踵の泥の枯れるまで

(旅から五年後)
(前提:葉桜の目は赤 & 雨後に箱舟

 ちゃぷちゃぷと海が鳴る。水面に揺れているように見える泥のようなものは、つい数日前まで鮮やかな花の色をしていた。一昨日は特に気温が高く、早くも夏かと疑いたくなる程であった。強い日差しに焼け焦げてしまったのだろう。色褪せて萎んだその花弁たちにあの美しさも面影は微塵も見当たらない。

「腐っちゃいましたね、花筏。これじゃあ花筏じゃなくて泥船です。残念だなあ」

 カノコタウンの方角から吹き込んできたのだろう、プラズマフリゲートの停泊する海辺にも桜の花弁は大量に積もっていた。大きく波打たない凪いだ箇所を好んで、鮮やかな春の色は身を寄せ合う。その様を「花筏」と呼ぶ文化は本来イッシュのものではないが、彼女はその名称をいたく気に召したらしく、ゲーチスがそれを教えて以来、水辺に桜の花弁が集まっているのを見つけては「花筏」と楽しそうに繰り返したものだった。花筏、という単語の響きが心地良い、というだけではなく……満開の頃を過ぎても尚、別の形で美しく在り続けるその様に、敬意めいたものを表する意味もあったのかもしれない。

「ゲーチスさんと一緒に今年も桜の話をしようって、二週間くらい前から思っていたはずなのに。忙しさと疲れに負けてしまって、今日は無理だ、明日にしようって思い続けて、……ふふ、気が付いたらこのザマです」

 そんな彼女が、もうすっかり色褪せてしまった花筏へと足を投げ出している。凪いだ浅瀬に二つの踵で波を立て、泥船をぐちゃぐちゃと掻き乱すことをやめない。物心つかぬ幼児にはよくある光景である。配慮や礼儀を知らない振る舞いは頭の弱い子供の特権である。無邪気に笑いながら花を千切ったり小さなポケモンを虐めたり料理をぐちゃぐちゃに混ぜたりする、そうした子供特有の蛮行にも似た泥遊び。その行為自体を「狂っている」とは思わない。だがそれを、今やハイティーンと呼ばれる年齢になったこの少女が一人静かに行うことについては……やはり「不釣り合いだ」と感じずにはいられなかった。

「もっと急げばよかった。もっと急いで、走って、何もかも後回しにして貴方のところへ来ればよかった。春は待ってくれないのに、花はすぐ泥になるのに」

 好いた花の最も美しいところを見られなかったから拗ねている、そう察することなど簡単にできる。ちょっと目を離した隙にこんなに汚くなってしまって、と、桜を責めたくなる心地であろうということも容易に想像が付く。だがその拗ね方はやはり彼女には不釣り合いで、そしてぎこちない。そう、ぎこちない。
 人目を気にせず羽目を外してはしゃぎ回りたい。してはいけないと言われたことは全てやってみたい。どこまでも気を違わせていたい。そのような欲を抱えたまま、でも何一つ実行できないままに、大きくなってしまったのだろう。羽目の外し方も倫理を無視する方法もまるで教わってこなかったのだろう。故に彼女が時折露呈させる「歪み」は、呆れ返ってしまう程に臆病で、限定的で、そしてつまらない。

「お似合い、というものでは?」
「お似合い?」
「敢えて花ではなく泥の船に足を乗せようとするお前の頭も、この上なく残念に思える」

 小さく嗤いながらそう吐き捨てて、ゲーチスは彼女の「十年前」を想像する。彼女と出会ってから今年で五年、つまり十年前であれば、出会ったあの頃よりも更に五年前。幼馴染の妹が大事にしていたというチョロネコをプラズマ団が奪ったのも、その頃だ。
 妹は泣いたはずだ。幼馴染であるというその兄だって同じように、悔しさに涙を滲ませるくらいのことはしただろう。おそらく彼女も泣いたはずだ。泣いて、それからどうしたのだろう。妹のように寂しさを抱え続けるでもなく、兄のようにいつか必ず取り戻してやるとかたく誓うでもなく、ただイッシュという土地に蔓延る歪みと不条理を噛み締めるばかりで、五年後、あのヒオウギシティから旅に出るまで大人しく「いい子」にしていた彼女は一体、独り静かに何を考えていたのだろう。
 もし彼女に「利口な子供」の枷がなければ、十年前の彼女もまた同様に、泥船に踵を付けようとしただろうか。

「ふん、お前に桜を責める権利があるようには思えませんがね」
「……責めている訳じゃなかったんですけど、でも、どういうことですか?」
「おや鈍いことだ。お前も同じようなものだということに、まさかまだ気付いていない?」

 いや、不毛な仮説である。今の彼女がこのように、泥船を踵で叩く程度のつまらない狂いしか呈せない状況は、いくら十年前の彼女の自由を夢見たところで覆るものではない。ならば、と十年前から少し時を進め、ゲーチスは彼女と出会った頃を思い出す。旅をしていた頃の彼女は、それはもう目障りな存在だったな、と苦笑しながら。

「お前も誰かに『そう』思われている。どこまでも走っていくお前を見て、もっと急げばよかったと、何を犠牲にしてでもお前の歩幅に食らいついて行けばよかったと、悔しく思う者、寂しく思う者が必ずいる。そうした感傷を抱かせるに足るものだ、お前の、その背中というものは」

 五年前、十二の彼女もまた、おおよそ利口であった。加えて彼女は勇敢であった。無謀でもあった。誠意と義理と正義心に溢れており、そして何より強かった。「利口な子供」のままに突き進んだ彼女は、「貴方は間違っていません」と絶対的な言葉で彼女の背中を押した科学者の存在もあって、歪むこと、狂うことを知らぬままに旅を続けた。その果てに待ち構えていたゲーチスという、狂った男の存在は、あの頃の彼女にとって悉く異質であり、不気味であり、とても……理解に苦しむものであったに違いない。

「これは『ただ、生きているだけ』です。お前のように背を向けることも、走り去ることもない。恨むなら、健気に生きる花のタイミングに合わせられなかった、お前の残念な頭を恨んでは如何か?」

 冷たい洞窟の中で自分に向けられた、強烈な憎悪と殺意と、氷の刃。殺される、という分かりやすい恐怖に「怖くない」などと下手な虚勢を張りながら、けれども実に勇敢に、無謀に、真っ直ぐにこちらを見つめていた彼女。狂うことを知らぬままに生きてきた清廉潔白な海の目。そこに狂気を教え込んだのは他ならぬゲーチスである、という下らない自負を思い、小さく笑った。歪みや狂いや殺意、そうした悪縁を五年前、ゲーチスが手ずから運び込んだからこそ、彼女は今こうして泥船を叩いているのだろう。呆れ返ってしまう程に臆病で、限定的で、そしてつまらないものだったとしても、実行できる気概がある時点で、彼女は十年前よりずっと邪悪であり、五年前よりずっと狂っていた。

「貴方のことですか?」
「……ほう?」
「拗ねたいのも、歪んでいるのも、悔しいのも、寂しかったのも、貴方の方だってことですか、ゲーチスさん」

 そうとも、シア。私に出会わなければ、お前はその泥で遊ぶことさえ知らぬままであったに違いない。

「貴方も寂しかったんですか、私と同じように?」

 そして、道をそっと逸れて静かに狂うことを教わった彼女は、こうして時折、逆に、男へとその真っ直ぐな心地を明け渡してくる。この、花を踏むことさえ五年前はついぞ知らなかった子供に、ゲーチスが教わったことは沢山、本当に沢山ある。
 勇敢になっていいし、野望だって抱えたままでいい。誰かに優しくすることや誰かを許すことは恥でも逃げでもない。許せる罪であるのなら、迎え入れて、許してあげられた方がずっと生きやすい。諦めるにはまだ早すぎる。生きてほしい……。
 虫唾が走るような、生温いお説教の数々。声音をはっきりと思い出せるものから、おぼろげな記憶になってしまったものまで、それら全てが今やこのゲーチスという男の財産である。かつてはその死を願った相手に、生きてほしいと乞われることの滑稽さを思い出す度、喉元を涼やかな至福が満たす。
 生かされている。生きてほしいとこの男に願う酔狂な生き物がこの世界にまだ存在する。彼が「ゲーチス」を楽しむ理由などそれだけで十分だった。そしてその酔狂な生き物は、この忙しい時期にタイミングを逃し、ゲーチスと共に花見ができなかったことを悔いるように、拗ねるように、凪いだ岸辺で泥船をちゃぷちゃぷとやっているのだ。

 くつくつと喉で笑いながらゲーチスは少女の隣に膝を折る。屈んで目線を合わせつつ、泥船を、白波を、遥か向こうの水平線をゆるりと眺める。綺麗だ。桜が褪せようとも、十分すぎる程に。
 そらどうだ、このゲーチスという人生、そう悪いものでもなかったろう。

「ええそれはもう。お前の不在が一日また一日と延びる度、胸が張り裂けるようでしたとも」
「ふっ、あはは、下手な冗談!」
「何とでも言えばよろしい。桜などに八つ当たりしない分、私の方がお利口というもの。お前も私を見習ってもう少し『いい子』になっては? シア
「……え、嫌ですよ。私、ゲーチスさんの前で『悪い子』になるのが好きなんです」

 色褪せた花筏を踵で叩き割るという小さな破壊に、溜飲を下げようとする子供は果たして「悪い子」だろうか。何にも八つ当たりできないまま、静かに神経を摩耗していく大人は果たして「いい子」だろうか。どちらをも貫き通すことができずにふらふらとしている様は実に彼女らしいと思った。迷いながら、捻くれながらも正しい時の流れに乗ろうと走り続ける彼女は、贔屓目を差し引いても……立派であるように、ゲーチスには見えた。

 ずっと一緒にはいられない。彼女はいつまでもゲーチスの「右翼」で在れる訳ではない。これからまた、忙しくなる。しなければならないことが増える。時間は過ぎていく。彼女は更に成長して大人になるが、ゲーチスが流す時の中では彼はもう老いるだけだ。いつまでも彼女の傍で上司然としていられる訳ではない。能力も手際も要領も、いずれ彼女が上回る。ゲーチスが彼女に手を貸すのではなく、足を引っ張ってしまうようになるまで、そう時間は掛からないように思われた。
 そうしてゲーチスに背中を見せ、走り、飛び去った先、彼女は今以上に苦しみながら戦うことになる。此処はポケモンを繰り出さずとも、旅の最中にあらずとも、立ち向かうべき分かりやすい悪のいない状況であったとしても、戦わなければならない世界だ。寂しくとも、苦しくとも、一人で戦禍に立つ機会はこれからも増え続ける。そしていつか、それが当然のこととなる。
 今日、花筏が色褪せ泥船と化したのは、そうした、時の流れがもたらした当然で残酷な変化の、ほんの一例に過ぎない。

「ではその『悪い子』のまま、過ぎる一瞬を取り零したこと、せいぜい悔いればいい。桜など来年もまた咲くのですから、今年の後悔はある種、貴重なものになるかもしれませんよ」
「来年って、そんなの一年も先の話じゃないですか」
「そうとも一年。一年待てば泥船にもまた春が戻る。……耐えられない、とでも?」
「耐えられなくはないけれど……でもそれまでずっと悲しいし、悔しいままですよ」

 時は流れる。変わり続ける。つい二週間前は三分咲きでしかなかった桜も、時に押し流されてすぐに色褪せ、泥になる。今年、桜を見る時間を作ることが難しかったのなら、きっと来年はもっと難しくなる。来年も……彼女は泥船を叩く羽目になるのかもしれない。また悲しく、悔しい思いをするのかもしれない。
 ああでもそれくらいの悲痛なら、取り上げてやれそうだ。来年の彼女が、泥船へと八つ当たりをせずに済むようにしてやること。泥で踵を汚すのではなく、鮮やかな春の色を貼り付けて、照れたように微笑む未来を約束してやること。成る程造作もない。容易いことだ。殺したい程憎んだことさえあるお前のため、それくらいのことなら息をするついでにいくらでもしてやれる。

「それでいい、せいぜい今の心地を覚えておきなさい。その失意の分、次の桜はずっと立派に見えるはずだ。お前のことだ、きっと感動にむせび泣くことでしょう。楽しみにしているといい」
「……きっと?」

 疑うような尻すぼみの声音、縋るように泥船へと落とされたままの視線。彼女の失意が塩辛く香る春の海。それらを楽しみつつ、ゲーチスは杖でパシャンと船を叩いた。泥たちは小波に飲まれて散り散りになり、あるものは杖の先にくっつき、あるものは彼女の踵をそっと離れた。

「いいや、必ず」

 ぱっと目線が上がる。吸い寄せられるようにこちらを向く。呆れてしまう程に間抜けな満面の笑顔を称えているものだから、心から喜んでいることが分かってしまったから、嬉しくて、おかしくて、また笑ってしまった。
 ああ、あれから五年も経ったというのに。お前の歩みにもう、ゲーチスという男は必ずしも必要ないというのに。それでもお前は、まだこんな男と一緒に何かを見たいと思うのか。「きっと」ではなく「必ず」という確約を欲しがってしまう程に、お前はその未来にこの男を置きたがってくれるのか。

「私が叶えましょう。お前の踵は来年、必ず、泥ではなく花の上にある」

 ならば私はその願いを聞き届けよう。全力で叶えてみせよう。止まらない時間の中、変わり続ける世界の中で、お前にとっての変わらないもので在り続けよう。お前はそういう人間だ。このゲーチスが大抵のことを賭すに相応しい人間だ。
 そらどうだ、お前の人生だって、そう悪いものでもないだろう。そうとも、悪くなどさせてなるものか。

「……ありがとう。私、信じます。ゲーチスさんがそう言ってくれるなら、来年の桜は絶対に綺麗ですね。今まで見たどんな花より、きっと、ずっと」
「ええそうですとも、満開のタイミングを狙いましょう。お前の頭で花見ができるくらいがいい。桜を何枚も貼り付けたあの時のお前は、それはそれは滑稽だった」
「えっ、それ貴方が言うんですか?」

 肩を揺らして笑いながら、その細めた目で、かの海はゲーチスを見る。彼の右目、たった一輪、それでも美しいと嘆息するには十分すぎる程のそこに、嬉しそうな顔が映り込んでいることをひどく幸せに思いながら。

「ね、葉桜さん」

2021.4.10
(ラジオネーム匿名様より頂きましたご質問「最近のチスはどんな風にお過ごしでしょうか」に回答させていただきました。ありがとうございました!)

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