「ひとり」の証言

※クリスマス企画

パタパタと軽やかな、それでいて騒がしい足音が聞こえてきて、このお方の部屋の前でぴたりと止まる。
2回のノックが終わる前に「入りなさい」と告げれば、パンフレットのような薄い冊子を腕に抱えた少女が、ロトムと共に駆け寄って来た。
勿論、このお方は顔を上げたりなどしない。彼はあのような靴音を立てて己の部屋の前にやって来る人物が、この少女を置いて他にいないことを知っているのだ。

少女の靴音には、僅かに弾むような抑揚があった。
まるで歌を歌うかのように、その靴音は大きくなり、小さくなり、時に素早く、時にゆっくりとその廊下を駆ける。
単純計算で、自分はこのお方の三分の一程しか、少女の靴音を聞いていない筈であるが、それでも彼女の靴音が特徴的な抑揚をそこに宿していることに気付いていた。
そう、自分ですら気付くのだ。このお方がその抑揚に気付き、顔を上げるまでもなくその靴音だけで「彼女」だと分かるようになったのは、果たして、いつのことであったのだろう。

「ゲーチスさん、見てください!」

朗らかなメゾソプラノで名前を呼ばれ、ようやく手元の書類から顔を上げた彼は、しかし少女が掲げたそのパンフレットを見て露骨に呆れた表情をしてみせた。
たっぷりの沈黙を置いて「それがどうかしましたか」とお尋ねになる。その、自らが造り出した沈黙すらも彼が楽しんでいることに、勿論、自分は気付いている。
自分でさえ気付くのだから、当然、このお方だってその沈黙が、少女のためではなく自分の愉悦のためなのだと心得ている。
心得ていて、それでも尚、彼は自らのための沈黙を十分すぎる程に確保する。少女もそれを許している。つくづく、不思議な関係だと思う。

「クリスマスパーティに食べるケーキを皆さんに選んでもらっていたんです。
何種類か注文することになったのですが、その内の一つを私が選んでいいことになったんです。それで、ゲーチスさんの意見を聞こうと思って」

「……待ちなさい。お前、今のプラズマ団が何人の団員を抱えているか分かっているのですか?」

「100人いようと200人いようと、クリスマスにケーキが必要だという事実は揺らぎませんよ」

さらりとそんなことを言ってのける、おそらくはこのお方よりも二回り以上年下であろう少女。
彼女とこのお方をのせた力関係の天秤はゆっくりと、しかし確実に少女の方へと傾いていた。

自分の仕えるこのお方は饒舌だ。嘘や皮肉が大の得意だ。
そんなお方がこんな小さな子供を言い負かすことなど、あるいは恐れによりたった一人を意のままに操ることなど、きっと造作もないことだ。造作もないことである、筈だった。
しかし少女はこのお方の得意とする言い回しや切り札を、長い時間をかけてとてもよく理解するようになっていた。
言い負かされ、沈黙を余儀なくされ、困ったように肩を竦めて笑うしかなかったあの頃の彼女は、もういない。
このお方に殺されかけたあの氷の瞬間を思って、恐怖に慄き震えることも、きっとない。

このお方が少女の脅威となることは二度となく、加えてこの2年という歳月は少女に新たな経験を経て成長する機会を十分に与えていた。
故に少女は饒舌である。自分の考えていることを、時に真摯に、時に冗談めいた口調で、時にからかうように、けれどいつだってこのお方の隻眼を真っ直ぐに見上げて、紡ぐ。
おそらくはこのお方も、そうした少女が紡ぐ言葉を認めている。だからこそ、子供っぽい理屈にさえ言い負かされている自分というものさえも、受け入れている。
ああ、この小さな子供の何処に、このお方を此処まで変えてしまう程の力があったというのか!

どうしようもなく楽しい方向に全てのことが運び始めていた。そして自分は、その流れの中に身を置く自分のことが、嫌いではない。

「私はどれでも構いません。お前とアクロマの好みで決めなさい」

「もしかしてゲーチスさん、洋菓子は嫌いですか?」

「そういう訳ではありませんが、生憎、ケーキにそこまではしゃぐことのできる純朴な心はとうの昔に置き捨ててきてしまっているもので」

皮肉を込めた言い回し、しかしそれさえも楽しいのか少女は困ったように眉を下げ、華奢な肩を震わせてクスクスと笑ってみせる。
あ、何か面白いことを言おうとしているな、という予兆を、自分ですら敏感に拾い上げることが叶うのだ。彼が嫌な予感に眉をひそめたのも、至極当然のことだったのだろう。
案の定、少女はケーキのパンフレットを勢いよく広げ、彼の方に向けてずいと突き出した。

「じゃあ、久し振りに一緒にはしゃぎましょう!ついでに、ケーキを決められない優柔不断な私に知恵を貸してくれると嬉しいです」

「……好きにしなさい」

その言葉を聞くや否や、少女の顔にぱっと花が咲く。思わず目を逸らして笑いを堪える。

このお方は肯定の言葉を滅多に紡がない。故にこの少女との不思議な関係が始まったばかりの頃は、沈黙で肯定の意を示すことが大半であった。
彼女がその沈黙について、怒っているのか拒否しているのかと懸念して困り果てることも一度や二度ではなかったが、
これもまた長い時間をかけて、彼女はその沈黙が肯定であることに気付けるようになっていた。

けれど少女に与えられた2年という時間は、他でもないこのお方にも変化を与えていた。
彼は沈黙ではなく、こうした「好きにしなさい」という言葉で肯定の意を示すことを覚え始めていた。
それが彼の紡ぎ得る最大の肯定であると知っているから、彼女は本当に嬉しそうに微笑む。その歓喜に満ちた笑みを見て、このお方はバツの悪そうに目を逸らす。
それがどうにも楽しくて仕方ない。

「でも、ケーキっていろんな種類があるんですね」

「お前のことだ、ケーキと言えば苺をのせた円形のホールケーキしかないと思っていたのでしょう」

「あはは、どうして分かったんですか?」

小さく吐き出した溜め息すら、溜め息とは思えないような温かさをもってこの空間に馴染んでいく。
「流石に苺をのせないケーキだってあることくらいは知っていましたよ」と反論する彼女に間髪入れず、「その様子だとブッシュドノエルも知らなかったと見える」と鼻で笑う。
未知の単語に目を輝かせる彼女に、左手の人差し指で丸太を模したようなロールケーキを指差し、「私も詳しく知っている訳ではありませんが」と前置きしてから説明を始める。

何故このお方がそうしたケーキのことにまで造詣が深いのか、その理由を知るのはおそらく、自分を含めた三人のダークしかいない。
プラズマ団員の間でクリスマスの話題が出始めた頃に、彼が自分に命じてクリスマスケーキのパンフレット、それも今、少女が持っているのと同じものを既に取り寄せていたのだと、
彼女がそれを持って自分の部屋へと駆けこんで来ることや、数多あるケーキの中からどれか一つを選び取ることができず、自分の意見を求めてくることも、
更にはブッシュドノエルを知らないというその無知の加減さえも、このお方にとっては数日前から既に「計算済み」だったのだと、それらを知る者はおそらく、我々しかいない。
それ故に、少女がその事実を知ることは永遠にないのだろう。

口外することを禁じられている訳ではないとはいえ、好んでこのお方の秘密を曝け出すような趣味は誰も持ち合わせていない。
我々を縛る鎖は数年前に比べればないに等しい細さになった。このお方の下を、離れようと思えばいつだってできる。それでも、我々はこの場所に留まっている。
昔に比べれば大きすぎる自由を手にした我々は、しかし誰一人として、此処から離れずにいる。故にそうした、自ら選んだ相手に対して誠意を尽くすのは、当然のことだ。

「……サンタクロースの砂糖菓子、あれをのせたケーキにするのなら、責任を取ってあの塊はお前が処分しなさい」

「私もあれは苦手なんですよね。ほら、口の中がパサパサするじゃないですか」

「ならあのふざけた飾りのないものを選ぶことだ」

いつもより饒舌に言葉を操るこのお方は、少女の提案したように「はしゃいで」いた。その心を読むことなど、長年このお方に仕えてきた自分には造作もないことだった。
しかし近さ故の盲目というものは確かに存在するらしい。少女は、このお方がケーキの選択に渋々付き合っているのだと、そう信じて疑わないのだろう。
その子供らしい誤解すら、おそらくこのお方はきっと楽しんでいる。

10分程の議論を経て、注文するケーキをブッシュドノエルに選んだらしい少女は、「お時間を作ってくれてありがとうございます」と、小さくお辞儀をして部屋から出ていった。
ドアが閉まり、廊下を軽快に走るその靴音が完全に聞こえなくなってから、机の端に寄せていた書類を再び左手に持ったそのお方は、
しかしあまりにも大きな溜め息を吐いてから「いつまでそうしているのです」と、苛立ちを隠すことなくそう告げる。

「席を外せ、とは言われなかったので」

「気配を消せ、と命じた覚えもありません」

確かにそうだ、と頷けば、彼は書類に落としていた視線を僅かに上げてこちらを見る。
声だけあれば命じるに事足りる筈のこのお方と「目を合わせる」という行為に、自分はまだ慣れることができずにいた。
故にさっと目を伏せようとしたのだが、信じられないことが起こった。

「アギルダーのダーク」

「!」

「お前はあのケーキでよかったのですか」

「……え、ええ。勿論です」

ああ、このお方は少女の、我々の呼び分け方をそのまま自身のものとしてしまったのだ!
しかしどうにも釈然としない。今、モンスターボールからアギルダーは出てきていないのに。
自分と他のダークを見分ける術など、この、マスクを外した白い顔を置いて他にない筈であるのに。そして、此処はどうしようもないおかしさに笑うところである筈なのに。

いつから我々は「ダークトリニティ」でなくなっていたというのだろう。
嵐のように吹き荒れたこのお方とあの少女への変化は、一体いつ、我々にも訪れていたというのだろう。

このお方はそうした自分の驚き、そして狼狽すら「計算済み」であったらしく、こちらを真っ直ぐに見据え、至極得意気に、微笑む。


2015.12.25

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