彼の屈した不条理

※曲と短編企画、参考BGM「Days」
サイコロを振らない中編17話とリンクしています。

意味のない時間を重ね続ける、これはきっと、罰なのだ。アクロマはそう思っていた。

『大丈夫です、シアさん。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます。だから、不安にならなくていいんですよ。』
それは誓いの言葉だった。アクロマは少女が「揺れる」ことを許してしまっていた。

自分のしたことは果たして正しかったのだろうか。そうするしかなかったのだけれど、それでも最善の選択肢が他にあったのではないか。
自分はその選択肢を見落としていたのではないだろうか。自分の選択が苦しめた多くの人に対して、どうすれば償うことができるのだろうか。
少女はいつも考えていた。12歳の少女が抱えたその難題は、まるで鉛のように少女の足を縛り、前へ進むことを禁じていた。

『ゲーチスさんに、会いました。』
だから、去年のあの冬の日、やっと一歩を踏み出した少女を、アクロマはどうしても止めることができなかったのだ。
ここで少女を咎めてしまえば、彼女はまた立ち止まってしまうだろう。指針を失い、途方に暮れ、泣き続けていたあの毎日が戻って来るのだ。
それだけはどうしても避けたかった。彼女の一歩を、肯定し、支える。アクロマにはその選択肢しか残されていなかった。
たとえ、その一歩に少女が後から悔いることになってしまったとしても。

アクロマは少女の明日を案じていた。少女に最上の明日を与えたいと思っていた。
けれどそれは、彼女の今日の笑顔を犠牲にしてまで求めたいと思える程の強さではなかったのだ。

『大丈夫です、シアさん。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます。だから、不安にならなくていいんですよ。』
しかしその誓いは破られた。アクロマは彼女を支えることができなかった。
だから、きっとこれは罰なのだ。
少女が全てを忘れてしまったことも、彼女の中で「アクロマ」が消えてしまったことも、自分が「ゲーチス」を名乗ったことも、全て罰だったのだ。
アクロマは少女を守れなかった。彼女の思いを支えることができなかった。

あの日、少女がゲーチスの居場所を見つけ、彼の元へ通い始めたあの冬の日。既にアクロマは確信していたのだ。
この少女はいつか、あの男に絆されるだろう、と。
解っていた。解っていながら、止められなかった。

シアさん、海は嫌いですか」

イッシュを離れた少女は、ジョウト地方のワカバタウンにやって来ていた。
アクロマは以前、大学で就いていた准教授の肩書きを活かし、少女が住んでいる家の隣に在る研究所で仕事を始めていた。
仮眠室を借り、そこで寝泊まりしながら、静かに毎日が過ぎようとしていた。そんな時に、少女が「ゲーチス」を訪ねてきたのだ。

『ゲーチスさん。』
少女の口が「自分」を呼ぶ度に、アクロマの胸は痛んだ。自分の吐いた嘘に首を絞められているような心地がしていた。
この少女に必要なのはアクロマではない、ゲーチスだ。そう判断したからこそ、アクロマは自身の名前を「ゲーチス」と偽り、彼女に関わることを選んだのだ。
けれど、少女が自分の目を見上げて紡ぐその音は、アクロマに幾度となくあの後悔を思い出させていた。
自分は彼女を、支えられなかった。彼女の心を、守れなかった。

「浜辺を歩きましょう。一度、貴方と二人で海に来たいと思っていたんです」

「……ゲーチスさんは、海が好きなんですか?」

またしても心臓を抉り取られるような痛みを覚えた。
解っている。彼女は何も悪くない。悪いのは彼女に大きすぎる嘘を吐いた自分自身なのだと、解っている。解っていた。
しかし、少女の苦しみが限界を超えてしまったのと同じように、アクロマの心も限界に達しようとしていたのだ。
自分の、おそらくはもっとも大切な存在である人物の中には、自分はいない。そして少女は、自分ではない存在の名前を呼び、縋るように見上げている。
少女の中に、もう「アクロマ」は存在しない。

その瞬間、アクロマは少女の手を引いていた。波が打ち寄せる砂浜を沖へと歩き、靴を暖かい海水に沈めた。
きっとこの少女は、自分の信頼していた「ゲーチス」の奇行に驚き、不安になっているに違いない。解っている、解っていた。それでもアクロマは、止められなかった。
この他に、今にも零れてしまいそうなものを誤魔化す術が見つからなかったからだ。

アクロマは少女から少しだけ距離を置き、足元に打ち寄せる海水を掬い上げて、少女の方へと投げ飛ばした。
彼女の小さな悲鳴が秋の空に吸い込まれて、消えていった。彼女を軽く挑発すれば、慌てて同じように海を掬ってこちらへと投げてきた。
ああ、おかしい。彼女が自分が滑稽で堪らない。
自分を「ゲーチス」だと信じて海を投げ続ける少女も、こんなことで己の涙を誤魔化そうとしている自分も、彼女を沢山の嘘で守ろうとした誰もが狂っていた。
そう、誰もが狂っていたのだ。でなければ、こんなにも苦しい筈がないのだ。

声をあげて笑いながら、少女は海を掬い上げ続けた。彼女は「ゲーチス」である自分を信じているのに、アクロマは全てを忘れた少女のことを信じられない。
そのことがどうしようもなく悔しかった。アクロマはその手を止めて立ち尽くした。
少女の笑い声がぴたりと止み、ぱしゃぱしゃと波を蹴って駆けて来る音が聞こえた。アクロマは自身の顔を見られまいとして、少女の腕を強く掴み、引き寄せた。
少女の心臓の音がすぐ近くで聞こえるこの状況はアクロマを安心させたが、慌てたように紡がれたその言葉は絶望をもってして二人を隔てた。

ゲーチスさん、ゲーチスさん。
繰り返し「ゲーチス」を呼ぶ少女の声が深く突き刺さった。あまりの痛みにアクロマは耐えられなくなった。

もう、やめてくれ。

「呼ばないで」

アクロマのその言葉に、少女は驚き、後ずさった。
ああ、またこの少女を傷付けてしまった。そう思いながら、それでも言葉が止まらなかった。

「わたしを呼ばないでください、シアさん……」

違う。……違う。
本当は、アクロマはずっと、少女に自分の名前を呼んでほしかった。
「アクロマさん」と、その鈴を転がすようなメゾソプラノで自分の名前が紡がれる瞬間を、彼はずっと待っていたのだ。
けれど少女は自分の名前を呼ばない。少女が見ているのは、自分ではない。

「!」

しかし次の瞬間、アクロマははっと息を飲む。嗚咽を零して泣き始めたのは、寧ろ少女の方であったからだ。
あまりにも唐突に零れた彼女の涙にアクロマは驚き、狼狽した。そして少女が嗚咽混じりに紡いだその言葉も、彼を驚かせるに足るものだった。

「ごめんなさい」

何を、とアクロマは思った。この少女は何に対して謝っているのだろう。
少女が泣いてしまったことに対してだろうか、アクロマが泣いてしまったことに対してだろうか。「ゲーチス」に対してだろうか。それとも「アクロマ」に対してだろうか。
数多の逡巡を続ける中で、少女の嗚咽は益々酷くなっていった。
アクロマは少女を落ち着かせるためにそっとその肩を抱いたが、少女は絞り出すような声音でその言葉を紡いだのだ。

「私、何も、解らないんです。貴方のことを、何も、何も知らない……!」

雷に打たれたような衝撃が走った。
思い出せないことに最も苦しんでいるのは、アクロマではない。トウコでも、ダークトリニティでもない。他でもない、彼女自身だったのだ。
そんな単純なことに思い至れない程に、アクロマの精神は疲弊し、限界を迎えていた。
けれどそれは少女も同じだった。彼女は嗚咽の合間に謝罪を重ね続けた。

「ごめんなさい、私が、悪いんです。私が、何も思い出せないから、私が、貴方を忘れてしまったから、だから、」

その姿が、一年半前の少女の姿と重なった。雷に怯え、傘を差し出したアクロマに縋るように抱き付いて泣き出した、あの頃の姿をアクロマは思い出していた。
……ああ、自分は何をしているのだろう。

大きすぎる嘘で守っていると思い込んでいた少女のことを、アクロマは傷付けていたのだ。
全く別の方向へと飛び散った二人の思いは向きを変え、同じ場所へと戻ろうとしていた。


2015.2.25
秋雨さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

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