いましょう(第一章)

 その後、子供たちに追い付かれて道場へと連れ戻された砂まみれの二人は、ユウリの予想通りミセスおかみに苦い顔をされ、すぐ脱衣所へ押し込められた。そのままユニフォームから靴下までほぼ全ての衣服を丸ごと洗濯して、夕食前にスッキリとシャワーまで浴びることになったため、セイボリーは夕食を食べ終えるまで、ユウリとあのような追いかけっこをするきっかけになったあの疑惑をすっかり忘れてしまっていたのだ。

「お待ちなさいなユウリ!」

 おそらくは彼女も忘れていたのだろう。何故呼び止められたのか見当もつかない、といった調子で振り返りつつ「どうしたんですか」と首を傾げてみせた。

「先程の騒動で忘れていましたが、その、あなたにフケツの容疑が掛かっているのです」
「えっ不潔!? そんな……誤解です!」

 以前は中性的な物言いと探偵めいた慧眼や洞察力で相手を暴く側であったはずの彼女が、容疑を掛けられ慌てた様子で釈明をしている様子はセイボリーを少々愉快な心地にさせた。記憶を取り戻した彼女はこの日のことをどのように振り返るのだろう。「容疑者になるのもなかなかに痛快だった」と笑うだろうか、それともバツが悪そうに「冤罪はいただけないね」と目を細めてみせるのだろうか。

「ええ、おそらく冤罪なのだろうとは思っていますとも」
「ふふっ、容疑とか冤罪とか、まるで探偵みたい」

 それはワタクシではなくあなたの代名詞ですよ、という言葉を飲み込んでセイボリーは笑う。記憶の喪失が生む以前の彼女とのズレは相変わらず耐え難いが、その傷を抱えながらも彼は笑えている。笑うことができるようになっている。二人の間に流れる空気は、この不思議な日々が始まった頃よりずっと、いい。

「子供たちが『ずっと洗濯を嫌がっている』と言っていました。あれは本当ですか?」
「ああ、きっとこのハンカチのことですね。確かにこれだけずっと洗濯せずに取っておいたから、わざと汚れたままにしていると思ったのかも」

 そう告げて彼女がポケットから出したのは、隅に白い小さなリボンの装飾が施されたハンカチだった。薄い透明のポリ袋に入れられたそれは、さながら犯行現場に残された証拠品のよう。濃いピンク色のそれを両手で大事そうに包み込み、リボンを人差し指で撫でつつユウリは口を開く。

「ポケットに入れているだけで一度も使っていません。普段使わせてもらっているのは、ミツバさんに貸していただいた別のハンカチです。勿論そっちはちゃんと洗濯していますから。ね、問題ないでしょう?」
「そうでしたか。であればあの少年にもそのように説明すればよかったのに」
「だって問答無用で取り上げようとしてくるから、焦ってしまったんです。触られたくなかったので」

 触られたくない?
 ユウリはそのような、妙な潔癖を持つ人間ではなかったはずだ。記憶を何処かに置き忘れてきた今の彼女だって、そのような態度をこれまでは示してこなかった。この数日で急に潔癖と化したとは考えにくい。であればきっと、理由はユウリ自身にではなく、そのハンカチの方にあるのだろう。
 彼女はそっと微笑み、ポリ袋からハンカチを取り出して、ゆっくりとセイボリーの鼻先に差し出してくる。触れないように注意して顔を近付けると、僅かではあるが甘い……バニラを使ったお菓子を彷彿とさせる香りがした。成る程、誰かに勝手に取り出されて、この香りが薄れることを恐れたのだろうと納得する。納得して、不安になる。

 彼女の持ち物から「甘い香り」がしたことなど、未だかつてなかったからだ。

「思い出深い香りが、記憶を呼び起こすきっかけになることがあるみたいです。プルースト現象っていうんですよ」
「思い出深い香り……」
「だから、誰かに触らせたり洗濯したりして、この香りを失くしてしまいたくないんです。きっと、私にとって大事な香りで、大事な思い出でもあるはずだから」

 強烈な無力感と虚しさが一気にセイボリーを襲った。その「思い出」に彼が含まれていないことが否応なしに分かってしまったからであった。

 少なくともセイボリーは、そのような香りをユウリとの記憶の中に微塵も感じられない。彼女は花と紅茶を好む人でこそあったけれど、スイーツ作りの趣味などないはずだし、その香りを好んで付けている姿など見たこともない。そのようなユウリを彼は知らない。
 ならばセイボリーのいないところで「そのようなユウリ」が出来上がったということだ。大事な思い出とやらはセイボリーのいないところで形成され、そして今、記憶を失った彼女にさえ大事と言わしめる程の大きさにまで膨れ上がって、そのポケットを専有するに至っている。

「このハンカチはあなたのものですか?」
「……えっ、そうですよ。だって私のポケットに入っていたものなんですから。当たり前じゃないですか。どうしてそんなことを?」

 だってあなたがいつもポケットに入れていたのは、そんな色のハンカチではなかった。あなたはそんなピンク色を好む人ではなかった。
 あなたは無地の水色のハンカチを毎日飽きずに洗濯しては「ほら、君の色だよ」とセイボリー自身に恥ずかしげもなく見せびらかして得意気に笑ってくれるような、そうした人だった。

 ユウリがヨロイ島を不在にしたあの数か月の間に、彼女のポケットの中身は無地の水色のハンカチから、ピンク色の、甘い香りのするハンカチに置き換わった。そのポケットの中身を入れ替えてしまう程度の何かを彼は知らない。その「思い出」にセイボリーはおらず、彼女の大事なものに触れる権利をセイボリーは持たない。

「いいえ、何でもありません。以前一緒に修業をしていた折には見かけたことのないハンカチだったので、気になっただけなのですよ。お気になさらず」

 ハンカチの色が変わっただけ。慣れない香りに驚いただけ。そういうことにしていたい。けれども自身の水色をこよなく愛してくれた以前の彼女の面影がそれを許さない。
 ヨロイ島を離れてからの彼女に、何が起きたというのだろう。この道場へ戻ってきてすぐ、青白い顔で「外の世界は少し、寒かった」と語った彼女に、セイボリーの色だとした水色のハンカチを厭わせた何かがあったのだろうか。
 分からない。推理はかつてのユウリの専売特許であり、セイボリーの得意とするところではない。今のセイボリーでは彼女の謎を解いてあげられそうにない。

「ふふっ」

 そうした憂いを湛えていたセイボリーの前で、彼女は何かを面白がるようにクスクスと笑ってみせた。どうしたのですと尋ねれば、僅かに頬を染めながらこんなことを口にする。

「セイボリーさん、私がどんなハンカチを持っていたかまで把握しているんですね。私のことで知らないことなんか、貴方にはないんじゃないかとさえ思えてきます」
「……そ、うですね。少なくとも今のあなたよりは、ワタクシはあなたについて詳しいと思いますよ」

 半ば虚勢を張る形でセイボリーはそう告げた。分からないことだらけではあったものの、この惨状だって、全てを忘れた彼女の有様よりはマシなはずだ、などという誰も得をしない意地を張りたくなったのは、彼の……生来の質の悪さによるものである。
 ユウリはそうした彼の意地悪な言葉に機嫌を損ねたりはせず、若干不本意だがその通りだ、と同意するように柔らかく笑う。細めた目は現状を悲しんでいるようにも、寂しがっているようにも、何かを悔いているようにも見える。再びポリ袋へと仕舞われたハンカチをポケットに入れながら、細めた目をなかったことにするかのように明るく笑って首を僅かに傾ける。

「皆、いいなあ。私よりもずっと私のことを分かってる」

 そう呟いた彼女の心がほんの僅かにこちら側へと開かれているような気がして、セイボリーはそこへ腕を捻じ込むかのような必死さで身を乗り出す。驚きに目を見開いた彼女へと、半ば懇願するように提案する。

「話しましょうか」
「え?」
「ワタクシが教えましょう。その、ワタクシが知るあなたのことを」

2021.10.8

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