鞦韆メトロノム

※第二章と第三章の間くらいにあったかもしれない話、参考曲「Insomnia」「Noctiluca」

「眠れないのですか?」

夜中の3時を回ろうとしている頃だった。当然のように外は暗く、半月が低い空にぼんやりと傘を被って浮かんでいた。明日はどうやら雨が降るらしい。
そうした情報を木々の隙間から拾い上げ、フラダリは再び前を向く。樹海の中に注視すべきものなど何もなく、ただ木と草と小枝が彼の視界を覆いつくしていた。
けれどフラダリは「其処」に彼女がいることを確信していた。何故なら音が聞こえていたからだ。古い木馬の軋むようなその音こそ、彼女が起きているという証であったからだ。

樹海の中に一際大きく伸びている、立派な木の下へと歩みを進める。この深い緑の海には風さえその存在を主張せず、遥か上の枝がさわさわと頼りない音を降らせるばかりであった。
その木の下は少しばかり開けていた。数日前に彼女と彼女のポケモンが「拓いた」のだ。
周りの雑草を抜き取り、土をならした。余分な木はダイケンキとクロバットが切り落とした。小さな円状の空間はあっという間に出来上がった。
そうして彼女は中央に位置するこの木の最も太い枝に、長い長いロープを2本、吊るした。

「フラダリさんも乗ってみますか?楽しいですよ!」

まるで夜ではなく昼の3時であるかのような、そうした、眠気も不安も恐怖も懐疑も感じさせない、底抜けに明るい声音がその小さな少女から発せられた。
丸太に穴を開け、そこに2本のロープを結び付けただけの簡素な代物を、彼女は「ブランコ」と称して楽しんでいた。
やすりを掛けただけの無骨な丸太に腰掛けて、陽の当たらない黒い地面を思い切り蹴り飛ばして、徐々に速度を上げていくのだ。

「そんなにスピードを出すと危ないですよ」

「ふふ、そうですね!でも私、スピードを出そうと思って出している訳じゃないんです。そろそろ止まろうかなって、さっきからずっと思っているんですよ。でも止まらないんです!」

彼がブランコの傍へと歩み寄り、差し込む月明かりが僅かに照らす彼女を近くで捉えたときにはもう、それは息を飲む程の豪速でぐわんぐわんと夜を裂き始めていた。
空を軸とする少女の、下向きに吊るされたメトロノームはこうして速度を上げていく。アレグレットからアレグロへ、ともすればプレストにもなってしまいそうであった。
けれどその姿に速度記号を見たとして、彼女は何を奏でているというのだろう。彼女はリズムを取るばかりで、その揺らぎに合わせて何かを歌ったことは一度もなかった。

「もしかしたら世界の回転に私は邪魔なのかも。だからこうして遠心力で、私を弾き出そうとしているのかも。弾き出された私は、……ふふ、何処へ行ってしまうんでしょうね?」

「……」

「ちゃんと樹海を泳げるかしら。私は私の大切な人のところへ戻れるかしら。それとも弾き出された私には、戻る資格もないのかしら。戻ってはいけないのかしら」

故にそれはメトロノームではないのかもしれなかった。メトロノームというのはフラダリの希望的観測であって、少女の真実ではないのかもしれなかった。
フラダリは彼女の豪速をメトロノームのアレグロに見立てることで、もっと惨たらしい想像から目を逸らそうとしているのかもしれなかった。
例えば、このブランコが絞首台に見える、などという。

「君を待っている人がいない筈がない。今だって君の帰りをあの船で待っている」

そうした良からぬ想像はフラダリを不安の渦に突き落とした。底抜けに明るい笑顔を湛える彼女の、その向こうにある夜はぐるぐると渦を巻いてフラダリを招いていた。
お前もおいで、こちらへおいでと夜は言う。貴方は来ちゃいけない、貴方は私のように笑ってはいけないと少女は言う。
フラダリはどちらの言葉にも従えず、ただ夜を、彼女を見ている。

「私、今日は此処に泊まる旨の連絡をちゃんと入れているんですよ。アクロマさんがこんな夜中にまで私を待つ意味なんか、ないと思います」

「ええそうでしょうね、彼は眠っている。けれど君を待っている。彼はそうした人なのでしょう?誠実で一途な君が、好きになった人なのだから。
あるいは強欲な君のように、眠っている間も君のことを待っていたい、などと考えているのかもしれませんね。君には、そうした彼の想いが聴こえないのですか?」

彼女の笑い声が止んだ。ブランコの揺らぎが一瞬だけぎこちない様相を呈し、ぎしり、と嫌な音を立てて軋んだ。
何か見えない大きな力が、彼女のメトロノームを指で押しとどめたかのようであった。何か見えない大きな想いが、彼女の絞首台を壊さんとしているかのようであった。
「私のことをかけがえがないとしてくれる人がいることは知っています」と、笑わなくなった彼女は目を伏せる。
軋むブランコに反して、それでも彼女は黒い土を蹴り続けている。ブランコは軋むことを止めない。彼女の無音の演奏はまだ終わらない。

「けれどそれと同じくらい、私のことを憎んで、恨んで、痛烈に嫌っている人がいることも解っています。おかしいでしょう?私は求められたり、拒まれたりしているんです。
ブランコはいつだって私を弾き飛ばさんとして揺れているのに、人の揺らぎは私を引き寄せたり弾き飛ばしたりするんです」

私が、千切れてしまいそう。

どうして息を飲まずにいられただろう。
平静を保っていられる筈がなかったのだ。フラダリはやるせなくなって、怒鳴りたくなって、頭を抱えたくなって、……けれどいよいよ沈黙した。
それ以外にこの夜の隙間を埋める術がなかったのだ。
少女はそんなフラダリに微笑みかける。もう昼の3時を思わせる陽気で快活な、底抜けに明るい笑顔をしてはいなかった。夜の笑顔だった。黒い、暗い笑い方であった。
ああ、君はそうした風にも笑えるのかと、でき得るならずっと知りたくなかったことを知る。

「見て、フラダリさん。朝が来ますよ」

フラダリには少女が何を指して「見て」と言ったのか解らなかった。故にフラダリは何を見ればいいのか解らなかった。けれど少女は笑うのだ。
朝という単語はまだこの瞬間からは遠く、東の空も明るくなっていないし、月だって沈んでいない。そうした、まだ朝の気配を微塵も拾い上げることの叶わない空間であった。
けれど少女はその何処かに朝を見ている。いや、見えずとも、朝が来ることを確信しているのかもしれなかった。

「どうしてシェリーには朝が来ないんですか?」

フランコは揺れ続けている。少女は絞首台から降りようとしない。

「どうしてあの子は旅を続けることができなかったんですか?どうしてあの子はカロスの人に心を開くことができなかったんですか?
どうしてあの子はポケモンを拒んだんですか?どうしてあの子は私を突き飛ばしたり、私に縋ったり、私に酷い言葉や優しい言葉をかけたりするんですか?
どうしてあの子は自分の腕を切るんですか?血ってそんなに綺麗なものなんですか?毎日でも見ていたいと思う程に、温かくて美しくて、安心するものなんですか?
どうしてあの子は眠れないんですか?あの子の夜と朝は何処へ行ったんですか?」

シア、」

「あの子の世界はあんなにも小さいのに、どうしてこのブランコはこんなにも大きく揺れるんですか?」

大きく揺れる身体から発される声は、遠ざかり、近付き、また遠ざかる。その揺らぎによって彼女の歌は大きくなったり小さくなったりしている。
アレグロで奏でられる彼女の「どうして」は殊の外、フラダリには堪えた。
正直に「分かりません」と弱々しく吐き出せば、少女は責めるように許すように揶揄するように縋るように「どうして?」とまた、尋ねる。

「君の求めている答えを、わたしは知りません。それはそのまま、わたしが君に問いたかったことだからです。わたしも、君に答えを求めようとしていたからです」

少女はまだ14歳だった。悉く聡明で勇敢で強欲なこの人は、けれどその身で、その頭で、その心で解決できない「何故」を存外多く抱えすぎているのだ。
そしてそれは、少女よりもずっと大きな大人である筈のフラダリにも言えることであった。
大勢を救うために奔走していた筈の彼は、たった一人を救うという点において悉く無力であった。
彼の存在は「彼女」を突き落としこそしないが、引っ張り上げることもできていない。今はまだ、朝を差し出せない。
そうした、奇妙な同士の関係をこの二人は結んでいた。二人を結ぶ糸はいつだって「シェリー」の姿をしていた。勿論、今だってそうだ。

「……世の中には答えなどない問題の方が多いのだと、私の大好きな人が言っていました」

「その人も、きっと今の君のように辛い思いをしたことがあるのでしょう」

少女は浮かせていた足をようやく地面に付けた。ざく、ざくと黒い土にスニーカーの先を押し当てて、少しずつブランコの速度を抑えていく。
アレグロでずっと揺れ続けていた少女というメトロノームは、アンダンテへと変わり、更にアダージョへとスピードを落としていく。揺らぎが小さくなっていく。
……もうすぐ、彼女の不毛な曲が終わる。終わればきっと朝が来るのだろう。フラダリとこの少女は、少なくとも朝を覚えているからだ。
今が夜であることも、いずれは朝になることも、解っているからだ。

「君が首を吊ってしまうのかと思った」

絞首台の軋む音が完全に止んでから、フラダリはぽつりとそう零した。少女は至極意外そうにその海を見開いて彼を見上げて、そして声を上げて笑い始めた。
昼の3時を思わせる、底抜けに明るい笑顔だった。けれどもう、フラダリは不気味だとは思わなかった。

「あはは、そうですね、確かにそういうこと、このブランコでならできてしまいそうですものね。ごめんなさい、変な不安を抱かせてしまって」

意外そうな顔を浮かべたところからして、あまりにも明るい笑い声を上げたところからして、彼女にはそうした意図は全くなかったのだろう。フラダリはこれ以上ない程に安心した。
彼女はただ単に揺られたかっただけなのだと、どんなに豪速で揺さぶられても、その手を離して弾き出されたくなかったのだと、
そうして必死にしがみついていたかっただけなのだと、ようやく確信できたからだ。
そんなフラダリの心を読んだかのように、少女はその海の目をキラキラと瞬かせてふわりと笑い、「私は首なんか吊りませんよ」と、フラダリの確信を二人の真実へと、変える。

「だってそんなことをしたら、大好きなシェリーとの時間を、貴方に全部奪われてしまうでしょう?私は強欲だからそういうこと、許せないんです」

「……君の身体が千切れようとも?」

「いけない?」

おそらくは首を吊るよりずっと残酷な贖罪を、けれど彼女は毅然とした表情で選び取る。
二人の「どうして」が紐解かれないまま朝が来る。彼等はおそらく眠れないだろう。それでもよかった。無骨なブランコは少女の惨たらしい覚悟を肯定するように凪いでいた。


2017.3.14
(鞦韆:ブランコの和名)
まるめるさん、素敵なCDのご紹介、本当にありがとうございました!

© 2024 雨袱紗