※曲と短編企画2、参考BGM「レガシィ」
サイコロ後編、ゲーチス帰還直前の話
少女は沢山の言葉を覚えていた。
彼女が大切だとする人達からの、彼女に向けられた大切な言葉を、少女はずっと持っていたのだ。
その中には、今の少女に理解できないものもあった。けれど彼女は「解らないから」と、おの言葉を自らの過去の中に埋没させることはしなかった。
寧ろ少女は、そうした「解らない」言葉を好んで記憶していた。その言葉の裏には少女の知らない世界が広がっていると信じられたからだ。
『では、きっとわたし達は似ているのですね。ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているのと同じように、わたしも貴方を思っているのだと。』
『貴方の望む真実が見つからないのなら、貴方がそれを真実にしなさい。』
『世の中には、その人に「かけがえのない存在」を見出している訳ではないにもかかわらず、その人に手を貸したい、その人を支えたいとする複雑な思いが確かにあるのですよ。
そしてシアさん、貴方はそうした思いを抱く傾向が強いようだ。』
その全てを少女は覚えていて、それは忘れ去られることなど在り得ない筈だった。
けれどある日、その「在り得ない」筈のことが起きてしまった。
少女は今の自らを構成していると言っても過言ではないそれらの言葉を、全て思い出せなくなってしまったのだ。
そのことに、少女なら絶望しただろう。
宝物のようにずっと抱えてきたそれらの言葉を、大切な人からの大切な言葉を、一度に失くしてしまったことに、彼女は狼狽し、絶望しただろう。
けれど、そうはならなかった。その言葉の「存在」そのものを消されてしまった少女の記憶は、絶望するための理由を失っていたのだ。
だからその言葉を思い出せなかったとして、何も傷付くことなどなかったのだ。
けれど、少女は悩んだ。苦しみ、思い煩い、ずっと息苦しさを抱えて過ごしてきた。
思い出さなければならないと焦りながら、思い出さなくてもいい、寧ろ思い出してくれるなとでもいうような周りの反応に少女は戸惑い、傷付いた。
真実を告げようとする人物と、嘘を重ねようとした人物との情報が交錯し、人の言葉の中に真実などないのだと疑心暗鬼に陥った。
結局のところ、少女の真実は少女だけが知っていたのだろう。しかし少女はその「真実」を思い出せない。彼女は苦しみ続けていた。
そんな彼女が真実を求めて最後に縋ったのは、何よりも大きな嘘を吐いた人物だった。
あの一年半のことを思い出せないままに過ごした10日間は、彼女にとって忘れられない時間となっただろう。
少女は記憶を失い、何もかもを忘れてしまった自分がいかに空虚な存在であるかを知った。
それと同時に、記憶を失っていても同じ人間を慕い、同じような時間を重ねる、そのことがとても不思議で、けれど同時に嬉しかった。
少女は沢山の言葉を覚えていて、それらが今の自分を象っているのだと自覚していた。
けれど同時に今回の経験で、記憶などなくても同じことが繰り返されるだけなのだと知った。
思い出せなかったとしても、何も変わらないのだと。ただ同じように時間が重なっていくだけなのだと。
ただ、「彼」と出会いさえすればよかったのだと。
*
目まぐるしく過ぎる日々の中で、少女は時折、あの10日間を思い出すことがある。
自分を思って隠し事や嘘を重ねてくれた人のこと、それに守られて暮らしてきたこと。全て忘れてしまいながらも、大切な人と同じような日々を共有したこと。
各々が重ね過ぎた嘘が綻んでしまうのにそう時間は掛からず、少女は重ねられ過ぎた嘘のせいで真実に辿り着けず、歯がゆい思いをした。
その嘘や隠し事を責めることはどうしてもできなかった。少女はそれらの嘘が自らを思ってのことであると心得ていたからである。
けれど、たった一つの嘘だけは、どうしても許せなかったのだけれど。彼女の中の真実を計り違えた彼のことを、少女は叱責せずにはいられなかったのだけれど。
少女はその日、甲板にいた。船の先に陣取り、海が運んでくる冷たい冬の風を全身に受けるのが少女は好きだった。
カツカツ、とプラズマフリゲートの甲板を歩く足音に少女は顔を上げる。
残念ながら、足音だけでその人の正体を当てる技量は彼女には備わっていなかったが、それでもその足音が誰のものであるかは解っていた。
彼女がこの場所を気に入っていることを知る人間は、彼女の知る限りでは一人しかいないのだから。
「シアさん、風邪を引いてしまいますよ」
案の定、聞き慣れたテノールに少女は思わず笑ってしまう。
振り返れば、彼はやはり困ったように笑って「どうしました?」と尋ねてくれる。
「何でもないんです。ただ、アクロマさんの声だなあ、と思って」
「わたしの声はおかしいですか?」
「そ、そんなことありません」
慌てて訂正する少女に、今度は彼の方が声をあげて笑い始めた。それがおかしくて少女も釣られるようにして笑う。
風が二人の声を海に乗せ、溶かしていく。二人にとってこれ以上ない程に心地よい時間だった。
これを上回る愛しさは、きっとあの苺の紅茶の香りをおいて他にないだろうと、そう確信するに十分な輝きを持っていたのだ。
「シアさん、あの交渉はまだ有効ですか?」
アクロマと呼ばれた男は、少女の海のような目をじっと見据える。少女はそんな彼に少しだけ首を捻りながら「交渉?」と、彼の言葉を反芻して問いかける。
「去年の方ですか?それとも、今年の秋に交わした方ですか?」
その言葉に益々おかしくなって男は微笑む。微笑んで、ああ、この少女と自分が見ているものは同じなのだと思い至り、嬉しくなる。
「何のことですか?」と聞き返したりしない。この少女は言葉をどこまでも覚えている。殊にこの男と交わした交渉、約束に関して、男も少女も忘れることはない。
忘れることないと思っていたそれらの言葉を、少女は一度手放した経験を持つ。だからこそ、次こそは決して手放すまいと決めているのだ。
「覚えていない」ということが自分を大切に思ってくれている誰かを傷つけうるということを、少女はあの10日間で身をもって経験していたのだ。
そして誰よりも、この大切な人を傷つけたくないと願っていたのだ。どうして彼の言葉を過去に埋没させることができただろう。
「では、今年の分でお願いします」
少しだけ肩を竦め、楽しそうにそう切り返せば、少女はああ、と納得がいったように頷いた。
「はい、有効ですよ。というより、どちらの交渉もどの約束も、アクロマさんと交わしたものを反故にするつもりは、今もこれからもありません」
その言葉にアクロマはほっとしたように微笑み、少女の肩にそっと手を伸べた。
そしてそのまま、強く抱きしめる。苺の紅茶の香りが少女の鼻をくすぐり、思わず笑みが零れる。
全てを忘れてしまった少女と、忘れられたアクロマは、その10日間の間にある交渉を交わしていた。
少女に関することを、嘘を交えずに伝える。その代わりに時々こうさせてほしいのだと、アクロマは以前、少女に告げていた。
『時々、こうさせてください。貴方が泣いていない時でも、わたしがこうすることを許してください。そしてわたしがみっともない顔をした時は、傍にいてやってください。』
思い出せないこと、忘れ去られたことで、二人の心は傷付き、疲弊しきっていた。
だからこそアクロマはこのような言葉を紡いだのであり、少女もそれを受け入れた筈だった。
全てを思い出した今となっては、その交渉は無効となる筈だった。
けれどアクロマはその交渉の内容を引き出し、少女もそれを受け入れ、認めている。つまりはそうした距離に二人はいたのだろう。
男は少女の背に回していた腕をそっと解き、その手を小さな頭にのせてそっと撫でる。少女はクスクスと笑いながら穏やかに目を細めた。
「いつまで?」
しかし男のその言葉に、少女は再びその海のような目を見開くことになる。
少女はその頬に片手を当てて考え込んだ後に、とても楽しそうに彼を見上げ、紡いだのだ。
「それじゃあ、貴方が私を嫌いになってしまうまでにしましょうか?」
「……おや、それではあの交渉は永遠の誓いになってしまいますよ。わたしには、何の不都合もありませんが」
永遠、という浮いた言葉が出てきたことに男も少女も驚き、しかし次の瞬間には小さく笑い始める。
男の柔らかなテノールと、少女の澄んだメゾソプラノが共鳴する。奏者である風はその旋律を海へと運び、溶かしていく。
永遠などない。絶対などない。現に忘れてしまう筈がないと思っていた全ての言葉を少女は忘れ、大切な人を傷付けていた。
それでも、その非現実な言葉は、二人の間に交わされた不思議な約束を飾るに相応しい言葉だった。そしてその言葉は永い時間を掛けて真実へと変わっていくのだ。
そして今日、交わされた言葉だって、少女はきっと忘れることなどないのだろう。彼女と彼は飽きるほどに誠実なのだから。
2015.3.17
ささびさん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!