※曲と短編企画、参考BGM「Cage」
誰か、私に確信させてはくれないだろうか。
「シェリー」
フラダリは落ち着いた声音で少女の名を呼んだ。暗闇に溶けるようにして潜んでいた彼女はその音にびくりと身体を震わせる。
その振動が空気を伝い、フラダリの身体を突き刺す。……ああ、自分はまた拒まれてしまうのかと絶望する。
この少女の状態はそれこそ天気のように変化した。落ち着いている時もあれば、幼子のようにフラダリに甘えてくる時もある。
親を殺した敵であるかのように、フラダリに憎悪の視線を向けることだってあるのだ。
そして、その変化は誰にも予測できない。この、生きることから逃げてしまった少女を唯一無二の親友だとした、あの14歳の少女ですらも。
『今、シェリーを生かしているのは貴方です、フラダリさん。』
少女の親友はそう言って、フラダリに縋るような視線を向けた。
どうしてもシェリーを死なせたくないのだと、その青い海のような目は雄弁に語っていた。そして、そう思っている人物をフラダリは他に、少なくとも一人だけ知っている。
ああ、この少女はこんなにも、彼女を取り巻く人間に愛されているのに、それでも彼女は戻って来てはくれないのだ。
「……来ないで、嫌。出て行って」
「落ち着きなさい。わたしは君を傷付けたりしません」
「嘘よ、嘘吐き。だって、だって皆、私を、」
フラダリはうわ言のように非難と拒絶の言葉を繰り返す少女の手を素早く叩き、持っていたものを落とさせた。
すかさず、それを拾い上げる。それは髪を留める時に使うヘアピンだった。刃物の類をこの少女から悉く取り上げても、彼女は全てのもので己を傷付けることを止めない。
それは自らの身から大切なものをそぎ落とす行為に似ていた。事実、彼女の腕から滴り落ちる赤は、冷たいフローリングに落ちては彼女の足元を飾ったのだ。
「痛かったでしょう」
「……」
「すみません、もう少し早く止められていればよかったのですが」
フラダリは申し訳なさそうに笑った。それは本心だった。フラダリは本当に心苦しく思っていたのだ。
そして、それは何もフラダリに限ったことではない。
『シェリーを、カロスから逃がしてください。』
『いつか、二人がカロスを思い出してくれる時がきたら、また此処に来てほしい。……ボクはずっと待っているよ。』
彼女の旅路をずっと見守り、支えてきたプラターヌも、彼女の親友として誰よりも献身的な寄り添いを続けてきたシアも、彼女の傍でずっと戦ってきたポケモン達も。
誰もが彼女を想い、誰もが心苦しがっていた。
そんな皆の思いに気付くことなく、自らの身から大切なものを削ぎ落とし続ける少女を叱ることは容易い。
一体何をしているのだ。いい加減、逃げずに向き合いなさい。そう説くことは容易い。ただ、その言葉をフラダリが音にすればいいだけの話なのだ。
『シェリー、大丈夫だよ。私が守ってあげる。』
しかしフラダリがそうしないのは、フラダリ以上にそうしたいであろう人物が、少女に対して、ただの一度もそうした感情や言葉を向けたことがないからに他ならない。
彼女の親友を名乗る少女は、いつだって笑っていた。時に覚悟を決めたような恐ろしい目をする時があったけれど、少なくとも彼女の前でその笑みを崩したことは一度もない。
自らの親友がこのように変わり果ててしまえば、普通は驚き、戸惑い、距離をおいてしかるべきだとフラダリは思っていた。それが多感な10代の当然の反応だと知っていた。
しかし彼女はそうしない。まるでこのような経験があるかのように、何もかもを熟知しているかのように振る舞い、時に年の離れたフラダリのことすらもリードするのだ。
フラダリはそんな彼女の覚悟を知らない。笑みを絶やさない彼女の本音を知らない。だからこそ彼は彼女を尊敬していた。畏れていたのだ。
しかしそんな彼女は今、此処にはいない。今は夜も更けた11時で、少女はとっくに彼女自身の居場所へと戻ってしまっている。
あの少女の代わりが自分に務まるとはとても思えなかったが、少女はこの家にフラダリを残して出て行く時、その目に確信を宿して紡いだのだ。
『大丈夫ですよ、フラダリさん。シェリーが本当に必要としているのは私じゃない。貴方です。どうかそれを忘れないで。』
フラダリは彼女のメゾソプラノを脳裏で反芻し、その腕を少女へと伸べた。
嫌、と少女はそれを拒んだが、どう考えても大柄な男の力に非力な彼女が敵う筈もなく、その腕の中で小さく拒絶の言葉を紡ぎ続けるだけになってしまった。
「だってもう私は要らないの。もう私はカロスを救った。チャンピオンにもなった。あの赤いカーペットの上を歩いた。カロスのポケモン図鑑だって完成させた」
「……シェリー」
「もう私の旅は終わったの。私はもう二度と旅には戻らない。私はもう二度と、ポケモントレーナーにならない。それなのに、私は死ねない。死なせてくれない……」
「シェリー!」
フラダリは少女の口を塞ぐように、自らの胸へと彼女の頭を抱き寄せた。少女は血に濡れた腕でフラダリを力無く叩いた。
自身を拒む力が弱々しいものになりつつあることにフラダリは気付いていた。
彼女の名前を紡ぐ時、フラダリはその音に懇願を含めている。
誰でもいい。自分とこの少女の親友に確信させてほしい。
もうこれ以上、失うものなど何もないのだと。もう全てが狂ってしまっているのだから、もう何も変わりはしないのだと。
「置いていくのですか」
「……」
「わたしを置いていくのですか、シェリー」
そして彼等の言葉は同じ場所へと戻って来る。
こんな会話をするのは、もう一度や二度ではなかったのだ。数日おきに繰り返されるこんな夜を、フラダリは受け入れつつある。
カロスに何もかもを捨て置いた少女が、せめてその命だけは捨てずに握り締めておけるようにと、フラダリも少女の親友も願っている。
そしてそのための言葉を、フラダリは知っているのだ。この少女は自分を置いて行けない。この少女は自分を見限らない。
その事実はフラダリを支えていた。絶望に気が狂いそうになっていたのは、少女の方だけではなかったのだ。フラダリの命もまた、この少女に繋ぎ止められていたのだ。
「……」
少女はようやく、その腕の力を完全に失った。
くたりと倒れるようにフラダリにその身体を預け、しばらくすると嗚咽が聞こえてくる。
この少女が泣くことは珍しくない。泣き叫ぶ彼女の姿をフラダリは何度も見てきた。
それでも、絞り出すように紡がれるソプラノの嗚咽に慣れることなどなく、それはフラダリの心に突き刺さり、彼を抉っていく。
「さあ、血を止めましょう。君のことだ。一昨日の傷跡をなぞっている内に止められなくなってしまったのでしょう?」
「……」
「少し待っていてください。消毒液と包帯を持ってきます」
フラダリは立ち上がり、落ち着きを取り戻しつつある少女を残して部屋を出た。
自分の手には彼女の血がべっとりとついていて、服にも丸い形をした赤い染みが残されていた。
きっとこの血は落ちることなどないのだろう。
フラダリが文字通り、その身を捧げるようにして愛した少女に、まだ朝はやって来ない。
2015.2.25
すえさん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!