旅支度

【旅支度・序】

「来週、家に帰るんだ。母のお茶会に呼ばれていてね。よければ君も一緒に来ない?」

 とんでもないことを言い出した妹弟子の口を慌てて塞ぎ、そのままヨロイ島の駅まで連行していく。アーマーガアのタクシーで本土へ渡り、電車に揺られることしばらく。辿り着いたシュートシティのブティックにて、隣に彼女を置いたまま、セイボリーは服の熟考に入った。愉快と優雅が絶妙にブレンドされたいつもの服装は勿論彼の気に入るところではあったのだが、これで向かうべきではない……ということくらいは流石に分かる。彼女を連れてきたのは意見を聞くためであったのだが、先程から飛んでくるのは服選びの助言ではなく懐疑と不安の声ばかりであったため、セイボリーは少し苛立ちを覚え始めている。妙な態度をするものだ。先に雷を落としたのはあなただというのに。

「セイボリー、わざわざ新調する必要なんてないんだよ。だってこんなのは、ただの」
「煩いですよユウリ、お黙りなさいな。ワタクシがそれなりの恰好で馳せ参じると決めたのです。あなたのお気持ちなど知ったことではない」
「……でも、こんな高価な店で洋服一式揃えようとするなんて、余程のことだよ?」

 まったく、この、妙なところで愚鈍を極めがちな妹弟子の質の悪さときたら!

「このワタクシが、あなたの家に! 年下の、異性の家に招かれようとしているんですよ! これが『余程のこと』でなくて何だというんです!」

 雷に打たれたような愕然とした表情で彼女は息を飲み、そのまま沈黙した。この期に及んで無言とはなんと卑劣な。その切り札を取りたいのはこちらの方だというのに!

「何もない田舎町だけれど、母の作るスコーンは絶品だよ。君にも是非味わってほしい」

 特訓に誘うのと同じ感覚でそんな提案を為した、一時間前の私がひどく恥ずかしい。信仰しすぎて、慕いすぎて、親しみすぎて、この兄弟子が「誰」であるのかを忘れてしまうことが、最近はとてもよくあった。大人の男性を自宅に誘うことがどれ程軽率で、どれ程「決定的」なことであるか。そんなことにさえ思い至れない程に、私の頭も二人の距離感も、狂っていた。おかしくなっていた。私はきっと、間違えすぎていた。
 早く、早く是正しなければいけない。これ以上、おかしくする訳にはいかない。

「私を『異性』と認識してくれているところ悪いけれどねセイボリー、君には女性になってもらわなくちゃいけないんだ。だからこんな紳士服選び、不毛なんだよ」
「……は?」
「母は女性しかお茶会に招かないんだ。だから私の幼馴染もあのスコーンの味を知らない。ガラルの外で働いている父でさえ、食べたことがない。それを、君と一緒に食べてみたくなった。君なら、なんとかなるんじゃないかと思ったんだ!」

 とんだ大嘘で辻褄を合わせていく。軽率な発言で火種を撒いたのは私の方なのに、彼にそれだけの覚悟までさせたのに、卑怯な嘘でそれを蹂躙していく。口を開けて呆然と立ち竦む彼の手を取りレディースのフロアへ引っ張りつつ、私は努めて明るく笑う。

「来週、一日だけでいい。私の、女の子の友人になってほしい!」

 これが妹弟子の限界。君の足枷になりたくない私の、ひどく最低な最適解だ。

 結果として、私の卑怯な試みは成功した。まさか自らが女装させられようとしていたとは露程も想定していなかったらしく、彼は顔を真っ赤にして憤り、私の提案を甲高い怒り声で「なかったこと」にしてくれた。彼の当惑と混乱はもっともなことだと思う。私でさえ、そんなこと想定していなかったのだから。即興で組み立てた馬鹿げた嘘に一先ずの辻褄が合っていたこと自体、惨く残忍な「奇跡」に違いなかったのだから。

「でも残念だな。君ならきっと似合うと思ったのに。ほら、あのロング丈のワンピースなら脚も腕も隠れるし、都合がいいよね。つば広の帽子を少し深めに被れば、完璧な」
「ハイハイ! ワタクシで遊ぼうとしていたことはとてもよく分かりましたよ!」

 文句の続きを遮るように私はその白いワンピースへと手を伸べる。彼の前に高く掲げて笑ってみせる。更に不機嫌そうに眉をひそめてくれたので、私はようやく安心できる。

「……ごめんなさい。言葉が足りなくて、君にあらぬ誤解をさせてしまったよね」
「まったくですよ! 何かしらのお詫びを頂戴したいところですね!」
「ふふ、そうだね。じゃあ先に希望を聞いておこうか。このワンピースでも、夕食の驕りでも、何でもいいよ、好きにどうぞ。君になら大抵のことをしてあげられるから」

 いつもの調子で口にした言葉にまた青ざめる。卑劣な大嘘でつい先程、距離感を正したばかりなのに、また間違えてしまいそう。是正したものが何度でも道を違えて狂っていく、この事態を正す最適解が見えない。嬉しそうに笑う彼の水色しか、もう見えない。

「いつもそう言ってくださいますね。ワタクシのためなら大抵のことができる、と」

 君のためなら大抵のものを差し出せるし、大抵のことができる。
 顔を赤らめるでも得意気に眉を吊り上げるでもなく、外の天気でも伝えているかのような報告めいた形で、その「覚悟の申告」は彼女の口から穏やかに淡々と紡がれ続けていた。その度重なる申告が彼をどれだけ安心せしめていたかは、最早語るまでもない。
 そんな彼女が慌てて為した方向転換、セイボリーが「異性」と告げた瞬間に息を飲んだ彼女が、苦し紛れに紡ぎ出した物語に、彼は騙されておかなければならなかった。「そんなつもりではなかった」と、その、こんな時にだけ見せる幼い怯えの表情が雄弁に語っていたものだから、彼はもう、彼女の大嘘に目を瞑るほかになかったのだ。真正面から彼女の嘘を追求し、自らの想いごと玉砕してやれる程の度胸は持ち合わせていなかった。勇敢で在ることよりも、優しく在ることの方が容易い。彼はまだ、この妹弟子を諦めきれない。彼はまだ、彼の本当に欲しいものを「差し出して」もらっていない。
 ……ああでも、もしそれを得るために同等の「覚悟の申告」が必要だと、いうのなら。

「もしこのワンピースを欲しいと言ったら、あなたは本当に買ってくださるんですか?」
「……セイボリー、ワンピースは流石に冗談だよ。君だってこんなの、嫌だろう?」
「おやどうしたんです、今更、配慮なんてらしくもない。あなたの計画通りワタクシはものの見事に騙されてこの有様なのですから、もっと楽しめばよろしいのに……ね?」

 いよいよ顔面蒼白になった彼女の手を引きブティックを出る。ささやかな報復に満足しながら、彼は覚悟を決め始めている。あの白いワンピースの値段は既に、確認済みだ。


【旅支度・破】

 雲一つない快晴の空、爽やかで綺麗なその青を、けれども私は物足りないと感じる。私が焦がれたのは彼が操るあの水色、彼の目に宿るあの色であって、この空色ではないからだ。空に彼を見ることは難しい。彼に空を重ねることも難しい。そして此処に、彼はいない。だから私は一人、自宅へと続く一番道路にて、ただ綺麗なだけの空を穏やかに見上げるだけでよかったはずで、それこそが、今の私が作るべき正しい心理のはずで。
 こんな風に、彼、いや「彼女」との邂逅に息を飲むことなど、在り得ないはずで。

「おや、遅かったですね。……どうしたんです、クスネにつままれたような顔をして」

 脚をくるぶしまで隠す、ロング丈の白いワンピース。つばの広いエレガントな白い帽子。眼鏡を外した顔は更に小さく見える。いつもの、少し踵の高いだけの靴さえ華奢に感じられる。背中に流れるブロンドには覚えがある。得意気なテノールボイスにも馴染みがありすぎる。それでも尚「セイボリーではない、他人の空似だ」と思っていたかった私の心理、それに留めを刺したのもやはりその水色であった。長身の美しい女性が、男らしく帽子のつばを右手でぐいと上げ、私に道を拓かせた唯一の色を楽しそうに細め、笑いかけてくる。ほら、こんなことを堂々と為せる人を、私は一人しか知らない。

「どうしてこんなことを? 母の話も嘘だって、分かっていたんだろう? それなのに」
「ふふ、やはり方便でしたか。相変わらずワタクシの妹弟子は質の悪いことで! ですが生憎、着替えの持ち合わせがないのでね、このまま馳せ参じてもよろしいか?」

 帽子を深く被り直した「彼女」の水色は、私の嘘をちっとも責めていなかった。

「ねえ、あなたは今の時点で既に完璧な有様なんです。そんなあなたがワタクシと過ごす時間なんて、きっと無益で無駄なもの。どう生きたってあなたの足枷になるばかり」

 白い帽子をふわふわと浮かせつつセイボリーはそう告げる。愕然と立ち竦む彼女の手を取り歩き出す。ウールーの鳴き声が遠くに聞こえる。風の音がする。空は随分と青い。

「でも、そんな時間にあなたは惜しみなく身を投じてくださる。ワタクシのためなら大抵のことができるとまで言ってくださる。そんなあなたの編んだ完璧な合理、それを踏み越えてまで強引にあなたを求めるなら、ワタクシも相応の覚悟を示さなければ、ね?」
「君の覚悟? そんなもの、女装なんかしなくたって私は汲み取ろうとしたよ!」
「ええそうでしょうね! だから言ったでしょう、これは無益で無駄なこと! こんな愚行に全力で身を投じるワタクシを、あなたはただ、楽しく眺めていればよろしい」

 これ、がどれ程無益で無駄でつまらないことであるか分からない程、セイボリーは愚鈍ではない。その滑稽さを理解していながら、それでも彼はワンピースに袖を通した。その愚行がたった一人の心を揺らすことになるという確信、その真意と熱意がたった一人に正しく届くという確信。それがあれば、本当に「大抵のことができる」のだと知った。「君のためなら大抵のことができる」と繰り返す彼女の心地、それを我が事として体験することが叶ったという点において、女装もまあ、悪いものではなかった。

「ほら、『これ』がワタクシの覚悟です。あとはもう、あなたが拒もうが知ったことではない! ワタクシはこれまで通り、あなたの歩幅に全力で食らいついていくだけだ」

 駄目だ、また心を盗られた。捨てた全てを拾い上げられて、台無しにされてしまった。
 この人のことが好きだった。どうしようもなく好きだった。その想いが彼の夢に邪魔だったから殺した。彼の足枷になりたくなかったから突き放した。でもその想いの死骸がこうして何度でも蘇ってくるのなら、突き放した水色がこうして何度でも食らい付いてくるのなら、それは互いに、本当に質の悪いことで、そして本当に、……本当に。

「……君が、此処までして私に示してくれた『覚悟』を、私はちゃんと、受け止めたい」
「ええ、誠実なあなたなら押し負けてくださると思っていましたよ。ごね得ですね」
「それから、そのワンピース、何故だかとても似合っているから、少し悔しい」
「あなたが選んでくださった服ですよ? エレガントに着こなすのは当然のことです」

 私の不安も葛藤も後悔も、何もかも抱き込んで「それでもいい」と笑う彼。そんな相手を突き放すべきと囁いてくる、そんな悲しい「合理」には、そろそろ休んでもらおう。
 目を閉じて、大きく吸い込んだ息の中に、先程捨てようとした想いの全てを込めた。そして吐き出した息の中に、これまで大事にしていた合理の全てを込めた。大きな深呼吸、私の大事にしていたものと、大事でないと思い込もうとしていたものを入れ替えるための呼吸。目を開けると彼の水色が見える。ただそれだけのことがひどく嬉しい。

「私ね、君が考えている以上に君のことが好きなんだ。だから私、どんな手を使ってでも君と一緒にいるよ。君との未来を誰にも譲らない。後悔しても、知らないからね」

 ハイ? と首を捻る彼の手をぐいと引っ張り、自宅に続く坂を全速力で駆けた。

「お母さん、ただいま! 私、大きくなったらこの人と家族になろうと思うんだ!」

 青いサロペット姿のミセスが、その発言を受けてティーポットを取り落としたのは無理からぬことだった。思わず一指ししてポットを浮かせたため、破損と火傷はなんとか免れたものの、邂逅一番に晒してしまったテレキネシスと女装姿のダブルアタックに、セイボリーの頭は爆発寸前であった。何から説明したらいい。いや、もう何を説明しても手遅れな気がする。そう思い、顔を青ざめさせるセイボリーと、機嫌良く微笑むばかりの彼女を見比べ、眼鏡の似合うミセスは「あらあら」と笑いながら口を開いた。

「うちのユウリが随分とまあ、愉快で面白い子になったものだわ!」
「違うよお母さん、愉快と優雅はセイボリーの十八番なんだ。私なんかじゃ遠く及ばないよ。あ、君、どうぞ座って。お母さん、スコーンは焼けているんだよね?」

 楽しそうにそう反論しつつ、彼のために椅子を引いてから彼女はキッチンに立った。恐る恐る帽子を外して、席に着く。彼女の後ろ姿を確認しながら、ミセスはすっとセイボリーの傍に立ち「あの子と遊んでくれてありがとう」と囁くように告げた。この女装姿を第三者に「遊び」だと思ってもらえるのなら、まだ、都合がよかったと言える。いや全然よくないのかもしれないが。などと、尚も混乱している彼に向けて、ミセスは笑顔で追撃を放った。それは勿論、娘の笑顔を喜ぶ母の、心からの言葉に違いなかった。

「ユウリが誰かを家に連れてきたのも、誰かと手を繋いで帰って来たのも、全部、今日が初めてよ。貴方って本当に特別な魔法使いなのね、セイボリーさん!」


【旅支度・急】

「君が私の、本当の兄弟であればいいのにと、実は何度も考えたことがあるんだよ」

 至極真剣な面持ちで、けれども何処か楽しそうに語り始める妹弟子、その頭には先日の白い帽子が鎮座している。もう被る機会もないだろうからとセイボリーが呆気なく手放したそれを、彼女は「日除けに最適」として代わりに所有し、いたく気に入っていた。

「恋人、は、よく分からないんだ。友人、の方がまだ、絆として固く信頼できるようにさえ感じる。でも君はきっと、そっちの括りに置かれることを快く思わないだろうから、……それならいっそ、帰る場所を君と揃えるため、君を一人にしないための約束として、君と名実ともに本物の家族になって、未来を結んでしまえばいいと思ったんだ」

 歩幅を揃えて砂浜を歩く。振り返って足跡を眺めつつ湿原へと向かう。黄色い花を踏まないように、わざと水辺に足を踏み入れてばしゃばしゃと駆ける。そうして二人、この島で、ゆっくりと時間を流していく。気紛れなシショーによって不定期に与えられる休日を、このような形で過ごすのは今日で何度目になるだろう。二人とも数えていなかった。数えることを忘れる程に、この時間はもう彼等に馴染み過ぎていた。

「私は本気でそう思っているよ。君が一人にならないように、私が君へと帰ってこられるように、どんな手でも使うつもり。でも君はどう? 君は本当に、これでよかった?」
「今更、そんな確認が必要ですか? ワタクシがどれだけあなたに執着しているか、どれだけあなたを欲しがっていたか、あなたが一番よくご存じでしょうに」

 そうだったねと笑う彼女の帽子を浮かせてみる。嬉しそうに笑う彼女に、嬉しくなる。

「まあ、今の私達がどうなろうとも、すぐに何かが変わったりはしないのだけれどね」

 白い帽子を水色に染めて高く浮かせる。戻っておいで、と呼ぶように彼女が手を伸ばすので、しばらく宙を泳がせてからその腕の中に戻してやる。白に戻ったその帽子を、彼女は胸元に抱き込んで笑う。至福を極めた目の細め方、彼の愛した表情がそこに在る。

「でも、もう躊躇わないよ。私と君の帰る場所は同じだ。これだけは絶対に譲らない」

 今すぐに何かが変わる訳ではない。当然のことだ。セイボリーが待つと宣言した「二億秒」はまだ六年以上残っている。そしてその間、彼女はこの兄弟子に、恋人という浮かれた心地での甘い情けや贔屓を掛けることは決してしないだろう。加えて、強くなることに一切の妥協をしない彼女が、いつまでもこの島に留まり続けるとも思えない。旅立ちの時は遠からず、必ず来る。そしてきっとその時、隣にセイボリーはいない。二人の足並みをいつもいつでも揃えることなどできない。想いを認めようが認めまいが、恋人であろうがなかろうが、今の二人は何も変えられない。そして、きっとそれでいい。

「ねえ、私が君のところへ帰ることを許していてね。私と喧嘩をしても、私に嫌気が差しても、私を軽蔑しても、私なんかいなくたって生きていかれるようになったとしても、それでも君は、君だけは私におかえりと言って。ずっとそうしていて。いい?」

 互いの立場、夢、願い、それらを突き合わせ戦い尽くした結果として「帰る場所を揃える」という行為を彼女が最善手としたのなら、それだけが欲しいと願ってくれるのなら、あとは全力でそれを叶えるだけだ。一分の憂いさえ、あるはずもなかった。

「あなたこそ、ワタクシ以外の者にただいまなどと言ったりしたら許しませんから!」

 足元の水を蹴り上げつつ、快諾の相槌と共にそう言い放つ。飛び散った雫が黄色い花を叩いて揺らし、放たれたその言葉が彼女の肩を小さく震わせた。一頻り笑い終えた後で、彼女は帽子を、そのつばが歪む程に強く抱き締めつつ、消え入るように小さな声音で「ありがとう」と告げた。無敵で気丈で聡明な、探偵気取りの妹弟子。そんな彼女が綺麗に完璧に隠していたもの、孤独とか不安とか、そうした年相応にか弱く健気なもの。その全てをこの約束ごと引き取っていけるのなら、それは勿論、願ってもないことだ。
 覚悟しておきなさい、ワタクシの尋常ならざる妹弟子。あなたがワタクシを一人にしないというのなら、ワタクシだってあなたの全てを金輪際、手放さない。

「それじゃあ、そうだね……。今できる『家族らしいこと』の第一歩として、一緒にいられない時でもすぐに連絡が取れるよう、番号でも交換しておこうか?」

 その提案に同意しながら、セイボリーは思わず笑った。ああそうだ、こんなことさえせずに過ごしてきたのだ。する必要がなかったのだ。こんな契約がなくともこれまでは一緒だったから、ずっとそうだったから。未来を結ぼうと考えたとき、初めて連絡先の話題が出てきた。そういうものなのかと彼は初めて知った。少し面映ゆく感じられた。

「ですが『連絡』というのは、どのようなときにするものなのでしょうね?」

 スマホを介した契約を終えた彼女、そこに浮かぶ笑みは実に、悪戯っぽい。

「たとえば、花が咲いていることを知らせたくなったとき、とか?」

 こうして旅支度を終えた妹弟子は、数か月後、更なる冒険と躍進を求めて島を出た。
 程なくして兄弟子も道場を離れ、別の場所で戦い続けることを選んだ。
 互いの挑戦、成長、挫折、変革。それらは今や遠く離れ、もう容易には揃わない。
 いつもいつでも、一緒にいられる訳ではない。

「ただいま!」

 それでも彼女は帰ってくる。どんなに遠くへ旅立っても、必ず彼へと戻ってくる。
 そうして彼は迎え入れる。どんなに長い不在でも、信じて彼女を待っている。

 今も二人は走り続けている。約束を掻き抱くようにして、全力で日々を生きている。
 些末なものから重要なものまで、あの島で揃えた全てが二人を支えている。
 待ち時間のカウントは今日も規則正しく擦り減っている。二億秒はもう、遠くない。

「おかえりなさい」

 勿論これはただの、遠い世界の夢物語。あの島が見せたお伽話。
 二人にあったかもしれない未来、無限に伸びる可能性の、ほんのひとつに過ぎない。

© 2022 雨袱紗