※曲と短編企画2、参考BGM「オレンジ」
サイコロ中編、25話既読推奨
『なんと愚かなことだ、こんな子供に絆されるとは。』
少女と男の邂逅はあの船の最奥でなされた。
真夏の暑い日のことだった。
男は苛立っていた。それと同時に、呆れていた。人の心はこうも簡単に、弱き存在に絆されてしまうのだと、男は知っていた。
知っていたからこそ、自らは決してそれに飲まれまいと誓っていたのだ。
しかし、自分がそれなりに信頼を置いていた科学者が、そんな人の性に呆気なく飲まれるその様は、男に衝撃と絶望と屈辱を与えた。男は苛立っていた。
背の低い、青い目をした少女だった。
自らの命を奪おうとしている鋭利な氷にも臆さず、真っ直ぐに男を見据える少女だった。
『それに、今もこれからも、イッシュは美しいままです。だって私が貴方を止めるから。』
ああ、どうして、どうしてこうも自分の何もかもを奪う人間というのは、皆一様に眩しすぎる目をしているのか。
男はその海の目が堪らなく不愉快だった。
その少女が、死を覚悟していた男の元へとやって来た。男の忠実な配下の手引きにより、少女と男はあの日から数か月振りに再開することとなった。
冬の風が吹き荒ぶ冷たい日、その夜明けの頃のことだった。
少女はそれから毎日のように男の元へと訪れた。
大きなスケッチブックを広げ、この小さな家の窓から見える景色を飽くことなく書き続けた。
男はその少女の来訪を拒み、追い払うだけの力を失っていた。最早、男の存在は少女にとって何の脅威にもならなかった。
けれどそれは同時に、少女が男に縛られる必要のないことを示している筈だった。勝者である筈の彼女は、男のことなど忘れて明るく生きていく筈だった。
そんな彼女が、まるで前に進むことを躊躇うかのように男の元へと歩みを続けるその様に、男は戸惑い、呆れ、そして苛立っていた。
何よりも、少女がここへやって来ることを日常として受け入れつつある自分に苛立っていた。
そして男は、その苛立ちを含めた何もかもから解放されるために、自らの命を絶つことを選んだ。
けれどそれすらも少女は許さなかった。
冬の終わり、海の水がこれ以上ないほどに冷たく感じる、夜明けを目前に控えた暗闇でのことだった。
『貴方は生きるんです。誰を踏み台にしてもいい。私でもいい。生きてください。』
『貴方が何をしたのかのかを覚えていない程、私は馬鹿なわけじゃありません。許さないです。許してなんかあげない。』
『それでも私は傍に居たい!』
信じられないような言葉が男の鼓膜を貫いていた。それはどこか別の星で紡がれている言語のような異質さをもってして、男の心臓を大きく揺らしていた。
愚かなことだ、と男は思った。あの邂逅の日の言葉は、別の屈辱をもってして男を蝕み始めていたのだ。
けれどその少女の懇願を切り捨てることは何故かできなかった。
男もまた、自身が蔑んだ愚かな人間の性に飲まれてしまっただけのことだったのだ。どうしてその選択にそれ以上の理由を与えることができよう。
けれど男は、どうしてもこの少女を解することができなかった。
この少女は何故、自分の元へと足を運び続けるのか。何故、自分に生きていてほしいと懇願してみせるのか。何故、自分に微笑みかけるのか。
男は少女の何もかもが解らなかった。
けれど自らを殺しかけた当人である男の元へ通い続ける少女には、もう恐れなど何もないのだろうと男は思っていた。
事実、氷の刃を向けたあの瞬間でさえも、少女は気丈な目をもってして男を見据えていたのだから。
けれどその気丈さが、少女の精一杯の虚勢であったことに、男はその半年後に気付くこととなった。
冷たい春の雨が激しく降る日のことだった。
少女は恐れていたのだ。男が少女に氷の刃を向けたあの日から半年以上が過ぎた今でも、その瞬間を思い出させる、肌を刺すような冷たい感覚に怯えていたのだ。
平気な顔をして彼の元へ通いながら、その頬に傷を付けられたことなど忘れたように、笑顔でこの場所を訪れながら、
彼女は一度たりとも、あの時の恐怖を忘れたことなどなかったのだ。死が迫ってきたあの瞬間は、彼女に確かなトラウマを刻んでいたのだ。
そしてそれを最も連想させるであろう男の元へ、彼女に手を掛けようとした張本人の元へ、彼女は笑顔でやって来ていた。
男はようやく、少女が隠していたその大きすぎる恐れを知った。それと同時に、その存在に嘘を吐くかのように自らの元へと通い続ける少女の大きすぎる覚悟を知った。
見事だ、と男は思った。この少女に、敵う筈がなかったのだ。
男はあの日から半年を経て、ようやく自らの敗北を認めることができたのだ。そしてあろうことか、その少女の虚勢と覚悟をも認めるかのようにその言葉を紡いだのだ。
『私は何も見なかった。お前は滴る雨が作った水溜まりに滑って自分で転んだ。突然手を掴まれたことに驚いてそれを振り払った。何もおかしなことなどなかった。』
泣きながら笑うという器用な表情をして見せた少女のことを、男はどうしても忘れられなかった。
そんな男が、少女に自らの全てを語ってみせたことがあった。
春の雨が降り止み、少女が一本の傘を得意そうに見せたその直後のことだった。
普段から自らのことを寡黙であると自負していた男が、饒舌に、しかも早口に自らのことを少女にまくし立てた、その事実は男自身にも驚くべきことだった。
それは男がずっと抱えてきた屈辱の表し方だったのだろうか、あるいはもっと別の何かだったのだろうか。
お前が生きてほしいと懇願した男は、本当にその価値を有しているのか?生きることを屈辱だとする自身を縛り付ける、その意味が一体何処にあるというのか?
そうまくし立てた男に、しかし少女はそれ以上の気迫と憤りをもってして、彼の首を、絞めた。
『ゲーチスさん、貴方は思い上がっています。』
『仮にそれでも、どうしても死にたいのだとして、貴方にはもう、自分の命の行方を決定するだけの権限はないのだと、どうして気付かないんですか?』
『貴方は生かされていると、まだ解りませんか、ゲーチスさん。』
その瞬間、男の胸は確かに痛んだのだ。
この子供に、いつも笑っていた少女に、首に手を掛けるなどという、少女にとって恐ろしいことである筈のその行為を選ばせたのは、他でもない自分だ。男はそれを知っていた。
その事実から、決して目を逸らすべきではなかった。
少女はそうまでして、何を伝えようとしているのだろう。どのような感情を自分に向けようとしているのだろう。
男は少女に首を絞められて初めて、彼女の心と、そして自分の心と向き合うことができたのだ。
『ゲーチスさん、貴方の左腕は私のものです。』
『生きていてくれて、よかった。』
『手を、殺いでください。』
『貴方が私を大切だと言ってくれたから、私は貴方を守ります。誰に何を言われようと、傍に居ます。ずっと!』
『手を殺いで、などと言ってくれるな。』
『あの子供は私のものだ。守る必要があったなら私が守ります。お前達の手など煩わせませんよ。』
『あの子供が大切だからです。そう思っているのはお前ではない、私だ。』
『……馬鹿な子だ。』
あの不愉快な時間を、それでいて衝撃的で穏やかで優しかった時間を、男は覚えていた。
そこで交わした言葉を覚えていた。あの少女が落としていった数多の感情は、男を緩やかに、けれど確実に変えていった。
絆される、などという言葉ではあまりにも生温い。絆は足枷とならなかったのだ。それは確かに他の何かを示していたのだ。
シア、お前はその全てを覚えているのだろうか。
男は小さなメモ用紙にペンの先を落としていた。
何を書けばいい。あの少女に伝えたいことがあったとして、どれを選べばいい。男は迷っていた。
元気にしているのか。いつものように、笑っているのか。その屈託のない笑顔で、他の誰かの心を晴らしているのか。
その全てを飲み込んで男は笑った。どうせ全てなど書き切ることなどできないのだ。それならば、もういっそのこと全てを書かないでおこう。
あの少女に未来を与える嘘だけを書いておこう。
どうせその嘘は男にとっての真実になるのだから。優しい嘘を真実に変える術を、男はあの少女に教わったのだから。
『待っていなさい。迎えに行きます。』
一行だけ書き込んだその手紙を二つ折りにして、緑色の色鉛筆を一本だけ入れた。
そうだ、あの海の絵を一枚寄越しなさいとでも書いておけばよかったかもしれない。そんなことを思いながら男はその口に僅かな弧を描く。
男にとっての「海」は、青以外の何物でもなかったのだけれど。
2015.3.19
杏さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!