16 ユウリを知らないか、とミセスおかみに声を掛けられた。もう夕食の時刻まで五分もないというのに、あの妹弟子はまだ道場に戻っていないらしい。セイボリーのことをユウリ探知機か何かだと思っているのか、こういう場合、ミセスおかみを筆頭に、道場の中で構成されるこの「家族」は口を揃えてセイボリーの名を呼ぶ。君なら知っているんじゃないか、ちょっと連れ戻してきてくれよ。そういった具合だ。ついでに少しばかり二人の時間を楽しんでくるといい、といった余計な気遣いさえ、年長者の眼差しからは読み取れてしまう。 というのがつい二週間前の話。そして全く同じことがたった今起こっている。この二週間ほどで、セイボリーのユウリ探知機の精度は格段に上がった。さて何処から探したものか、などと迷うまでもなくなっていたのだった。 「ああ、置いていかれてしまったのですか。狡いことをする人ですね、あの子も」 そう……いつもユウリの傍に付いていたインテレオンが一人道場へ残されていること、何かを訴えるようにセイボリーを見つめていること。それだけでもう、今から起きようとしていることの推理など粗方すぐにできてしまう。 「あなたも一緒に行きますか? まだお別れを言い足りないのでは?」 「……」 「いつもいつでもいい子である必要などないのですよ。あなたも、あの子も」 いつだってスマートで紳士的な彼に「質の悪さ」というものを教え込むべく、にっと笑ってセイボリーはその黒く大きな手を取った。古くからの友人、というものがもしセイボリーにいたなら、こんな風に手を取り合って、夕食の時刻ギリギリであることもお構いなしに外へと遊びに繰り出したのかもしれなかった。存在しない過去であるにもかかわらず、誰かの手を取ったり手を繋いだりする行為は彼へと妙な懐かしさを与える。きっとそこには「自分はこうして誰かの手を取れる人間になったのだ」という、自身への感慨が多少なりとも込められている。 清涼平原の水溜まりを蹴るようにして全速力で駆けた。今回ばかりは黄色い花を気遣うことができず、二輪程蹴飛ばしてしまったが致し方ない。もう間に合わないのではと思っていたが、その背中はすぐに見つかった。セイボリーが昨夜梳かした茶色の長い髪を振り子のように揺らしながら、集中の森の奥へと向かっている。何か得体の知れない……神様どころか怪物じみたおぞましい代物に呼ばれているかのように、その足取りは覚束ない。成る程これでは丁寧にお別れなど言えるはずもない、と思いながら、表面上はただ身勝手にいなくなろうとしているだけに見える彼女を嗜めるべく、努めて明るく、声を投げた。 「ちょっと、お待ちなさいなユウリ!」 「!」 「挨拶もせずにいなくなるなんて許しませんよ! 二億歩譲ってワタクシには知らせずとも構いませんが、同じことをインテレオンにまでするのは酷というものでしょう。お別れの時間くらい作って差し上げれば如何か!」 弾かれたように振り返った彼女は、セイボリーとインテレオンの姿を見て大きな丸い目を更に大きく見開いた。まるでたった今目を覚ました、といった様子だった。運命に引き込まれようとしていたと思しき彼女に別れの猶予を作ってやれたことを確信し、セイボリーはほっと息を吐く。 「あ……」 「フッ、神様の悪戯とやらも大したことはないようですね。しかしこうも簡単に『呼ばれて』しまうなんて、あなた、少し根性が足りないのでは?」 揶揄うように眉を吊り上げてそう告げる。まったくもってその通りだと認めるように、恥じ入るように彼女は頬を染めて笑う。けれどもインテレオンが彼女へと一歩踏み出したのを皮切りに、その笑顔は一瞬にして崩れ、泣き出しそうな表情のまま駆け戻ってくる。 彼女はインテレオンを見上げ、手を伸ばした。インテレオンは大きな黒い手でそっと握り返した。相当の力が込められていると思しきその握手に反して、二者の顔はひどく穏やかだった。一切の言葉がないままに時間が過ぎていった。細められたインテレオンの黄色い瞳は、彼女の旅立ちを祝福する心地と、永遠の別れがすぐそこに迫っていることへの悲しみを、人の言葉などなくともこれ以上ない程に雄弁に、映していて。 「……」 当人たちが涙の一粒も零していないのに、そうした気丈で気高い有様なのに、それを見ているセイボリーの方が、何故だかひどく胸が締め付けられてしまった。二者の代わりに、声を上げて泣いてしまえたらどんなにかよかったろう。 「なにか、こう……予感のようなものがあるのですか? 今再びこの森へと入れば、また世界を飛び越えられるかもしれないという、そうした予感が」 「ええ、今日、今じゃなきゃいけないって言われている気がしたんです。悪戯で勝手に何もかも取り上げておいて、此処が私にとっての避難所になり得ていないと分かればすぐに呼び戻そうとするんですから、本当にうんざりしちゃいますよね」 けれどそんな彼女の言葉がセイボリーを驚かせ、出掛かっていた涙が寸でのところで止まる。それは彼女にしてはとても、とても珍しい悪態であった。ユウリもたまに「うんざりしている」という言葉は使ったが、その対象はガラルのバトル文化など漠然とした大きなものが主で、特定の人やものに向けられることはこれまでなかったように思う。彼女は本当にその神様を疎んでいる、あるいは嫌っているようであった。まあ、このようなことに巻き込まれてしまっては当然の心理だろうとも思うのだけれど。 もっといろんなものを嫌えるようになってほしいと思う。いろんなものに憤りを露わにして、嫌なことは嫌だと声高に知らしめてほしいと思う。子供らしく不満を口にしながら、時に大人にも手が負えない程の不機嫌を貫きながら、それでも戦い続けてほしいと思う。立ち止まることがあってもいいしどれだけだって休んでもいいから、今回のような最低な平穏に甘んじ続ける方法はもう取ってほしくないと思う。 あなたの歩みを端からなかったことにしてしまうような「落とし物」が、今後二度と起こらないでほしいと心から願っている。 「ところで、あの、どうしてセイボリーさんが涙声なんですか?」 「だ、黙りなさいな! 大体あなたこそ、こんな永遠の別れかもしれない場面において、随分と……平然としているじゃありませんか」 いきなり神様に「さあもう帰る時間だ」と告げられたらしい彼女は、立腹こそすれ寂しさや悲しみに圧し潰されてはいないようだった。まあそれも、長く会いたくても会えなかった相手にもうすぐ会える喜びを思えば当然のことなのかもしれない。などと暢気に思っていると、彼女は笑いながらとんでもないことを口にする。 「まあ、私が神様を嫌っているように、神様も私を嫌っているかもしれないから? この悪戯はもう少し続くかもしれませんね? まったく、私、いつ帰れるんだろう」 「フンヌゥ!? ま、まだ続くですって! どういうことです!」 「セイボリーさんが昨日教えてくれた『おめでたい可能性』に即して考えるなら、『世界』は、貴方とクララのためだけにある訳じゃないってことですよ」 はにかみながら随分と厳しいことを口にした彼女は、昨日のセイボリーの語り口を引き取るような穏やかな口調に戻ってそっと呟く。そうなんでしょうと神へ問い掛けるように、世界の惨たらしくも優しい真理を指先でそっと撫でるように。 「誰かによる誰かへの愛の分だけ、世界は分かたれるように出来ている」 「愛の分だけ……」 「私達が認識しているよりもずっと多くの世界があって、今もいろんな神様の悪戯のせいで、多くの捻れが起こっている。だから私はまた別の世界に飛ばされて、困り果てる羽目になるのかもしれない。クララのところへ戻れるのは、貴方が考えているよりずっと後になるかもしれない」 全て、全て可能性の話に過ぎない。けれども運命に愛され、神様の悪戯に振り回されている彼女がそのように口にしてしまえるなら、もしかしたらそれこそが真実なのかもしれないとセイボリーには思えてくる。そう思うしかなくなってしまう。だってセイボリーには、ユウリ以上に信ずるに足るものなどこの世の何処にも、いや世界を跨いだ向こう側にさえ決して存在し得ないのだから。 「でも大丈夫! 貴方がくれた意味のおかげで私、もう怖くありません」 そう宣言して笑ってみせる、その魂の強さはやはり、彼の知るユウリにそっくりだった。もしかしたら、別の場所にいるユウリもまた、誰かとの別れを惜しみながらも、私は大丈夫だと、だからどうか案じてくれるなと気丈に笑っていたりするのだろうか。 ならばセイボリーはそれを信じようと思った。全てを忘れた振りを貫き通そうと躍起になり、ポケモントレーナーであることを拒んでまで仮初の平穏に浸っていた彼女が、再び歩みを取り戻すことを選び、力強く笑って大丈夫だと、もう怖くないと言うのだから、セイボリーにできることはもう、その変化を祝福して送り出すことだけだ。 「……とは言うものの、やっぱり帰れるものなら今すぐに帰りたいな。きっとユウリも同じ気持ちですよ。セイボリーさんだって、この『ユウリ』じゃ嫌でしょう?」 「嫌などと! そんなはずがありません。あなたも十分に素敵な人ですよ。ただあのユウリこそが、ワタクシの……」 「貴方の?」 ワタクシの、何だというのだろう。此処で彼が帰りを待つべきあのユウリを、セイボリーはどう言い表すことができるだろうか。 尋常ならざる妹弟子である。一勝することさえ未だ叶わない無敵のライバルである。恐ろしい程の聡明さと慧眼を併せ持った若く小さな探偵である。恋人という名称で互いを括ることは一旦保留となったが、両者共に認める両思いの状態ではある。いつかの将来、あの立派なシュートスタジアムで共に並び立ち戦うことを誓い合った相棒でもある。このままならない世界を共に生き抜きたいと願える最高の戦友である。あとは。 『君は、君だけは私におかえりと言って。ずっとそうしていて。いい?』 ああ、そういえばそんなことさえも言ってもらえたのだったか。そう思い出してセイボリーはふっと笑う。ねえユウリ、あなたワタクシのいないところで、ワタクシ以外の者にただいまなどと言ったりしていないでしょうね? 「いつか家族になる人である、というだけの話で」 ユウリはぱっと顔を赤くして口元を押さえた。とんでもない惚気にショックを受けているのだろうかと焦ったが、一度飛び出した言葉はもう引っ込めようがなかった。彼女はしばらくそうして固まっていたけれど、やがてふっと笑いながら「ええ、必ず叶います」と力強く同意してくれたので、他ならぬ彼女の太鼓判を貰ったセイボリーはもう、そうなる未来を疑えなくなってしまったのだった。 2021.10.17
800歩先で逢いましょう(第一章)