重ならなかった林檎

プラズマフリゲートの最奥に位置するこの部屋で、二人の人間がデスクに向かっていた。

右のデスクには書類の山がうず高く積まれているが、規則的なスピードでその山は徐々に減っていく。
ボールペンのインクボールが転がる音と、書類を捲る乾いた音が交互に響く。
たまに誤字を見つけると、その場で隣のデスクに軽く投げるようにして飛ばす。

左のデスクには数冊の本とノートが置かれている。
シャープペンシルを動かす音と、たまに消しゴムをせっせと動かす音、本のページを捲る音が断続的に聞こえてくる。隣のデスクのそれとは違い、その音に規則性はない。
彼女は本の内容を要約し、ノートに纏めているのだ。本の背表紙にラベルが貼られているところからして、図書館からの借り物であるらしい。

しかしそれらは彼女の趣味に過ぎない。本当の業務は別にあった。隣のデスクから飛んでくる誤字の修正を指示することと、たまに鳴る電話に出ることだ。
まるで秘書のように動いている彼女が、しかし隣でせっせと書類仕事をしている男よりも高い地位にいるのだと、普通の人はまず思わない。
若干13歳の少女が、今やイッシュでその名を知らない者はいない程の大きな組織、プラズマ団のリーダーを務めているのだと、信じる人の方が少ない。

「そう言えばいつだったか、お前が私の首を絞めたことがありましたね」

そうした、ペンと紙の音しかしていなかった筈の空間に、突如として男の声が落とされた。
左のデスクでペンを動かしていた少女はその言葉に顔を上げる。少しだけ考え込む素振りを見せてから、ふわりと微笑む。

「あら、誰かさんもほんの2年前、私を氷漬けにしようとしたような気がします」

右のデスクに座る男は、その言葉に顔を上げ、隣で柔らかな笑みを見せる少女を一瞥した。
男は皮肉が得意だ。子供を言い負かすことなど造作もないことである筈だった。
しかし少女はその男の得意とする言い回しや切り札を理解していた。
言い負かされ、沈黙を余儀なくされ、困ったように肩を竦めて笑うしかなかったあの頃の少女は、今はもういない。
今はただ、男が唐突に切り出す言葉にどのような切り返しを見せようかと、余裕をもって考えることができるようになっていた。
男の皮肉な言い回しは変わらない。けれど出会ってからの2年という歳月は、少女に成長する猶予を与えた。
最早、少女が男の言葉に沈黙することは殆どない。

「私の左腕は自分のものだとも言いましたよ」

「私を圧倒的な恐怖と力で手懐けて、自分の忠実な僕にした、とも言いましたね」

第三者が聞けば青ざめるか卒倒するかしそうなその内容を、しかし二人は始終穏やかな表情で交わしている。
そう、彼等にとって、その物騒なやり取りは思い出話に過ぎないのだ。彼等の間に疾風のように駆け抜けた、慌ただしい歳月を振り返っているに過ぎない。
遠慮をするような他人行儀な仲でも、気遣いを必要とする程の遠い存在でもなかった。少女は男を大切に思っていたし、男も少女を愛していた。
ただ、その思いの形が重なることは決してなかったのだけれど。それでもこうして愛しさが存在することを、男も少女も幸せに思っていたのだけれど。

「いつかは海の上に押し倒し、盛大に平手打ちを食らわせてくれましたね」

「私も1回だけ、同じ目に遭ったことがありますよ。仮にも女の子の顔に手を出すなんて、誰かさんはデリカシーに欠けるお方なんですね」

「死の間際を彷徨っていた相手に暴力を振るう、お前の方がどうかしていますよ」

「だって暴力を振るおうが振るうまいが、あのままだと貴方は死んでしまっていたじゃないですか」

ぴたり。そこで会話は不自然に途切れる。
男が少女を言い負かしていた、その事実はもう過去の話であったのだ。少女が男を恐れ、彼との過去をトラウマとしていた、その時代はとっくに過ぎ去っていた。
最早、男の存在は少女にとって何の脅威にもならない。男に手を掛けられたあの日は少女を苦しめない。
しかし少女とて、彼に言い負かされない力を身に付けたのは、彼を言い負かすことを目的としたものでは決してなかった。
自らが被った些細な屈辱を、それがどんなに小さなものであれ、男に跳ね返すことは許されないと理解していた。


「生きていてくれて、よかった」


ぽつりとそう紡いで少女は笑った。それがいつかの言葉に被せられたものだと男も理解していた。
そう、ここで男を言い負かし、彼に些細な屈辱を与えることを少女は許さなかった。
それは男の性格を推し量ってのことであったのかもしれないが、何より少女自身が、そうしたくなかったのだ。
誰にも人を傷付ける権利などないのだから、たとえ傷付けられた側の人間だったとしても。
二人はそれを誰よりも理解していた。だからこそ少女はそうした優しい言葉でこの思い出話を締め括ることを選び、男もそれを受け入れたのである。

誰にも人を傷付ける権利などない。そう、殺されかけたからといって、相手を殺しかけていい筈がない。それを少女は知っている。
少女はかつて男の首に手をかけたが、男を殺すつもりなど微塵もなかった。生きてほしかったから手を掛けたのだと、男も理解している。
だからこそ、それらはあくまでも優しい記憶として、彼等の中に留まり続けているのだ。

少女は立ち上がり、歌うように問いかける。

「コーヒーとココア、どっちがいいですか?」

「……ブラックで」

「はい」

パタパタを簡易キッチンの方へと駆けていく、その少女の髪は肩程で切り揃えられている。その後ろ姿に、男は昔の少女を重ねることが困難となってしまっていた。
長すぎるツインテールを軽やかに揺らして微笑む、記憶の中の少女と今の少女がどうしても重ならなかった。
しかしそれは、少女が男に背を向けていた場合の話だ。

「!」

名前を呼ばれた少女はぱっと振り向き、その青い目に男を映して首を傾げる。
その目を男は忘れていない。忘れる筈がない。

「……「私が貴方を守ります」とは、また随分と傲慢な言い方をするものだ」

「ふふ、「好きなだけ泣きなさい」も、同じくらい思い上がったお言葉だと思いますよ?」

男が少女の脅威となることは、もうない。にもかかわらず、少女は男の元を去ろうとはしない。
畏れ故でもない、尊敬や崇拝の念がそうさせた訳でもない。二人は同じ目線で互いを見ていた。
彼の元に留まるべき強い感情は、もう全てなくなった筈だった。けれど二人は隣に並んでいる。男もそれを理解している。
少女が何故、自分の隣に在るのかを知っているのだ。そして、その理由は自分にも当て嵌まるのだと理解していた。

愚かなことだと男が蔑んだその感情を、2年という歳月は受け入れさせるに十分な優しさを持っていたのだ。
それでもいい、と思えた。男は諦めていた。そして、そんな自分が嫌いではなかった。それを少女も理解していた。

「思い上がってなどいない。事実でしょう」

「それなら、私の傲慢もまた事実だったんですね。誰かさんは、帰ってきてくれましたから」

同じ場所を選んだ二人は、こうして言葉の投げ合いを続けている。両者とも、一歩も引く気配を見せない。
ただし、その顔はとても楽しそうに微笑んでいたのだけれど。
彼等のそんな思い出話は、ケトルが甲高い音を立てるまで止みそうにない。


「おかえりなさい」


そんな男と少女の名前は、


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