海を渡るファンタジー

※曲と短編企画、参考BGM「笑ってた」

私の新しい冒険が動き出そうとしていた。

「忘れ物はありませんか」

「はい、大丈夫だと思います」

今日は私がシェリーを追い掛け、カロスへと旅立つ日だ。
私の初めての親友の旅に、少しでも力になれればと思った。そしてそうするためには、私も彼女と同じ土地を踏む必要があると思った。
遠くからのアドバイスはどこか現実離れしていて、きっと意味を為さない。
彼女と同じ世界を見て、彼女の旅に似たものを私も辿って、そうして初めて私は彼女の力になれるような気がしていた。

そんな私の我が儘を、あろうことかこの人は許してくれた。
許してくれるだけならまだしも、「アクロマを同行させます」と言って、私の旅路を全面的に支えるようなことをしてくれたのだ。

ここ数日、私にカロスの言葉を教えてくれたのは他でもないゲーチスさんだった。
文法構造や発音などはイッシュとよく似ているけれど、やはり全くの無勉強で飛び込むにはその言語の壁は厚すぎた。
彼の指導はとても解りやすかった。発音も完璧で、私は彼が以前、カロスで暮らしていたのではないかと疑ってしまったけれど、それを尋ねることはできなかった。
……正確には、彼の指導者としての気迫がそれを許さなかった。

『私に指導を請うのだから、生半可な知識のまま、カロスに向かえると思わないことだ。』
2年前の夏、出会った頃を思い出させるような声音でゲーチスさんはそう紡ぎ、とても楽しそうに笑ったのだ。
雑談は厳禁、発音を間違えれば射るような冷たい目と共に辛辣な言葉が飛んでくる。私が単語のミスをした時の彼の目は、それこそ人を殺せるような威力さえも持っていた。
……そう、彼は恐ろしい程に完璧主義だった。
だからこそプラズマ団を大きな力を持つ強大な組織に仕立て上げ、入院後のリハビリだって短期間で済ませることができたのだろう。
彼のストイックな性格とカリスマ性を、こんなところで見ることになるとは思わなかった。

確かに指導者たる彼はとても恐ろしい。それこそ「従わなければ殺される」というくらいに。
しかし私はそんな彼に戦慄する一方で、少しだけ嬉しく思ってもいたのだ。

彼は、笑うようになった。

以前はそれこそ、僅かにその口元を緩めるだけだったのだけれど、最近ではその「笑顔」の種類が増してきているような気がする。
安心したように微笑んだり、皮肉を交えた笑みを零したり、あるいは私にカロスの言葉を教えている時のように、とても楽しそうに悪戯っぽく笑ってみたりもするのだ。
彼は2年という長い年月を経て、その顔に沢山の表情を増やしていった。そしてそんな彼を見ていて、気付いたことがある。
彼は笑うと、ずっと優しくなる。

「言葉の壁は気にする必要はありません。そのように教育しましたから」

「……正直、カロスの壁よりもゲーチスさんの壁の方が分厚かったような気がします」

彼のスパルタに比べれば、言語の異なる地方で旅をすることなど、造作もないことだと思ってしまう。それくらい、彼の指導は厳しかった。
そんな冗談を投げれば、彼は眉間に鋭くしわを寄せた。そんな彼がおかしくて私は声をあげて笑った。
彼は呆れたように私を見ていたけれど、しばらくして肩を竦めるようにして笑ってくれた。
彼は笑うと、ずっと優しくなる。

「向こうに着いたら連絡を寄越しなさい」

その言葉に私は驚いた。彼はとても解りにくいけれど、その言葉から私を案じてくれているのだと察することは容易にできた。
それが嬉しくて、私は思わず上擦った声で返事をしていた。

「きっと毎日、電話をかけてしまうと思います」

私は買ったばかりの小さな電子機器を、ポケットから取り出して笑った。
地方を跨いでの通信は、ライブキャスターではできない。
それ故に、イッシュにいるゲーチスさんの元へ、カロスにいる私が連絡を取ろうと思えば、別の機械を購入するしかなかったのだ。
更に言えば、私はそんなことを知らなかった。この深い青をした小さな携帯機器は、ゲーチスさんが私に買い与えてくれたものだったのだ。
まだ使い慣れていないその機械の小さな画面を起動させれば、ゲーチスさんが持っている深い緑の機械に繋がる番号だけが登録されている。

「でも、つまらないことしか話せないかもしれません」

「お前が面白いことを話せたことがただの一度でもありましたか?」

「酷い!」

私は思わず叫んでいた。ゲーチスさんは肩を小さく震わせて笑った。
確かに私は、トウコ先輩のように面白いことを言ったり、場を盛り上げたりするのは得意ではない。
それを自分でも解っていただけに、彼のその指摘はとても鋭く私の胸に突き刺さった。

「いいのですよ、私はお前のそのつまらない話を待つために、その機械を購入したのですから」

「……私の、話を?」

「では、私がこんな機械に興味があるように見えたのですか」

それはない、と思った。彼はカリスマ性と統率力、指導力にかけては秀で過ぎているけれど、工学や科学はあまり得意ではないようだった。
だからこそ2年前、キュレムを従えるための力として、アクロマさんをプラズマ団に招き入れることにしたのだ。
だから、そんな彼がその小さな機械に興味を持つことなど、あり得ない。そうなると、彼は私の話を待ってくれている、という彼のその言葉は真実なのだろう。
それがただ純粋に嬉しくて私は笑った。大して面白くもない私の話を待ってくれる人がいることは、とても幸せなことだと思ったからだ。

「カロスには四季がありませんが、土地によって気候が大きく異なるようですからね。防寒具を購入できるだけの金額は持っておきなさい」

「大丈夫ですよ、いざとなったらイッシュまで取りに戻ってきますから」

「それから、知らない人間に付いていかないように。アクロマも四六時中、お前のことを見ている訳ではありませんからね。自分の身は自分で守りなさい」

「ゲーチスさん、子供を送り出すお母さんみたいですよ」

その言葉に彼は、今日一番の不機嫌な顔を浮かべた。
クスクスと笑う私の声音は、春の風がさらっていってしまった。
出発の時刻が迫っていて、私は少しだけ泣きそうになってしまった。けれど悲しむことなど、何もなかった。だって、彼はもう、

「今度の旅に、お前を邪魔する組織は現れません」

「!」

「お前を組織へと誘導する科学者も、お前を殺そうとする愚かな男も、現れません。思う存分、楽しんでくるといい。そして私に、つまらない話を聞かせなさい」

彼はそう告げて笑った。次に続くかもしれない言葉を止めるために、私は背を伸ばして彼の口を手で塞ごうとした。
けれど長身である彼の顔に、私の手が届く筈もなかったのだ。つま先を立てて必死に背を伸ばす私に、彼は怪訝な顔をする。

「……何をしようとしているのです」

「だって、ゲーチスさんが謝ってしまいそうだったから」

彼はその隻眼を見開いた。私はその瞳に懇願する。
お願いします。私にすまなかったなどと謝ったりしないで。貴方が理不尽な世界で生き抜く為に足掻いていたその軌跡を、私への謝罪なんかで貶めたりしないで。
いつだって、自分は何も間違っていないのだと、その気丈な声音で断言していて。
だってそれは真実なのだから。誰も、何も間違っていなかったのだから。そして私は、そんな日々すらも愛していたのだから。
だから、知らない土地で、何があったとしても私は平気だ。そんな強さを、私は貴方達に貰った。

「私、イッシュでの旅も、大好きでしたよ。あの旅があったから、私は貴方を止められた」

そう紡げば、彼はやや乱暴に私の頭を叩いた。
いってきます、と紡ごうとしたけれど、ゲーチスさんは直ぐに私に背を向けてしまった。
だから私は、小さくなるその背中に思いっきり、声を投げてみることにした。

「……ありがとう!」

彼は振り返ったけれど、私は彼の顔を見ることなく背を向けて駆け出した。
ボールを投げ、クロバットの背中に飛び乗る。私の冒険が動き出す。


2015.2.25
秋雨さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

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