800歩先で逢いましょう(第一章)

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 記憶のない状態で明らかになってしまった両想いの事実がおかしくて二人、目を見合わせてどちらからともなく笑った。初めて告白に成功した少年のようにはしゃぎ回るつもりはなかったが、それでもこちらの想いを認めてもらえた上で同じものを示し返してもらえるというのは、やはり幾つになっても嬉しいものである。

「ええ……ええその通りです。きっとワタクシは一番に好かれていた。あなたに『君以上の人は何処にもいなかった』とさえ言っていただいたことのある幸福者でした」

 勿論、出会ってからの思い出を有さない彼女にとって、その両想いは「両想いである」という現象の域を出ず、そこに以前の彼女が抱いていたような感情、想いの本質が備わっているはずがないことは承知していた。それでも、以前の彼女がセイボリーにくれた想いの束、今や彼の記憶に留まるのみとなってしまったその花束を指して「綺麗だ」と今の彼女に同意してもらえるなら、それがきっと、何もかもを取り落とした今においては一番の幸いだ。これ以上など望むべくもないだろう。

「ねえ、もっと話してください!」
「えっ」
「私がどれだけ貴方のことを好きだったかは、今の私にも痛い程に分かっているつもりです。でも『どんな風に』貴方を好きだったかは、やっぱり、貴方に聞かなければ分からないことでした。もっと知りたい。教えてください」

 ぐいと身を乗り出し、やや早口に捲し立てた彼女は、そこまで紡いでふと我に返ったように足を半歩後ろへ戻し、いつもの穏やかな下がり眉に戻ってこう付け足す。

「その、貴方の辛くならない範囲で、のお願いです」
「ふ、ふふん。言ったでしょう、そのような配慮は不・必要だと。あなたは大人しくワタクシのエレガントなエスコートに甘んじていればよろしい!」

 自信たっぷりに彼女の懸念を切り捨てたセイボリーは、再び森の奥へと歩を進めながら様々なエピソードを明かした。
 セイボリーと揃いの長さにするためにとして伸ばしていた長い髪を、この森を抜けた先にいるエアームドの「エアカッター」に切られてしまい、珍しく不貞腐れていたこと。砂浜に残した足跡を一緒に振り返り、歩幅の違いを目に焼き付けて互いに驚き笑い合ったこと。夏の海辺で水着姿になった彼女に見惚れてしまい、他ならぬ彼女に揶揄われたこと。「ワタクシならあなたのために二億秒待つことだって造作もない」と勢いに任せて大口を叩いたところ、ユウリに「本当に二億秒待ってくれるの」と電卓を用いて年数換算され、彼女が大人になるまで待つことの言質を取られてしまったこと。インスタントカメラで撮影した彼女の笑顔の一枚を、お守りと称してこっそりと持ち歩き、後に彼女に見抜かれて、いいなあと羨ましがられたこと……。

「私、やっぱり貴方の前ではあまり『品行方正』じゃなかったんですね。むしろ貴方と一緒に羽目を外せることを全力で楽しんでいたような、そんな気がします」

 恥ずかしさからだろう、僅かに頬を染めつつそう零した彼女の推測は概ね正しい。聡明な気質はそのままに、彼女はセイボリーの前でだけは「品行方正」を踏み外し、質の悪さを互いに揃えて喜び合っては至極愉快に遊んでいた。共に在ることをただ喜ぶようにじゃれ合っていた。今から思えばあれは、彼女なりの「甘え」であり、セイボリーに心を許していることの一番の証左であったのかもしれなかった。

「貴方もそういう、質の悪い私のことを好きでいてくれたんですね」

 品行方正ではない自身のエピソードを恥じながらも、そうした思い出を嬉々として話すセイボリー自身のことを彼女は否定しなかった。むしろそうした自身の気質が受け入れられていたことに安堵するような声音にさえ聞こえたため、やはりどうにも嬉しくなってしまう。

「概ねそうではありますが、それ以外のところだって勿論好ましく思っていましたよ。ただのノン・エレガントな妹弟子であったなら、ワタクシの心は動かなかった」

 二人が共に過ごした時間は、先日この道場を訪れたホップとのそれに比べれば短いものだっただろうが、語れるエピソードはそれこそ山のようにあった。夜中の朝顔の話、浴衣と花火の話、外出の話、幾ら語っても語り足りないようにさえ思われた。ユウリもまた、恥ずかしそうにしながらも飽きることなく聞き続けてくれるような気がした。
 その中で、彼のテレキネシス……ものを浮かせるエスパーパワーについて一切触れることをしなかったのは、それこそが彼女の配慮した「貴方の辛くならない範囲」を超えたところにあったからに他ならない。ユウリから見た自身の姿を、テレキネシスの使い手ではなく、ただのポケモントレーナーとして留めておきたいと思ったが故の秘匿であった。

 以前の彼女が見せた、テレキネシスが纏う水色の光への強烈な崇敬と愛情……信仰とさえ言えそうなそれを、今のユウリが同じように示してくれる保証など何処にもない。例えば今此処で、彼女のニットベレーをふわりと浮かせようものなら、その笑顔が一瞬にして消えるかもしれない。気味悪がられ、恐れられてしまうだけに終わるかもしれない。今のユウリと以前のユウリとの乖離の中で、それだけがセイボリーの恐れるところだった。逆に言えば、それにさえ気を付けてしまえば何も問題なかった。思い出を一つずつ再共有していく作業はセイボリーをただひたすらに幸せな心地にした。最も大事な水色の思い出だけを頑丈に封印したまま、彼はエピソードの開示を続けていく。

「あなたは常から大人びていて、ふざけている時でさえいつもどこか余裕があって……けれども時折、そうした余裕を失うことがありました。ワタクシはそういう、余裕のないあなたに触れるのも好きでした」
「余裕のない私?」

 大きな紅茶色の目が、教えてほしいと乞うように真っ直ぐ見上げてくる。ポケモンバトルで彼女のウーラオスを打ち負かした時の話をしようかとも思ったが、その話題はセイボリーのためではなく彼女のために避けるべきだろうと判断して押し留める。

「そうですね……」

 代わりに出てきた別の思い出は、奇しくもこの集中の森を舞台とするものだった。鞄さえ持たないままに道場を飛び出し、セイボリーを見つけるや否や飛び掛かるように抱き締めてきたあの日の彼女は本当に、年端もいかぬ子供のようだったと懐かしみながら。

「ひどく嫌な夢を見たと言ってワタクシに泣きついてきたことがありました。早くワタクシの顔を見て安心したかったそうです。可愛いところもあるでしょう?」
「……あ、あの! もうちょっと恥ずかしくないエピソードはないんですか?」
「そう厭わないでください。ワタクシにとってはあれも大事な思い出なのですから。だってあなた、たかが夢にワタクシがいないというだけで……」

『君のいないヨロイ島で修行をする夢を見たんだよ。君が、何処にもいなかった』

 喉が凍り付いたように固まってしまう。半ば日照りのような暑い陽気だというのに背中がひどく寒い。続きを言い切って笑い話に変えなければと思うのに、あの日の彼女の怯えようが脳裏に焼き付いて邪魔をする。鈍った頭は言葉を音に変換してくれない。
 そうだ。「たかが夢」に彼女はあんなにも怯えていた。ガラル本土で数々の受難を乗り越え、神話上のポケモンと対峙しボールに収め、どんな強者にも怯まず立ち向かい、たった一度の敗北さえ許さなかったあの尋常ならざる妹弟子が、追い詰められる程に生き生きとしていて、苦しみさえ楽しんでいたようなところのあったあの子が。

「……」

 目の前の彼女もまた、青ざめた様子でこちらを見上げていた。何も覚えていないはずの彼女に、かつてのユウリの怯えようがそっくりそのまま反映されていて、セイボリーの心臓はまた冷たくなる。何か致命的な了解が、交わしてはいけなかったはずの無言の了解が、たった今この二人の間に交わされてしまったような気がして、心因性の眩暈に目元がくらくらとする。
 彼女が泣きながら口にした「君のいないヨロイ島」は、本当に「ただの夢」だったのだろうか。本当はもっと神秘的で恐ろしい代物だったのではなかろうか。彼女はそれを本能的に察知していて、「ただの夢」で片付けてしまうことがどうしてもできなくて、だからこそセイボリーに泣き付いてきたのではなかったか。

 かつてのユウリが本当に恐れたのは「君のいない夢」ではなく。

「あっ」

 彼女がセイボリーの背後を見て声を上げた。振り返れば、数日前にテレビで見たビビヨンが、清涼湿原の方角の空に群れを作って飛んでいた。突如としてガラル地方に現れた珍しいポケモン。異常出現との報道が為されていた彼等の姿を見て、彼女は確かこう言った。

『神様の悪戯で居場所を取り違えられて、帰れなくなっちゃったのかな』

 かつてのユウリが本当に恐れたのは「君のいない夢」ではなく、「君のいないヨロイ島があるという可能性」の方だったのかもしれない。
 旅に出てからというもの、数奇な運命に愛されたかのような道のりばかり辿り、伝説のポケモン、神話に登場する存在に選ばれさえしたという彼女は、そうした非現実的な現象や神秘的な可能性を一笑に付すことがどうしてもできなかったのだろう。そうした世界もまたあって然るべきだと、そう思わせるに足る鮮明さだったのだろう。あの日のユウリが見た「夢」というものは。
 ユウリは「君のいないヨロイ島があるという可能性」を信じ、恐れていた。彼女へと絶対の信頼を置くセイボリーに、ユウリが信じたもの、その可能性を疑う理由など最早あるはずもない。

 ならば。……ならば、一週間前からこのユウリにずっと抱き続けていた「違和感」の本当の正体とは。以前のユウリと今のユウリの差異が示す本当の意味とは。

「セイボリーさん」
「……」
「今日はもう、帰りましょうか」

 彼女が青ざめた顔で、泣き出しそうな目で、縋るようにこちらを見上げてくる。今はまだ、と無言のうちに乞われていることが分かってしまったから、セイボリーは静かに頷いて彼女の手を取り、ビビヨンが飛んでいる方向へと踵を返して歩き出す。
 共犯。この日、二人は確かに本当の意味で共犯になったような気がした。かつてのユウリとの間にさえ結ぶ機会のなかった、奇妙で不可思議な信頼関係。証人は、数歩離れたところからピタリと付いてくる彼女の相棒、インテレオンだけだ。

2021.10.11

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