千行の雨

※雨企画。樹海第二章、5話のゲーチス視点
(千行の雨:ちすじのあめ)

とにかく、よく泣く子なのだ。

その華奢な腕がゲーチスの衣服を強く掴む。しわが出来てしまうと懸念することを彼は既に忘れていた。
そんな風に強く縋るにもかかわらず、彼女は決して彼の衣服に涙を落とすまいと、空いた方の手で次から次へと涙を拭うのだ。
忙しい子供だ、と思いながら、彼は少女を自室へと招き入れる。ソファへと少女を座らせ、ココアを用意しながら、彼は少女の嗚咽に溜め息を吐く。

泣き虫、などという言葉では足りない程に、少女は泣き過ぎていた。ゲーチスは彼女の泣く姿を数え切れない程に見てきたのだ。
彼女は饒舌だ。自分の考えていることを、正直に、誠実に、流暢に伸べる。一回り以上年の離れた男に対してもそれは同様で、彼女は男の前でもよく喋った。
自分の考えていることを伝えるための手段として、自分を知ってほしい、相手を知りたいという望みを叶える方法として、彼女は声を手に取り言葉を紡ぐ。
しかし、時に彼女の言葉がそうした彼女の想いを超えられない時がある。少女の複雑で大きすぎる思いを表すのに、言葉では足りなさすぎる時が多々あるのだ。
そんな時に少女は泣く。想いを表す言葉を見つけられない、あるいは足りない時に、彼女の言葉では抱えきれなくなった想いが、声の代わりに少女の目元から零れるのだ。

「少しは落ち着きましたか」

隣に座り、呆れたようにそう言えば、少女は泣きながら笑うという何とも器用な真似をしてみせた。
あまりにも乱暴にその涙を拭う手が気になって、彼は思わずその手をさっと払いのける。無理に擦っては目が腫れてしまう。
そうでなくとも少女の海の目は、泣き腫らして夕日を映したようになっていたのだが。

慣れた手つきで男は少女の目元を拭う。決して目には触れないように、零れる涙だけ、頬を伝うその前に乾いた指で引き取る。
他人の涙に触れたのは、この少女のそれが初めてだった。そして、きっとこれからもこのような機会はやって来ないだろう。
ゲーチスが誰かの目元の手を伸べ、その涙を拭う時があるとするならば、それは後にも先にもこの少女だけなのだと知っていた。
それどころか、今でも時折信じられなくなるのだ。
自分が、このような人間が、こんな少女の縋る相手となっていることが。かつて少女を殺しかけた自分に、彼女が絶対の信頼を寄せ、涙を見せる相手となっていることが。

「……」

彼女は親友を救えなかった。

『どうすればいいか、私も考えます。だからお願い、逃げないでください。辛くても、苦しくても、生きてください。』
逃げないでください。それはあの頃のゲーチスを生かす楔だった。
自分の生を望む人間が確かにいる。生きてくださいとこの少女が自分に懇願している。それはそのまま男の生きる意味となったのだ。彼はその言葉に確かに救われていた。
けれどその「逃げないで」という言葉が、かつての男を救ったその言葉が、別の誰かの首を絞めることもあるのだ。この幼い少女はそれを失念していた。

だから彼女は悔いている。彼女に「旅をやめる」という選択肢を差し出すことのできなかった自分を、一緒に旅をすることを選べなかった自分を叱責している。
「逃げないで」という言葉に、親友であるあの少女は追い詰められていた。そして、最も大きな逃避を選ばざるを得なくなってしまったのだ。
それは「死」という名の、とても甘美で残酷な逃避だった。

シェリー、と彼女がその名前を嗚咽の合間に紡ぐ。彼はその弱々しい声音に溜め息を吐いた。
そんなに辛いのなら止めてしまえばいい。何もかもを自分の責任だとせずに、あの少女が死を選んだのは彼女の明確な意志だったのだとして、諦めてしまえばいい。
男は脳裏で並べたそんな言葉を、しかし一笑に付した。解っている。解っていた。そんな風に潔く諦めることができる人間ではないことを、彼はとてもよく知っていたのだ。
この少女がそうした潔い精神を持ち合わせていて、とても奔放に生きることのできる人間であったなら、今、自分は此処には居ないのだと解っていた。
彼女はそうした、とても欲張りな人間だったのだ。この涙は、そんな欲張りな子供の悲しい性なのだ。

「……お前も、」

思わず零れた言葉に少女は顔を上げる。どうしたんですか、と嗚咽の合間に尋ねてくる。
彼は沈黙を貫こうとしたが、その泣き腫らした目を直視できなくなって、その目を覆うように手を伸べた。
突然のことに少女の肩が僅かに跳ねる。

「お前も、こうして泣いていたのですか」

「……私が、泣くのはいつものことですよ、ゲーチスさん」

困ったように笑ってそう紡ぐ彼女に、彼は大きく溜め息を吐く。
普通のコミュニケーションにおいて、溜め息を吐くという動作はあまり相手にいい印象を与えない、できるだけ避けるべきものである筈だった。
しかし彼は溜め息を吐くことを止めない。そこには双方の信頼にも似た形があった。
彼が溜め息を吐くのはいつものことだと少女は知っていたし、この少女は自分の溜め息程度で気分を悪くしたりしないということを男も解っているのだ。
つまりはそうした距離に二人はいたのだ。互いの想いの形は異なっていたけれど、それでもいいと許し合える程度の優しさであったのだ。

「私の元に通っていた時も、私を連れ戻そうと奔走していた時も、こうして泣いていたのですか」

「!」

「誰かにこうして、拭ってもらっていたのですか」

少女はその言葉に、ぎこちなく微笑んで肯定の意を示した。
その「誰か」が差す人物の名をゲーチスは知っていた。この少女が、おそらくは誰よりも、何よりも信じ、慕っている人物だ。
その白衣の後ろ姿を思い浮かべて、また溜め息を吐く。しかしそれでもよかったのだ。寧ろそれがよかったのだ。
少なくとも、今、少女はその男の元ではなく、自分のところへ来てくれている。その事実だけで十分だった。

この少女に恋慕めいたものを抱く気持ちは更々なかった。彼女は幼すぎたし、彼は年を取り過ぎていた。
しかし、この少女にそうした想いを抱くことができないからこそ、為せる関係があったのだ。あの白衣の青年には為せない想いの形が確かにあったのだ。
ただその一点だけにおいて、ゲーチスは微笑むことができたのだ。他に何が必要だったというのだろう。

「でも本当は、誰かの涙を拭えるようになりたいんです。私がしてもらっているように、誰かに」

「……お前にそんなことができるとは思えませんがね。拭うその前に、もらい泣きしてしまうのでは?」

酷いなあ、と少女はクスクスと笑いながらそう紡ぐ。嗚咽は少し収まっていた。そのことに彼は少しだけ安堵した。
自分の言葉で、誰かの涙が止まることもあるのだ。それは長く生きてきた筈の彼が初めて知り得た新鮮な感情だった。

この、泣き虫という言葉では足りない程によく泣く少女が、誰かの涙を拭えるとはとても思えない。
それでも彼女は今回のように、誰かの目元に手を伸べるのだろう。その相手が死を選んだとしても、その相手に拒まれたとしても、どうしても諦めることができないのだろう。
だからこそ、彼女は今、こうして泣いているのだろう。彼女の雨は、彼女の心が枯れないように降り続けているのかもしれなかった。

「では私で練習してみますか?」

その言葉に少女の嗚咽がぴたりと止んだ。
あまりにも急激なそれに男の方が驚いたが、少女の顔に驚きの表情が貼り付けられているのを見て、自分の言葉が原因だったのだと思い至る。

「私の涙を拭ってみますか、シア

沈黙をもう一度切り裂いて繰り返せば、少女は我に返ったようにクスクスと笑い出した。
この男が時にこうした冗談を口にすることを少女は知っていたが、そのどちらも同じ表情で紡がれるため、たまに冗談の是非を突くことが困難である場合がある。
その困ったような笑みには、今の発言を冗談と取るか本気と取るか迷っている様子が見受けられた。

「……ゲーチスさん、泣きたくなったことがあるんですか?」

ぱちぱちとぎこちなく2回、瞬きをする。困惑したり驚いたりした時の少女の癖だった。
その拍子に残っていた涙がすっと頬を伝い、宙に雨の糸が伸びる。
その糸を手繰り寄せるようにして彼は少女の頭を軽く叩く。

「ええ、お前のせいで私は雨に降られてばかりだ。責任を持って拭いなさい」

その言葉で、この不思議な冗談の意味を理解した少女は、ふわりと曇りのない笑みを浮かべた。
ああ、やっと笑った。ゲーチスはその表情に安堵する。それだけで十分だったのだ。他には何も要らなかったのだ。
彼女の雨は彼女の心を枯らさないように、大きすぎる想いに押し潰されてしまわないようにと降るものだったのかもしれない。
けれど同じように彼女のそうした笑顔が、他の誰かの心に降り注いでいることを、果たしてこの少女は知っているのだろうか。
知らなくてもいい。知っていたなら、それはそれでいい。

彼は泣かない、彼の雨は見えない。それでも少女はその細い指をそっと彼の目元に伸べる。


2015.4.16
素敵なタイトルのご提供、ありがとうございました!

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