14 二人して靴やズボンを冷たく濡らしたまま道場へ戻り、いつかのように呆れた顔をしたミセスおかみに背中を押されて風呂場へと送り込まれた。数日前は砂を洗い流す目的で手早くシャワーを浴びただけだったが、今回は体を温める目的のため、たっぷりのお湯に顎まで浸す形で入浴する。ユウリも体を温め直すために本日二度目の入浴をしてきたようで、セイボリーが髪を乾かして出てきたのと同じタイミングで、タオルを肩に掛けたままの姿と廊下で鉢合わせることとなった。 「あなた、髪はちゃんと最後に冷風でケアしたのですか? 随分と荒れたままですが」 「え? 冷風……は使いませんね。一番強い風で一気に乾かしておしまいです」 「おや、ヘアケアに頓着しないところはユウリにそっくりですね」 道場の間に敷かれた畳の窪んだところ、浅い階段のようになっている場所へと腰かけて、おいでなさいなと手招きする。何の疑いもなくストンと隣へ座った彼女の背中、ドライヤーのターボ機能で拭き乱されたばかりと思しき長い髪に通すべく、セイボリーはポケットから櫛を取り出した。同じように、風呂上がりに髪を入念に梳くという習慣のなかったユウリのため、半年前にセイボリーがガラル本土の骨董品店で購入したものだった。 「わっ、綺麗な櫛! これはべっ甲ですか? それともガラス?」 「セルロイドという一昔前のプラスチックですよ。髪を梳かす習慣のない杜撰な妹弟子のため、随分前に調達してきたのです」 「セルロイド……初めて聞きました。ジョウト地方のカンザシにも似ていますね。お花の模様が繊細でとってもお洒落です。ユウリも喜んだでしょう」 それはもう、と食い気味に返しそうになったのだが、ただの惚気になってしまいそうだったのでぐっと押し留めた。「ええ、気に入ってもらえましたよ」と落ち着いた調子で返しながら、長い髪に櫛を通していく。心地良さそうに目を細める彼女の横顔が、あのユウリにぴたりと重なった。 ガラル本土から「寒かった」と言って戻ってきたユウリ、今何処にいるのか分からない自身の妹弟子を思いながら手を動かす。いつか必ず戻ってくるはずだという期待と、まだ長く彼女には会えないかもしれないという不安が脳裏でぐるぐると渦を描く。ざわつく心臓を落ち着かせるように深呼吸をしてから、せめて今の彼女が少しでも暖かい場所……「寒くない」場所にいることを期待したくなり、祈るように櫛を握り直した。 「クララさんに、こういうことをしていただいた経験は?」 「髪は、ありませんね。でも彼女、お化粧が上手なので、よく私の顔にお絵描きしてくれましたよ。私が青白い顔で道場に帰ってきたあの日も、酷い顔色だって笑いながらチークを置いてくれました」 「随分と手先が器用なのですね。エレガントな手腕、羨ましい限りです」 「そう、器用なんですよ! お菓子作りも得意で、クッキーのアイジングなんかお店で売っても引けを取らないレベルなんです。ただ本人はスナック菓子やピーナッツの方が好きみたいで、作った可愛いクッキーは全部皆さんに配っちゃうんですけどね」 早口でそこまで捲し立ててから、彼女はかっと頬を赤くして眉を下げた。惚気の様相を呈していることに気が付いてしまったのだろう。けれどもセイボリーが「それで?」と続きを促せば、しばらく置いた後で再び口を開いてくれた。細められた紅茶の色が至福にふわふわと溶けている。恋をしている目だ、などと断定するつもりはないが、セイボリーは何となく、この二人の関係はただの友人ではないのだろうと推測したくなった。 「ユウリって、私のことを呼ぶんです。憎らしそうに、揶揄うように、たまに優しく、呼ぶんです。私、あの子が名前を呼んでくれる時の声が大好き」 「……」 「だから私が取り換えられてしまったあの日、セイボリーさんが私のことをユウリと呼んだ時、とてもびっくりしました。貴方のその呼び方は、あの子が私を呼んでくれる響きにそっくりだったから」 集中の森で逃げる彼女を捕まえた時の狼狽ぶりを思い出す。セイボリーにとっては「ユウリが彼女に取り違えられた」というのが今回の事件の子細だが、彼女にとっては「自らの大事な人こそが、セイボリーという赤の他人に取り違えられた」ように見えていたに違いない。彼女のいた世界では、こんな風にユウリを呼ぶ声というのは、そのクララという女性の専売特許であったということで……それを奪い取るように現れたセイボリーを警戒し、怯えるのも無理のないことだったろう、と改めて思い直した。 『何なんですか貴方は、そんな風に呼ばないでください』 『まるで、ずっと前から私のことを分かってくれていたみたいに』 ユウリのことを分かっているセイボリーはこの世界にしかおらず、このユウリのことを分かっている女性はこのユウリの世界にしかいない。シショーもミセスおかみも門下生たちも、ヨロイ島の皆はほぼ変わらない形で両方の世界にいるというのに、セイボリーとその女性だけが片側にしかいない。不思議で、不気味で、何だか少し面白い。 まるで、世界という舞台に残った最後の一枠を取り合っているかのようだ。 「どうしてこの世界は一つじゃないんでしょうね」 「え? せ、世界の成り立ちについての議論をなさろうとしています? そういう難しいことは上手く、ワタクシには」 「でもセイボリーさん、仮の答えを持っているような顔をしてる」 聞かせて、と振り返った彼女が目で訴えてくる。髪を梳き終わり、役目を終えたセルロイド製の櫛を布製のケースに仕舞いつつ、セイボリーは「笑っていただいてもいいのですが」と前置きしてから、小さな咳払いの後に口を開いた。 「ワタクシは、この立場に在れた自身の運命を誇りに思っています。ユウリの兄弟子という特別な立場、ユウリと質の悪さを揃えて笑い合えるという唯一の立場、ユウリに絶対の信頼を置き、またユウリにも同じものを置いていただけているという嬉しい立場。どれも等しくかけがえがなく、手放し難いものです。誰にも譲りたくない」 「……ええ」 「きっとあなたの相手も同じように思っている。ワタクシと同じように、彼女もまた、あなたとの運命を誰にも譲りたくないと、手放し難くかけがえがないと思っている」 自らの頬が赤くなるのを感じる。今、セイボリーを見上げる紅茶色の目が本当に「ユウリ」のものだったなら、羞恥のあまり最後まで言い切れず逃げ出していたかもしれない。 「ワタクシたちはあなたを譲りたくなかった。あなたに並び立てる運命を何としてでも手に入れたかった。この世界という舞台において一人分しかないその立場、その役目を、どちらも一向に譲らなかった。だから……舞台を二つ用意する必要があった」 きっと今、自分は世界中のどんな告白よりも恥ずかしく、傲慢で驕った夢物語を口にしている。ただの妄想だろうと笑われても仕方のないことばかり話している。それでも。 「ワタクシたちの我が儘のせいで、世界が分かたれた。そのようなおめでたい可能性に即して考えるなら、あなたやユウリが苦しんでいるのも全て、ワタクシたちのせいだということになりますね」 それでも、今回の事故が彼等に与えた寂しさと苦しみに、セイボリーの言葉で見出せる意味があるとするならば、きっとこういうことになるに違いない。 舞台の主役が愛された分だけ、この世界は分かたれるように出来ているのだ。 「貴方がたの、せい」 「ええ、その・とーり! ワタクシたちがあなたを頑として譲らなかったせい!」 おどけた口調でそう告げれば、彼女はふっと視線を逸らして前を向き、お腹を抱えて笑い始めた。ユウリよりも少しだけ高いその音は本当に楽しそうで、セイボリーはいよいよ安心する。けれども「そっか」「なあんだ」と笑い声の合間に零れる声は少し震えていて、再びこちらへと向けられた目には涙が溜まっていて、それでも小さな口は笑顔の形をしていたから、崩すまいと必死であることがありありと分かってしまったから……。 「貴方がたがくれたものなら、きっと怖がることなんて何もありませんね!」 だからセイボリーは、成る程自分の陳腐な空想劇を泣き笑いになる程面白がってくれたのだと、そういう風に、騙されてみることにした。それだって彼女の心からの言葉であったのだと、そういう風に思ってみることにしたのだった。 「じゃあ、やっぱり戻らなくちゃ。だってクララが勝ち取ってくれた世界なんだもの。私が戦う舞台、生き抜く舞台は、彼女のいる世界であるべき。そうでしょう」 ええ、きっとそうですとも。 こちらにとてもよく似た舞台で、彼女は今もあなたを待っている。 「見ていて。私、この寂しさや苦しみさえ愛してみせます」 2021.10.15
800歩先で逢いましょう(第一章)