葉桜の目は赤

「そういえば、ミナモシティに桜並木があるのを知っているかね?」

ホウエン地方のデボンコーポレーションへと向かい、社長のムクゲさんといつものように話し合いを済ませたその帰り際、彼の口からふいにそんな話題が飛び出した。
桜という、薄いピンク色をした花を咲かせる植物があることは知っていたし、このカナズミシティにも何本か植えられていたけれど、
その並木道にはどうやら桜の木しか植えられていないらしく、人の目を惹きつけるに十分過ぎる程の、圧倒的な魅力を持っているらしい。
今夜辺りに雨が降れば全て散ってしまうだろうから、満開の桜が見られるのは今日だけだと彼は説明してくれた。

「重苦しい話ばかりで疲れただろう?補佐くんと一緒に羽を伸ばしてくるといい」

補佐くん、のくだりで彼はゲーチスさんへと視線を移し、柔和に微笑んだ。
彼は自分に視線を向けられたことに少しばかり驚きながら、しかしムクゲさんのそうした提案に苦笑して口を開いた。

「この子供ならともかく、いい年をした私のような男が、花に心を動かされるなどと本気で思っているのですか」

「幾つになっても花は綺麗なものだよ、ゲーチスくん。君だって海を美しいと思うだろう?」

彼はムクゲさんの言葉には答えず、ただ肩を竦めた後ですぐに私の腕を取り、歩き出した。
「またいつでも来てくれたまえ」と、ムクゲさんは特に気分を害した様子を見せず、寧ろ上機嫌に私達を送り出してくれた。

私はクロバットに、ゲーチスさんはサザンドラに乗ってミナモシティへと飛んだ。
短く切り揃えたセミロングの髪を、強い風が勢いよく吹き上げていく。首を突き刺す風はまだ少し冷たく、思わず肩を竦める。
すると、隣を飛んでいたゲーチスさんの視線がこちらに向けられていたので、「どうしたんですか?」と尋ねれば、彼は小さく笑って私の頭を指差した。

「ミナモシティに下りずとも、花見ならお前の頭でできそうですね」

その言葉が意味するところに気付いた私は、自分の髪に手を当ててそっと撫でてみた。
何度目かで柔らかな何かの感触を見つけて摘まみ上げれば、淡いピンク色の花弁が付いていて、地上の桜が空高くまで旅をしに来ていたことを鮮やかに示していた。
本当だ、と目を丸くする私を見て、彼はからかうように目を細めた。

けれどゲーチスさんは肝心なところを見落としている。空へと舞い上がった花弁が私の髪に絡んでいるのなら、私よりも長い髪を持つ彼にだって花弁が付いて然るべきだ。
それにどう考えても、茶色い髪の私よりも、淡い緑の髪を持つ彼のほうが「お花見」に適している。
そこまで思考を巡らせた私は、彼の髪に桜の花弁を探そうとしたけれど、それより先にミナモシティが眼下に見え、彼を乗せたサザンドラは素早く降下し始めてしまった。
ああ、言い逃げされてしまった。少しばかり悔しいような、それでいてくすぐったいような気持ちになりながら、私も、彼の後を追ってピンク色の道へと降り立った。

けれど残念なことに、その立派な桜並木の真ん中に降りた私達に降ってきたのは、桜の花弁だけではなかった。
ムクゲさんは「今夜辺り」に雨が降ると言っていたけれど、春の気紛れな気候はそんな予報よりも少しばかり早く雨雲を運んできてしまったらしい。
曇天から降り注ぐ雨粒が、桜を眺めていた人たちを一斉に散らしていった。

隣で彼は大きくため息を吐く。その反応だと彼も傘を持っていないらしい。
私が傘を携帯しない人間であることは彼だってよくよく解っている。解っているからこその落胆がそこにあり、つまるところ、私達はこの雨に濡れるしかなかったのだろう。

「雨でも、桜は綺麗ですね。でも少し強い風で一斉に散ってしまうなんて、悲しいなあ」

「華やかな風をして、その実、ひどく脆い花ということですか」

桜は脆い。その通りだと思った。彼の率直な感想を、ふわふわと吹き荒れる春色の嵐に向けた、憐れみの込められた眼差しを、否定するつもりなど更々なかった。
けれどそうした脆さがあるからこそ、この眩しく鮮やかな美しさは人の目を圧倒させることが叶っているのだと、そんな風に思えたから、私は「でも好きですよ」と告げて笑った。

これだけ大量にひらひらと舞っているのだから、私が手を伸べれば一枚くらい落ちてきそうなものだけれど、いくら手を空に伸べても、落ちてくるのは小さな雨粒ばかりだった。
彼はしばらくの間、そんな私を呆れたように見ていたけれど、やがて何を思ったのか私と同じようにそっと、曇天に手の平を向ける形で左の腕を差し出した。
すると、数秒遅れて一枚の花弁があっという間に彼のもとへと降りてきて、私は悔しさなどすっかり忘れて歓声を上げていた。凄いですね、とはしゃいでいた。
彼は少しだけ楽しそうに、その赤い目をすっと細めてみせた。

「……いいことを教えてあげましょう。私は別にこの手に花弁が落ちて来なくともよかった。
お前が変えたいと足掻いていた世界という代物はこのように、望まない人物にこそ幸運を与えるように出来ているのです」

「……」

「私は、お前があの樹海を訪れることを望んでいた訳では決してなかったというのに」

あれ、と思った。今日の彼は少しばかり饒舌であるような気がしたからだ。
まるで私が2年前の冬に、あの樹海を訪れたことが、彼にとって「望まぬ幸福」であるような言い方をするものだから、
私はおかしくなってクスクスと笑いながら、「……でも、私は欲張りですよ?」と念を押すように尋ねてみた。

「ええ、だから世界はお前に容赦などしなかった。お前が幸運だったことなどただの一度だってなかった。……この意味が解りますね」

……やはり今日の彼はおかしい。幸運は訪れなかったけれどお前は望んだ全てを手に入れたのだから、それは他でもないお前の力だ、と私を評価するような口ぶりを崩さないのだ。
彼の機嫌を上向きにする出来事に心当たりは全くなかった。あるとすれば、この桜だ。見る人を圧倒させる桜の美しさに、彼も感じ入るところがあったのかもしれない。

だから私は、そうした彼の言葉をからかうことをせず、彼のそうした「らしくない」変化に喜びながら、「はい、解ります」とだけ告げようとした。
けれどその時、遠くでゴロゴロと不穏な音が聞こえた。何だろう、とそちらに視線を向けるより先に彼は私の腕をぐいと掴み、その長身に見合う大きな歩幅で歩き始めた。
どうしたんですか、と尋ねる私に、彼は「急ぎなさい」とぴしゃりと言い放つ。
降ってきますよ、と彼が付け足したのと、すぐ近くでバリッと空の割れる音がしたのとがほぼ同時だった。私は小さな悲鳴を上げて思わず目を閉じ、肩を竦めた。

その轟音を合図とするかのように、先程までは霧のようであった筈の雨は急に激しさを増し、あっという間に大粒の雨がアスファルトを暴力的に叩くまでになった。
彼はこれを見越していたのだと、先程までの小雨なら甘んじて受けられても、この大雨には耐えられなかったのだと、気付く。けれど彼は直後、諦めたように足を止めた。
無理もないと思った。私も彼も傘を持ってはいなかったし、雨宿りをするための木に咲く桜は、この強い雨で勢いよく散り始めていた。
雨を凌げる場所など何処にもない。私も彼もこの大粒の雨に降られる他にない。そう判断したから彼は足を止めたのだろう。諦める準備がいよいよ出来ていたのだろう。

しかし私にとってはこうした、旅先で急な雨に降られる事など日常茶飯事だけれど、彼は雨を被るなんて事態にそもそも遭遇したことがないのかもしれない。
風邪を引かないだろうか。また体調が悪化したらどうしよう。そんなことを思いながら「ゲーチスさん、大丈夫ですか?」と尋ねれば、
彼はこの雨音にも負けないくらいに大きな溜め息を吐き、たっぷりの長い沈黙を置いてから私を見下ろし、「大丈夫に見えますか」と、かなり圧の込められた声音でそう返した。

「だからあれ程、傘を携帯するようにと言い聞かせていたというのに。お前の愚かさは今一度、痛い目を見なければ治らないらしい」

すると彼の左手が私の頭に降りてきた。……かと思うと、あまりにも強い力で私の、雨に濡れて重くなった髪が掻き混ぜられたのだ。
私の頭に降ってきた桜の花弁、それを髪に絡ませるかのようにわしゃわしゃと、乱暴に、豪快に乱している。
わ、と驚きに悲鳴を上げて思わずその手から逃れようとしたけれど、彼は逃げ道を塞ぐように膝を折って屈み、私の目線に顔を合わせて、屈託なく笑った。

「ああ、もういっそのこと風邪を引いてしまえばいい!言っておきますが私は看病などしませんよ。数日寝込めばお前の愚かさも少しはマシになるかもしれません」

あまりにも理不尽な叱責だと思った。傘を忘れたのは何も私だけではなかったからだ。
私は彼のそうした不条理な暴挙に「酷い」と反抗すべきだったのだろう。彼もそれを望んでいたのだろう。
けれど、できなかった。だって彼が笑っているのだ。いつもの彼とは一線を画しすぎた姿が目の前に在るのだ。吹っ切れたように、この大雨を楽しむかのように笑っているのだ。

オリーブの木を彷彿とさせる色をした、淡い緑の髪に、雨に濡れて重くなった桜が一枚、また一枚と落とされていった。
ああ、きっと「葉桜」というものはこんな風に美しいのだろう。そう思った瞬間、私の頬を雨でも桜でもないものが伝っていた。

これに驚いたのは彼のほうで、折角見せてくれていた破顔の表情を一瞬にして凍りつかせ、「……どうしました」と呆れたように、しかしそんな私の奇行をそっと許すように、尋ねた。
いけない、と思った。ここは決して泣くようなところではなかったのに。
彼と同じように屈託なく声を上げて笑いこそすれ、その声が為す奇跡の共鳴を喜びこそすれ、
この桜のように暴力的な、「彼らしくない彼」という衝撃に、感極まって泣き出すことなど、決してあってはならない筈だったのに。

「ごめんなさい、おかしくて。……貴方も私みたいに笑うこと、あるんですね」

そうして私は、少しばかり遅れて笑顔を作る。笑いながら嘘を吐く。
貴方の笑顔が「おかしい」のだと、貴方がそんな風に屈託なく笑ってくれたことがどうしようもなく「楽しい」のだと、これは笑い泣きなのだと、嘘を吐く。
貴方が「正常」であるかのように笑ってくれることが、その笑顔をよりにもよって、かつて貴方が殺そうとした私に向けてくれることが「嬉しい」のだと、
そんなこと、微塵も思っていないかのように笑ってみせる。また雷が轟き、空を割る。
彼は優しいから、私のそうした下手な嘘をわざと見抜かない。貴方はそうした人だと解っていた。……解っていた。

「雨宿りをしようかと思いましたが、止しましょう。雨に濡れていた方が、お前にとっても私にとっても都合がいいらしい」

「……」

「文句があるならお前も、私の髪を掻き混ぜますか?」

今度こそ私は屈託なく笑って、彼の長い髪を束ねている細い黒のリボンをそっと解いた。
わしゃわしゃと両手でその葉桜を掻き混ぜながら、理由も解らず頬を濡らし続ける私を、彼は子供のように笑って許した。その間も、彼の手は私の髪から離れなかった。

次の雷が落ちたら、この葉桜から手を放そう。


2016.4.5

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