800歩先で逢いましょう(第一章)

13

 夜風と嗚咽の音が混ざる湿地に腰を落として靴とズボンを濡らしたまま、セイボリーは徐に人差し指を伸ばした。足元を指差し、宙でくるくると回しながら、先程降らせたばかりの黄色い花弁を掻き集める。水色に淡く光るそれを水辺へと送り出し、一か所に丸く固めれば小さな月が出来上がった。

「寂しかったでしょう」

 ジョウトやカントーという遠くの土地では、春に咲く花が水辺に散ってひとかたまりになる様を「花筏」と呼ぶらしい。そんな洒落た単語になぞらえて、彼女はセイボリーが作るこれを「月筏」と称し、愛でた。彼女との……大事な思い出のひとつだ。

「ワタクシも寂しかった。あなたが代わりに来てくださらなければ死んでしまっていたかもしれません」
「……さ、寂しすぎて?」
「ええ、あなたの不在が寂しすぎて」

 ようやく顔を上げてくれた彼女の顔を、水色に光る月筏がそっと照らす。紅茶色の目は泣き腫らしたせいで長く煮出し過ぎたようにその色を濃くしている。服の袖で綺麗に拭い取ったらしく、柔らかく笑ってくれたその頬に、もう涙の跡は見当たらない。

「あなたの元いた世界とこちらの世界では、ワタクシの立場を含めて、違う点が幾つかあるようですね。クララさんというのがあなたの……姉弟子ですか?」
「ええ。こっちでは、ヨロイ島で私を出迎えてくれたのは貴方とは違う別の女の子でした。貴方とは似ても似つかない、口が悪くて計算高くて悪辣なところのある人です」
「あく……散々な言い様ではありませんか!」

 会いたくて堪らないであろう相手をそのような言葉でこき下ろすユウリの姿は、セイボリーを多分に驚かせた。驚愕の弾みで、作っていた月筏がはらはらと水辺に広がり零れていく。ユウリは何故か得意気に「本当のことなんですよ」と笑いながら告げた。その弾んだ声音は、互いに揃えた質の悪さを喜ぶあのユウリにとてもよく似ている。
 きっと彼女たちも、そうした互いの悪辣なところを喜び合ったことがあるのだろう。

「戻りたいなあ。また前みたいに道場で楽しく罵り合っていたい」
「なんだかワタクシ、そのクララさんという方のことが心配になってきました」
「ふふ、彼女も言い返してくるからおあいこですよ? じゃれ合いみたいなものです。立場や責務を全部忘れて、道場で子供みたいに喧嘩している時が一番、幸せだった」

 立場や責務、という言葉にセイボリーは引っ掛かりを覚える。そういえばユウリも時折「ガラル本土でのポケモンバトルにはちょっとうんざりしている」と話していた。観客のいない道場のバトルコートで戦う時間をこよなく愛した彼女もまた、このユウリの言う「立場や責務」に苦しんでいたのだろうか。もしかしたら……この夏の終わり、道場を離れてからも一人で、ずっと?

「逃げ出したいと思う、と先程言っていましたね。その願いがあなたを此処へ連れてきたのでしょうか?」
「世界を捨ててまで逃げ出したいと思ったつもりはなかったんですよ。ただ、私のこれまでを全部なかったことにしたくなるような思いを何度か持ったことは否定しません」
「とても……大変な思いをしていたのですね。ただそこまで思い詰めるより先に、その彼女を頼って差し上げればよかったのでは」

 思わず零したその言葉を、不満もしくは叱責と取られてしまっていないだろうかとセイボリーは慌てる。そんな彼の心中を察したのだろう、気にしていないというように彼女は首を振ってくれる。

「頼ろうとしたんですよ。だから私、逃げるようにあの雪原から飛び出して、道場へ戻ってきたんです。きっとユウリも同じように考えて此処へ来たはず。もう貴方しかいないと思ったんでしょうね。でも貴方に打ち明けるより先に、取り違えられてしまった」

 ユウリが取り違えられた少し前、青白い顔で道場へと戻ってきた彼女を思い出す。あの時の彼女が零した弱音らしきものといえば「島の外はとても寒かった」というくらいのものだった。少し痩せた肩に掛かる、あれから一度も切っていないと思しき長く伸ばされた茶色い髪を、目を閉じればすぐにでも思い出せる。
 もっとこちらから声を掛ければよかった。何かあったのかとすぐに問いただせばよかった。彼女の躊躇いをひとつ残らず取り払って、何でもいいから話してごらんなさいと強く促せばよかった。いずれ話してくれるだろうという甘い信頼が油断を生んでいた。

「ユウリが此処にいないのは、貴方のせいじゃないんですよ。勿論、私が此処にいるのだって、クララのせいじゃない」

 セイボリーがもっと注意していれば、防げたかもしれない事故だった。そうした彼の心を読んだかのように、彼女はつい先程のセイボリーがしたように、貴方は何も悪くないとして罪悪感という荷物をそっと引き取っていく。どちらかだけが身軽にならないようにと言葉を尽くしてしまう、そんな気質が、世界さえ飛び越えたこの二人の間に揃っていることが少しおかしく、嬉しい。

「私が、逃げ出したいなんて思ったせいです。そのせいで、神様の機嫌を損ねてしまったんだと思います」
「神様……」
「もしくは、罰が当たったのかもしれませんね。私のすべきことから逃げ出そうとした罰、これ以上背負いたくないと我が儘を言った罰が」

 彼女の発言にたまに出てくる「神様」は、ユウリがセイボリーの水色を称賛するときに使う「神様」とは意味合いが異なっているように思う。抽象的な創造主としての神ではなく、もっと具体的な何かを恐れているかのように紡がれているのだ。
 これはセイボリーの勘に過ぎないが、きっとユウリは「神様」に類する何かに出会ったことがある。ユウリを愛した稀有な運命たちが二者を引き合わせてしまったのだろう。
 神話に登場するポケモンさえ彼女を慕った。ムゲンダイナまでもが彼女のボールに収まった。同じようにユウリはその雪原とやらで似たような存在の神に出会い……そして、目を付けられてしまった。その結果がこの「神様の悪戯」だ。そう考えれば、この奇怪な現象にもある程度の合点がいくように思われた。
 でも、我が儘は罪だろうか。神様に裁かれなければならない程の悪事だろうか?

『逃げ出したいと少しでも思うのはそんなに悪いこと? 帰る場所と大事な人を世界ごと取り上げられなければならない程に?』
 ええユウリ、その憤りはもっともなことだ。ワタクシにだってとてもそうは思えない。

「我が儘くらい、許してくださってもよかったでしょうに。聞き届けられるかどうかはさておき、ワタクシの駄々捏ねを道場の皆さんはいつも笑って許してくださいますよ」
「あはは、そうですよね。この道場には我が儘を許してくれる人がいる。貴方を始めとして、大勢。それが嬉しくて、私、こっちでも随分と我が儘を言ってしまいました。そのせいで、ユウリのポケモンたちには寂しい思いをさせてしまいましたね」

 おそらく、自らがポケモントレーナーであることを否定し、ポケモンたちと会うことを拒んだあの我が儘を言っているのだろうとすぐに思い至る。確かにあの駄々捏ねは酷いものだった。幼児返りをしているかのようだった。ただあれさえも「罪」であるようには思えない。少なくとも「罰」を与えられるようなものであっていいはずがない。

「貴方にも……ユウリの不在と、私の平穏を欲しがる我が儘との間で、苦しい思いをさせてしまいましたよね。ごめんなさい」
「いいえ! 確かに苦しみましたがあなた程ではありませんよ。むしろ今は、あなたと一緒にこうして苦しめるワタクシでよかったとさえ思えます」
「ふふ、すごいことを言ってくれるんですね、ありがとうございます。でもきっとこれ以上の苦しみは、きっと私じゃなくて、貴方のユウリと共有して絆に変えるべきですね」
「……ん?」

 共にこれからも苦しんでみせようというセイボリーの宣言をこの上なく喜んだ彼女は、けれどもすぐに表情を真剣なものに変え、その幸せを受け取るべきは「私」ではないとして勢いよく立ち上がった。同様に水辺から体を引き上げた彼を見上げるその瞳から、泣き止んだばかりの頃の赤みはすっかり消え、いつもの綺麗な紅茶色に戻っている。

「どうやって戻ればいいか、何となく分かっているって言ったら協力してくれますか?」
「ええっ!?」

 驚きのあまり再び水辺へとひっくり返ってしまいそうになった。大きく仰け反る形でのオーバーリアクションは彼女のお気に召したようで、お腹を抱えて楽しそうに一頻り笑ってから、その愉快に身を任せるようにしてセイボリーを誘う。

「私と、ポケモンバトルをしてください。それこそが私の……取り違えられる前の世界で本当に逃げ出したかった、捨て去りたかった唯一のことでした」

 ポケモンバトル。それが今の彼女にとってどれ程の勇気を要することかをとてもよく分かっているセイボリーに、ノーと言うことなどできるはずもない。

2021.10.14

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