零度の花

(サイコロから5年後、SS企画2-4(17)と2-5(24)の花交換を振り返る)

白さが目に眩しい。
観光地として有名なサザナミタウンにおいて、その輝きはそう珍しいものでもなかったのだが、
今日に限ってはその白が「砂」によるものではなく「雪」によるものであったという、その一点こそが今日という日を特別たらしめていた。

「さ、寒い!」

紺色のトレンチコートを上からぎゅっと握り締めるようにして少女は叫ぶ。寒い、寒すぎます、と不平を言いながら、けれど何がおかしいのか声を上げて笑っている。
黄色いマフラーの隙間から、少し癖のある茶色い髪が覗いている。彼女の髪は「あれ」からずっと、セミロングのままであった。それ以上長くなることは決してなかった。
殺がれた両翼は殺がれたままに、彼女は小さな背中を男へと見せ続けている。時折振り返っては屈託なく笑い、微塵の躊躇いも見せずに男の名を呼ぶ。

「セッカシティやネジ山以外に、雪なんて積もらないと思っていました」

「ええ、私も、サザナミタウンに雪が降るところを見るのは初めてです」

吐く息は煙たさを覚える程に白く、短い相槌ですら息は白い壁となって銀世界に溶けた。
ただそれだけのことがどうにもおかしくて堪らないらしく、少女は肩を震わせて笑う。クスクスと彼女の息が震える度に、吐かれた息がゆらゆらと冬の風に揺蕩う。
雲間から僅かに覗いた太陽が、その息をふわりと巻きあげて煌めかせる。
「ダイヤモンドリリー」と思わず呟けば、少女はその名前を繰り返し、小さく首を傾げた。
その名前がどうしたんですか、とでも言うように、彼女は純な眼差しを男に向ける。よもや忘れてしまっているのだろうかと、少し愉快に思いながら男は小さく笑う。

男と少女は何処までも相容れなかった。男は彼女を理解することを拒み、少女は男に共鳴することを許されなかった。
故に男が覚えていることをこの少女が覚えていなかったとして、そんなこと、今更絶望するまでもないことであったのだ。
寧ろ愉快だ、それでこそお前だと、鼻で笑ってやれる程度には、男は平穏を手に入れ過ぎていた。
些細な仕事上のストレスは、けれどささやかな幸福の証であるのだと、解っていたからこそ、心を折ることなどしなかった。できる筈がなかった。

「お前が私に贈ってきたことがあったでしょう。カロスのフラワーショップで見つけた、などと手紙には書いてあったように思いますが」

「あ!……ふふ、そんなことがありましたね、懐かしいなあ。もう5年も前のことなのに、ゲーチスさん、よく覚えていますね」

「私にとって、覚えておかなければならない記憶というものはそれ程多くないのですよ。お前と違って、目まぐるしく慌ただしい生活を過ごしている訳ではありませんから」

そう告げて、しまったと思った。にわかに眉間のしわを深くした男の顔をぐいと見上げて、少女は何処か得意気に、それでいて照れたように笑ってみせた。
いつもの皮肉により、自身の些末な弱みを握られてしまった男は、降参だ、とでも言うように両手を軽く掲げ、イニシアティブを完全に少女へと譲る。

「お前にとっては些細な贈り物だったのだろうけれど、私にとってはあれから5年たった今でも色褪せない、鮮やかな感動の記憶であったのだ」と、
そうした趣旨の言葉を告げてしまった男はもう、どうすることもできず、ただ機嫌を損ねた風を装って顔を背けることしかできなかったのだ。
やってしまった、と思う。気を抜きすぎたか、とも思う。
零した言葉は戻ってこない。その音のなかった頃の心には戻れない。混ざり合った熱湯と冷水はもう、混ざる前の熱さと冷たさを思い出すことなど叶わない。
人の言葉は、人と関わるということは、そうした不可逆的な変化なのだ。もう戻れないのだ。解っている。解っていた。

「でも確か、ゲーチスさんもその後、私に白い花を贈ってくれましたよね。
ダイヤモンドリリーの眩しさにも全く劣らない、宝石みたいな花でした。トルコキキョウを見たのはあれが初めてだったから、私、すごくはしゃいでいたんですよ。
……あ、そういえばあの花籠にはカードが添えてありましたよね。黒い薄板に金の文字が彫られたお洒落なあのカード、今でも大事に持っているんですよ」

「……それくらいにしないか」

ぴしゃりとそう告げて窘めれば、早口で言葉を並べていた彼女の音はぴたりと止まる。
コンサートホールの中央に立つ、オーケストラ楽団を率いる指揮者というのは、こういった心地なのだろうかと男は少しばかり考え、小さく笑った。

「5年も前に贈りつけた花の名前を覚えていて、5年も前の輝きを今になって絶賛して、5年も前のカードを今も大事に持っていて?
……私と違って忙しなく生きているというのに、お前には抱えたいものが多すぎる。大人になればその強欲もマシになるのかと思っていたのですが、私の見当違いだったようだ」

大きく鼻で笑ってみせる。海の目を大きく見開いたこの少女は、しかし明日から「少女」ではなくなる。明日、彼女は20歳になる。
小さかった背は少しばかり伸びた。3匹しか連れていなかったポケモンは随分と増えた。コーヒーをブラックで飲めるようになった。趣味のスケッチは、今でも続けている。

ジャイアントホールで、この少女に氷の刃を向けたあの日から、今年で8年になる。
大きく変わってしまったものも、何も変わらないものもあった。そうしたことを受け入れるのに、随分と長い時間を要した。
諦め、受け入れること。それは諦めずに足掻くことよりも、受け入れられずに駄々を捏ねることよりも、ずっと難しい。大人になるということは存外、困難を極めるのだ。

「違うんですよ、ゲーチスさん。私が強欲だから覚えていた訳じゃないんです。
たとえ私が、貴方の想定していたような控え目な淑女になっていたとしても、私は貴方から貰った花のことを覚えていたと思います。カードだって、捨てられなかったと思います」

それでも彼女は大人になる。大人の形を取りながら、子供のような言葉を紡ぐ。人の目を真っ直ぐに見て話をする。嘘を吐かず、ありのままを伝えてみせる。
彼女の誠意は、その視線や言葉にさえ表れていた。彼女の視線や言葉が濁りを呈したことは、少なくとも男の知る限りでは、ただの一度もない。
男はしかし、その誠意に共鳴してやるほどに優しい人間でもないので、ふいと視線を逸らしては白い砂浜を強く踏みしだき、呆れたように笑ってみせる。
彼女の眩しいところを拾い上げて抱き締める役は、もう随分と前に別の人間に譲ってしまった。
だから彼はそうした誠意を受け取らず、笑い声と共にこの寒空へと送り出すだけでよかったのだ。

不思議と、寒くなくなっていた。吐く息は相変わらず白かったが、風はもう肌を突き刺さなかった。
それだってきっと、この子供のような大人が馬鹿げたことを口にしたからなのだろう。
互いの花を覚えていたという、ただそれだけの事実を子供のように抱えて、手放さずにいたのは、少女だけではなかったのだ。
共鳴することなど在り得ないと思われていた二人の間に、ささやかな共鳴の音を確かに聴いたから、少し、おかしくなっているのだろう。心地いいと、思ってしまったのだろう。
少なくとも男にとってその「心地よさ」は、身を切るような寒さを忘れさせる程のものであったのだ。

そうしたささやかな、けれどかけがえのない喜びを、しかし男は口にしない。
男は少女のように誠実でも愚直でもないから、自らがそうした子供らしい面を残していることを決して開示しない。
彼は悪い大人であったから、幼く愚鈍なのはこの少女だけであるということにしている。そうした男の画策を、けれど少女は見抜いている。
そう、見抜けるようになったのだ。出会った頃は男のそうした面に振り回されてばかりだったこの少女は、けれどもう、彼の掌で転がされるような存在ではなくなっていた。
それでも彼女は知らない振りをして、「子供っぽいのは私だけ」ということにしている。掌に自ら飛び込み笑うのだ。男はそんなことをする彼女を、ただ小さく笑って許していた。

だが、笑ってもいられないようなことが起きた。少女が雪に足を取られて盛大に転んだのだ。
顔を新雪に思い切り埋めた彼女は、しばらくしてがばりと顔を上げ、雪まみれの睫毛を震わせながら「寒い!」と、先程とは比べ物にならない程の大声で叫んだ。
けれど起き上がろうとして右手を雪に押し当てた途端、その険しい顔を一瞬のうちにふわりと溶かして、その冷たい雪を片手でそっと掬い上げた。
怪訝そうに眉をひそめる男が、いよいよ「……どうしました」と膝を折って屈んだところで、

「!」

掬い上げた大量の雪が、男の顔面へと投げかけられた。

「新雪ってこんなにふわふわしているんですね!」

「……」

「ふふ、ごめんなさい。私は子供だから、こういうのを見ると遊びたくなっちゃうんですよ」

ほら、ともう一度少女は雪を掬い上げて、男の頭上から降らせるように投げつけた。
凍え切ったと思われていた彼の頬は、けれど雪よりは高い温度を保っていたらしく、そこに貼り付いた頬は少しずつ溶け始めていた。

しばらく呆然とした表情を保っていた男だが、やがて声を上げて高らかに笑い、ポケットに差し入れていた左手を出して雪の中へと差し入れた。
痺れるような冷たさだった。だがそんなことはどうだってよかった。今はとにかくこの、いつまで経っても子供の様相を呈する彼女へ、報復してやらねばならなかったのだ。

「ああまったく、お前という奴は!」

雪を豪快に舞い上げた。少女の青いコートを雪の白が彩り、茶色い髪を銀色の飾りが降った。
少女の手よりも男の手の方が大きいのだから、抱えられる雪の量も男の方が遥かに多い。彼がやる気になった段階で少女の方に勝ち目などなかった。
だからこそ男は、彼女が心を改めて攻撃をやめる猶予を与えていたのだ。
それでも彼女は投げ続けた。明日、20歳になる彼女は、もうすぐ子供でなくなる彼女は、けれどどこまでも「子供」を貫いた。だから男も貫き返そうと思った。それだけだった。
夢中になっていた男は、少女が敢えて両手を使わず、右手だけで雪を舞い上げていることに気が付かなかった。
そうしたささやかな気遣いを、右手のない男に対する些末なハンデを、彼女は決して忘れなかった。少女は真に、子供と大人の境を歩いていたのだ。

雲間から差し込む太陽の光が、舞い上がる雪を煌めかせていた。少女はトルコキキョウのようだと思った。男はダイヤモンドリリーのようだと思った。
二人の世界は共鳴することを許されない。だからこそ尊かった。愛しかったのだ。

舞い上げる雪の量では到底男に敵わないことに気が付いたのか、彼女は足元の雪を右手でぎゅっと握り潰し、雪玉を作り始めた。
飽きる程にモンスターボールを投げ続けてきたその手に狙いを定められようものなら、ひとたまりもない。
させるか、と男は左手で少女を羽交い絞めにした。少女は驚き、僅かに抗おうとしていたけれど、直ぐに動きを止めてクスクスと笑い始めた。

「ゲーチスさん、私、大きくなりましたか?」

ええ、大きくなりましたね。
そう告げる代わりに抱き締めた。絞め殺さんとするかのように力を込めた。痛いですよと笑いながら告げる、彼女の声はあまりのおかしさに震えている。
この日が特別であったのは、この再会の場所に雪が降ったからでは決してない。冬はまだ終わらない。変わり続けていく少女は、けれどきっと何も変わらない。


2017.1.11

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