三十の詩

26:”G"ospel that no one saves

 体を揺すられる気配で目が覚めた。「おはようございます!」と、寝起きの耳には些か過剰な声量の挨拶が降ってくる。眉間にしわを寄せつつ体を起こせば、寝袋を畳み、身なりをすっかり整えてしまった彼女が楽しそうにウォロを見下ろしていて、子供というのは何故こうも朝に強いんだ、と少しばかり妬みたくなってしまった。
 昨夜、この周辺をうろついていたヨマワルたちの鳴き声はもうしなくなっていた。波の音だけを遠くに聞くことのできる、静かで落ち着いた朝だった。けれどもしばらくすれば、この周辺はまたペラップやムックルたちで賑やかになるのだろう。ちょっかいを出される前にこの場を離れた方がいい。そう判断してウォロは彼女への挨拶もそこそこに寝袋から脱し、荷物を纏め始めたのだが、その途中で彼女がウォロの腕をそっと取った。

「ちょっとだけ外に出ませんか? 今、とても綺麗ですよ」

 綺麗? と首を捻りつつ、ウォロは彼女の誘いに応じる形で廃船の外へ出る。丁度、東の空から日が昇り始めているところだった。水平線が黄金色に染まっており、青い海と白い空を煌めく横糸で完全に二分していた。その糸をたゆませるようにゆっくりと昇りつつある太陽は、昨日の真っ赤な姿が嘘のように、ただ白く眩しく美しかった。

「アナタ、海が好きなんですか?」
「あれっ、そう見えましたか? 勿論好きですけど、海に限ったことじゃないですよ。空も花も雪も土も、ヒスイで触れた自然の全てが大好き。全部、私の宝物です」

 その宝物の全てを近いうちに手放そうとしているとは思えない程に、朝日を浴びたその横顔は凛としていてただ綺麗だった。いっそ忌々しくさえ思える程に、彼女には朝日が似合っていた。ヒスイの全てを愛する覚悟を決めたものはヒスイの全てに愛されるように出来ているのだなと、ウォロは彼女を取り巻く世界の、生温くやさしい祝福の仕組みをまた一つ、知る。

 全てを愛したから彼女は全てに愛された。そんな彼女がその全てを手放そうとしたなら、きっとその全てだって彼女を引き留めはしないだろう。
 彼等は彼女の手を離さない。けれど手を離す彼女を責めることもきっとない。それはきっと、ウォロが昨日、この砂浜を歩きながら固めた決意と全く同じ形をしている。

「……」

 そこまで考えて初めて、ウォロは自分という存在がこのヒスイの一部として「受け入れられている」ように錯覚することができた。それは……彼が過去に受けた理不尽な仕打ちを踏まえると、些か楽観の過ぎるお粗末で稚拙な考えであったのかもしれない。けれどもそんな拙い思い上がりを抱いて喜びたくなってしまえる程には、今の彼は清々しい心地だった。
 このめでたい頭の子供と数日を共にしたおかげで、ほんの一時でもそうした幸いな錯覚に浸れるなら、この子供の存在の有無関係なしに「一人ではない」と思える一瞬があるなら、もうそれだけで生きていかれる気がした。これから受けることになる孤独の傷も、その一瞬で採算が取れてしまうように思われた。今こんなにも満たされているのだから、きっとそれで、それだけで全部チャラにできるだろう、と。

「それじゃあ、黒曜の原野へ行きましょうか! 文字はもうあと三種類ですよ」

 こちらを見上げ、明るい声音でそう告げる。ウォロも同意し、群青の海岸を出るため西へと歩き始める。終わりへと確実に向かっていること、彼女との「二人」の時間が刻一刻と擦り減っていることに気付きながら、それでもウォロは歩く速度を緩めなかった。一秒でも長く、などという馬鹿げた願いを抱く必要など最早なくなっていたからだ。

 *

 黒曜の原野の東側、やや幅の広い川を超えたところ。純白の凍土に流れていた滝の迫力には及ばないが、この土地にも一つだけ滝があった。黒曜の滝と名付けられたそこの岩陰に、Gのアンノーンはぴったりと張り付いていた。赤い目の凶暴なハピナスが北側をうろついているのが目立つものの、この近くでは他にポケモンの姿をあまり見かけない。ひっそりとした少々寂しいところだとウォロは感じた。

「同じ黒曜の原野でも、平地と山道では現れるポケモンが全然違いますよね」
「は? ……どうしたんです、急に素人の調査隊みたいなことを言い出して」
「もう、茶化さないでくださいよ! 調査を始めたばかりの頃、大志坂を下った先の橋を渡ったところから出てくるポケモンが一気に変わって、本当にびっくりしたんです。その時のことを思い出して、懐かしくなっただけなんですよ」

 野生のポケモンを恐れることなく次々にボールを投げ、赤い目のポケモンにも果敢に挑んでいた、かつての彼女の姿を思い出す。彼女は「毎日新しい発見ばかりだ」と口にしていたが、その発見とは「どういったこと」を指した言葉だったのだろう。ポケモンの生息地や分布について? あるいは繰り出してくる技やその凶暴性について? もしくはポケモンがダメージを受けると小さくなってエネルギーを節約しようとするその性質について? それとも。
 カミナギの旋律で呼び出されたウォーグルは、二人を乗せて滝を下りた。シシの高台を北に見ながら、川を下る形で南東に向かう。次の目的地はシンジ湖だが、彼女は真っ直ぐ西に飛んで山を越えるのではなく、高度の低いところをウォーグルで穏やかに滑空しつつ、マサゴ平原から湖へと向かうルートを選んでいるらしかった。

 オヤブンのフーディンに見つからないよう、十分に距離を取ったところに下ろしてもらい、二人はシンジ湖へと向かった。ドジョッチやナマズンが僅かに泳いでいるばかりで、他には一切ポケモンの気配がない。今はコトブキムラの放牧場で、ユクシーやアグノムと仲良くやっているのであろうあのエムリットも、かつてはかたく閉じられたこの洞窟の中で、選ばれし者の訪れを待っていた。姿は見えずとも、この湖の中央には「侵してはならない領域がある」ことを、ポケモンたちはずっと前から分かっていて……それ故に、その湖の主を畏怖し、また敬意を払う形で……彼等は意図的に、この場所には近寄らないようにしているのかもしれなかった。

 そうした、黒曜の原野での、ひいてはヒスイの大地におけるポケモンのことを考えながらウォロはふと、思う。彼女のいた世界では、どうだったのだろう?
 ポケモンは恐怖の対象でも近しい存在でもなかったと彼女は言った。人とポケモンの住処と明確に区別するような行動を、人の側から取ったのだろうか。あるいはポケモンたちの方から人から距離を取ったのだろうか。エムリットの領域に踏み入らないことを暗黙の了解とした、この黒曜の原野のポケモンたちのように。

「ワタクシは生憎、ヒスイの外にいるポケモンの生態には疎いのですが……アナタの世界ではどうだったんです?」
「……どう、って?」
「アナタの元いた世界ではどんなポケモンがいて、どんな風に過ごしていたんですか? 近しい存在でなかったとはいえ、情報くらいは入って来ていたのでしょう? アナタ、こちらが驚かされるくらいにポケモンについて博識でしたからね」

 彼女はその問いには答えず、笛を吹いてイダイトウを呼び出した。その背中にひょいと跨りウォロを手招きする。二人を運び終えたイダイトウは湖の深くへ姿を溶かすようにして、あっという間にいなくなってしまった。さて、此処にいるアンノーンは確か「I」だったか。

「いないんです」
「おや、当てが外れましたか? けれどもアナタの調査メモには確かに」
「いないんですよ、ポケモンなんて」

 洞窟の裏側に回り込もうと踏み出したウォロの左足が、僅かに宙へと浮いたままぴたりと止まる。穏やかな気候の中、急に強く吹いてきた一陣の風がひゅう、とウォロの耳元で大きな音を立てた。彼女の長い髪が氷上でくるくると回転したときのように、大きく美しくはためいた。彼女の大きな目がぞっとするような静かな色でこちらを見上げている。その色と共に彼女は繰り返す。

「私の世界にポケモンはいません」

 ポケモンが、いない?

「私は八百を超えるポケモンのことを知っているけれど、実際にポケモンを見たことなんて一度もなかったんです。見えるはずがないんですよね。ポケモンは私達を楽しませようと、幸せにしようとして作られた、想像上の生き物でしかないんだから」

 ひどくおぞましいことを言い出している。質の悪い冗談であれと思ってしまう。けれども彼女がそうした悪辣なホラを吹く人間ではないことくらい、ウォロにはよくよく分かってしまっている。

「だからこの世界で本当にポケモンを見たとき、本当に驚いたんです。最初は、夢でも見ているのかと思いました。でも頬をつねっても、転んで擦りむいても、布団で眠っても、元の世界、私の部屋には戻れなかった。そうして何日か過ごしてようやく気付いたんです。ポケモンは本当にいるんだって、そんな世界が本当にあるんだって」
「……」
「こちらでの古代文字が、アルファベットとして日常的に使われている世界。あの綺麗な花畑も、顔のない雪だるまも、透き通る氷柱も、貴方と作った砂山もない世界。ポケモンが一匹もいない世界。それが、私が全てを捨ててでも帰ろうとしている場所です」

 それを「罪深い行為」と認識しているらしく、彼女はくたりと下げた眉のまま、申し訳なさそうな声音で紡いだ。ウォロに許しを請うているようにも、慈悲を求めているようにも聞こえてしまった。

「今までずっと黙っていて、ごめんなさい」

 ああ、でもウォロには何もしてやれない。この世界の思い出はおろか、大好きだと口にし続けていたポケモンの存在さえ完全に捨て置こうとしている彼女を、その全てをたかだか「夢」だとして元の形……「幻想」という残酷な形へと収め直そうとしている彼女を、ウォロはどうしても許してやることができそうにない。

「アナタは、ポケモンが好きだと。……大好きだと」
「そうですよ。この世界に来て初めて本当のポケモンに、大好きなポケモンに出会えた。夢のようでした。今でも勿論大好きです。だから困っているんですよね」

 一気に開示される情報に頭が付いていかない。つまり、どういうことだ? 彼女にとってはポケモンとは想像上の生き物でしかなくて? 紙面上に描き表すのがやっとのような、そんな存在でしかなくて? そんなポケモンと共に在るこの世界、ウォロが生きるこの世界さえ、彼女にとっては「異世界」ですらない、ただの「夢物語」で?
 そんな、そんな惨いことがあっていいはずがない。これまでの時間と空間を全て「夢」……すなわち完全な無に帰すという、ウォロがアルセウスに願おうとしていたのと同等の……いやそれ以上におぞましく恐ろしいかもしれない話が、彼女の「真実」であっていいはずがない。

「でも、何もかも違うと思っていた世界にも同じものがありました。こっちでは古代の遺物として、忘れられかけているものだったけれど」
「……アンノーン文字。アナタの世界で言うところのアルファベット」
「そう、ウォロさんが読み方を教えてくれたおかげで気付くことができたんです」

 その真実を惨いもの、おぞましく恐ろしいものとして捉えているのはウォロだけではなかったらしく、彼女は双方の世界がどちらも「現実」であることを何とかして信じようとしていた。その結果、彼女が見つけた唯一の光であり拠り所。それこそがウォロにとっての古代文字であり、彼女にとってのアルファベットだったのだ。

『わくわくしませんか? 貴方と私で文字を全部集めたとき、何が起きるのか』
 アンノーン。彼女にとってのアルファベット。この世界と彼女の居場所とを繋ぐ「拠り所」。それを二人で集め切った先で、彼女が本当に見たかったもの。彼女が本当に起こしたかった、奇跡めいた何か。その正体にウォロはようやく思い至った。それは、元の世界に帰ることを切望しながらこちらの世界をもこよなく愛し続けた彼女らしい、強欲でこそあったけれど実に健気で切実な願いで……それ故に実現がとても、とても難しく、ヒスイに生きる誰の手をもってしても、あの全なる神の力を借りてさえ……本当の意味で「叶える」のは最早不可能なのではと思わせる程であった。

「……」

 ねえ、無理ですよ。そんな奇跡は起こらない。起こりようがない。アナタがどれだけポケモンを愛しても、アナタの元いた世界にポケモンは現れない。アナタの世界でポケモンが「現実」になどなってはくれない。アナタの愛が報われることは未来永劫きっとない。ならばもういっそ、そんな惨いところに帰るのはやめてしまっては? いつまででも「夢」を見ていればいいじゃないですか。こちらで懸命に生きている我々のことを夢物語のように認識されるのは非常に不愉快ですが、アナタをそんな下らない「現実」へと返すくらいならそちらの方がずっといい。考え直しませんか。今ならまだ間に合うでしょう。まだ。

 湯水のように溢れ出たそれらの想いは、しかし一音たりとも喉から出てきてくれなかった。そんな惨いところへ戻ろうとしていたのだという衝撃と、そんな惨いところと引き換えにこちらの世界が切り捨てられようとしているという絶望が、ウォロの思考に重たい泥となって流れ込んでくる。頭が働かない。言葉が出てこない。不自由だ。どうしよう。このどうしようもない子供に言ってやりたいことが、沢山あるというのに。

「私の世界と同じものがこっちにも残っていると知って、私本当に嬉しかったんです。アルファベットが此処と私の世界を繋げてくれているみたいに思えたんですよね」
「……」
「この文字たちが私にひとつの可能性を見せてくれました。ポケモンは想像上の生き物なんかじゃなくて、私の生きる世界の遥か遠い未来に、本当に存在している生き物なのかもしれないってこと。私達がポケモンを好きだと思う気持ちが、ずっとずっと先の未来にポケモンたちを本当に誕生させることができていたんじゃないかってこと」

 そんな彼女の考察はウォロを少なからず驚かせた。そこにはこちらの世界を「夢」だとしたくないという彼女の希望的観測も含まれていたのかもしれないが、それでも、両者の世界に存在するアルファベットの扱いから考えるに、彼女の世界を、こちらの世界の遥か過去のものとして置くことは、矛盾のない、理に適ったものであるように思われた。
 だがそうだとして、彼女がウォロの生きるこの世界を、ポケモンのいるこの世界を、夢物語ではなく現実だと信じてくれたとして……それでも彼女があれ程愛したポケモンとの時間を、空間を、永劫捨て置く決意を固めてしまっていることに変わりはない。そして、それはウォロにとって彼女という人における致命的な歪みを意味する。ウォロの知る彼女が永劫失われてしまうことを意味する。
 こんなことが許されていいのだろうか。だって彼女は「ポケモンと共に歩む者」であるはずなのに。彼女の夢は「ポケモンと共に叶えるもの」でなければいけなかったはずなのに。

 ウォロにはもう、何を、誰を責めればいいのか分からなかった。ポケモンが存在しないという彼女の元いた世界を不毛だと糾弾すべきだったのか、あるいはそんな下らない場所へ戻ろうとする彼女自身を咎めるべきだったのか、もしくはそんな彼女をこの期に及んで「引き止められない」と思っているウォロ自身を責めるべきだったのか。それともただ、何もかも諦めてしまった穏やかな心地で、全て、全て許してしまうしかなかったというのか。

「もしかしたら、私のいる世界ではまだポケモンという命が誕生していないだけなのかもしれない。もしかしたら、私のいる世界ではまだアルファベットがまだ潰えていないだけなのかもしれない。もしかしたら、私は世界を飛び越えているのではなくて未来へ飛ばされてきただけなのかもしれない」

 ウォロはいたたまれなくなった。それ以上を聞いていられなくなって思わず顔を背けてしまった。けれども彼女はそんな彼の態度などお構いなしに自らの考察を……彼女にとって実に都合のいい考察を……祈るように縋るように、けれどもやはりどこか諦めたような調子で……語り続けた。

「私の世界と貴方の世界は何もかもが違うように見えるけれど、もしかしたら、私と貴方は元々同じ時空にいたのかもしれない。私達の世界はちゃんと揃っていたのかもしれない。ただ時が、重ならなかっただけで」
「そんな……」

 そんなものに希望を見ようとしていることが腹立たしくて、そんな思いでこの世界から去ろうとしているのだということが無性に悔しくて、悲しくて、ウォロは吐き捨てるように呟いていた。自らの声が掠れていることなどお構いなしに、この問答で自らの喉が潰れてしまったって構いやしないという気概で、彼は必死に言葉を絞り出したのだ。

「そんな御託が何になる」
「!」
「ワタクシにとっては同じ事だ。アナタとポケモンの日々が永劫戻らないのなら何も変わらない。何も救われない。報われない。何も」

2022.2.22
【誰も救わない福音歌】

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