右翼に咲くダリア

※後編と番外編の間にあったであろう話

スケッチブックに広がる空、その中央に鎮座するピンク色の花に男ははて、と首を傾げた。
この少女は写実主義を取っている訳では決してなかったが、それでもその目で捉えたものを誠実に、愚直に描くことを信条とする子供だった。
そんな彼女の描く鮮やかな花、その向こうに広がる色が、土の黄色でもアスファルトの灰色でも砂浜の白でもなく、天高く伸びる空の青であることは少なからず男を驚かせた。

「お前にしては不自然な絵ですね」

一本しか持っていない絵筆に滲ませた水を、空の青になぞって淡く滲ませていた少女にそう告げれば、
彼女は「その言葉を待っていたのだ」とでも言わんばかりに得意気な笑みを浮かべ、勢いよく立ち上がり、男の左腕を取った。

「貴方にとっては不自然な絵に見えるかもしれないけれど、この花の向こうに広がるのは紛れもなく「空」なんですよ。私の目には、そう見えているんです」

含みのある言い回しが、振り向かれることなくプラズマフリゲートの甲板に放たれる。飛ぶことを放棄したこの大きな船、その一角には小さな花壇が作られていた。
花の一株でもあれば華やぐだろう、という提案は、そうした情緒とは無縁の生活を送っていそうな白衣の科学者により為されたものだった。
それ故か、はたまた本当に花が好きなのかは分からないが、彼女はこの花壇に咲く花を楽しんでいるようだった。
秋の花は燃えるような赤色が多くて、とても綺麗ですよ。そう紡いで笑った彼女の記憶はまだ新しい。

さて、そんな花壇の一角に植えられた、背の高い木がある。
それは木と呼んでいいのかと思える程の頼りない幹しか伸ばしていなかったが、その実、これは木なのだろうと思わせるだけの背丈がその植物にはあったのだ。
2mをゆうに超えるその植物は、少女の絵にあったピンク色の鮮やかな花を咲かせていた。
高いところから少女を見下ろすように、小さなものに視線を落とすように咲いているその花。空から少女を眺める花。
ああ成る程、この背の低い少女にとって、この花は空に咲くものなのだと理解して、微笑む。
しかし少女は男の背の高さに気付き、その華奢な肩を竦めて困ったように笑ってみせた。

「あ、そっか。ゲーチスさんはこの花を見下ろすことができるんですね」

自らの景色が共有されないことを少しだけ悲しむように紡がれたその言葉に、男は大きく溜め息を吐いた。
男は呆れていた。しかしそれは、そうした共有されない景色を悲しむ少女に対しての呆れではない。
そうした彼女に対して、これから自身が取ろうとしている行動に呆れているのだ。
少女を糾弾しているのでは決してない。その溜め息は、今から男が取る行動に張った予防線に過ぎない。

「!」

膝を曲げ、甲板に屈んで少女の顔よりも低い位置からその花を見上げれば、確かに、そのピンク色の花弁を通して空の青が男の目を穿った。
ああ、お前の空はこんなにも高いのか。お前が見る空はこんなにも眩しいのか。だからクロバットに飛び乗って空へと羽ばたく時、あんなにも明るい表情をしているのか。
それら全ての感嘆を飲み込んで、男は皮肉めいた笑みを浮かべてみせる。

「お前が何を描こうとしているのかは理解しました」

「よかった」

何がよかったと言うのだろう。小さすぎるその身体から紡がれるメゾソプラノは、時に彼女の何倍も生きている筈の男を驚かせ、混乱させる。
彼女は自分の理解を求めていたのだろうか。それともこの景色を誰かと共有したかったのだろうか。
だからこその「よかった」という呟きがそこにあり、つまるところ、彼女は男の皮肉めいた言葉にさえもふわりと優しく微笑める用意ができていたというのだろうか。
あまりにも愚直だと思う。そしてひどく愚鈍でもある。

愚鈍で愚直。それは男が2年という歳月を経て、少女に下した簡潔で世辞のない真っ直ぐな評価だった。
更にそこへもう一単語付け加えるなら「強欲」ということになるのだろう。
しかしその強欲も、その原因となった感情を辿れば、巡り巡って愚鈍と愚直に戻ってくることを知っていたし、
何より彼女が強欲であることなど、男が改めて評価せずとも、この船で暮らす全ての人間が知っているのだから、今更、男が繰り返す必要などなかったのだ。

「花の向こうに空が見えるって、不思議でしょう?」

詩人めいた言葉を恥ずかしげもなく紡いでみせる姿も、目を細めてその空と花の色彩を甘受する姿も、どこまでも愚直で、それ故にひどく眩しいのだと知っている。
知っているから、何も言わない。適当な相槌を紡いでおけば、あとは彼女が勝手に沈黙を埋めてくれる。埋めてくれないなら、それはそれでいい。
つまるところ、男はこの愚鈍で愚直な少女との間に生じる沈黙さえも甘受する用意ができていたのだ。
勿論、男は自らのことを愚直だ、などと、評価する気は更々ないのだけれど。

「ところで、この花の名前は何というのですか」

それは気紛れに紡いだ言葉だったのだが、少女は眉を下げ、「実は私もまだ知らないんです」と笑い混じりに首を振ってみせた。
名前も知らない花をスケッチしていたのか、と呆れに溜め息を吐きそうになる。
けれどこの少女が切り取りたいと願う一瞬というのは、得てしてそういう、名前の付けられないものにおいて為されるものであるような気がした。
過ぎる一瞬永遠にするための手段が、この子供にとってのスケッチである。
そんな彼女に切り取られた一瞬において、彼女がその名前を知らないのであるならば、そのままでいいのではないか。そんな風にも思えてしまった。

しかし彼女は、その時間を切り取ったままに留めておくことを許さなかった。

「この花を植えてくれた団員さんに、話を聞きに行ってきます。きっと名前を知っているでしょうから」

そう言って軽快に甲板を駆け出した少女だが、数度甲板を蹴ったあとで足を止め、躊躇うようにゆっくりとこちらを振り向いた。
彼女の方へと足を伸ばしかけていた男に気付くと、ぱっとその顔に花を咲かせ、飛ぶように戻ってきて男の隣に並んだ。

「あれは皇帝ダリアだよ」

皇帝ダリア。未知なる単語をその小さな唇が反芻した。
新しいプラズマ団員の制服を身に纏ったその青年は、少女の半歩後ろに立つ男の姿を見ても、特に驚いた表情を見せなかった。
背の低い子供と背の高い大人が、並んでプラズマフリゲート内を歩いている。その光景を訝しむ者は、もうこの船の中にはいないだろう。
それ程に、「仕事をする少女の傍らに男の姿がある」という事象は、団員にとって当然のこととなっていたのだ。

「晩秋から初冬にかけて咲くんだ。朝に霜が降りるくらいに寒くなると枯れちまうから、そろそろ見納めかもしれないなあ」

自らの知らない知識を教えてくれたことに対する感謝を、持ち前の誠実さで丁寧に紡いだ少女は、しかしその青年と親しげに手を振りあって別れ、もう一度甲板へと足を運んだ。
「ダリアの仲間だったんですね」と、皇帝ダリアなどという仰々しい名前の付いた花を見上げて、呟く。
いつものように適当に相槌を打って、男は左手を花へと伸ばした。
水分を適度に含んだ花弁は、しかし霜が降りると枯れてしまうという。ひどく短命なことだと思った。
……もっとも、それはこのダリアに限ったことではなく、花全般に対して言えることではあったのだけれど。

「あ、いいなあ」

背の低い少女は、空高くに咲くその花に触れることができないため、男を見上げてそう零し、楽しそうにクスクスと笑う。
爪先立ちをするでもなく、飛び跳ねるでもなく、ただ手を伸ばすだけでその花に触れられる男を、少女は羨ましいと思ったのだろう。いいなあと、焦がれたのだろう。
今、コートのポケットからサザンドラの入ったボールを取り出し、その背中に少女を乗せてやることも、この花を一輪だけ手折って少女の手の平に落としてやることもできた。
けれど男はそのどちらもしなかった。それが「らしい」と知っていたからだ。
代わりに「抱き上げて差し上げましょうか」と、喉の奥でくつくつと笑いながら紡げば、彼女は困ったように肩を竦めて「左腕だけで?」と容赦なく切り込んできた。

「馬鹿なことを。私が腕一本でお前を抱き上げられない程の軟な体躯をしているように見えるのですか」

「……えっと、見えます」

いよいよ渋い顔をすれば、少女は堪えきれなくなったように肩を震わせて笑い始めた。
少女はもう、男に言い負かされるだけの無知で無学な子供ではない。子供には違いないのだが、彼女がこの男に臆することは、おそらくもう二度とない。
その結果がこの滑稽な言葉の応酬なのだと、そうしたところまで来てしまったのだと、認めれば男もおかしくなって笑った。

「……いい花だ。間の抜けた色がお前によく似合う」

それはどう聞いても褒め言葉になどなりえないものであった筈なのに、少女はどうしようもなく「間の抜けた」笑みを浮かべ、そして男の予測に反する言葉を紡いでみせる。

「じゃあ、お揃いですね」

「……この明るい色を私に見るのか、お前は」

「だって、似ていますから」

どこが、と尋ねるより先に少女は駆け出していた。
先程のように数歩進んだところでくるりと振り返れば、鎖骨を隠すセミロングがふわり、と宙に跳ねる。
殺がれた彼女の両翼は、しかし血の代わりに声を、想いを、言葉を流す。

「空が似合うところ!」

その意味が解らぬ程、男は愚かではない。男は、少女のような愚鈍さなど持ち合わせていない。
すなわち彼女は、このダリアの向こうに空を見るのと同じように、背の高い男の向こうにも空を見ていたのだと、そう理解して男は呆れたように溜め息を吐く。
勿論、この溜め息だって少女に対するものではないのだけれど。

少女の方へと足を踏み出した男の、穏やかに細められた目の先、皇帝ダリアの向こうには、冬の海が白波を揺蕩わせていた。


2015.12.1

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