もうすぐ日付が変わろうとしている頃、ゲーチスの部屋に通じる扉が控えめな音を立てた。
プラズマフリゲートはアクロマや子供達の手により大改造され、今やかつての面影を、その外観にしか見ることが出来ない。
最奥にある彼の部屋に関しても同様で、モニターの数が大幅に減らされ、その隣にある個室の壁が大きくくり抜かれ、窓が付けられていた。
太陽の光に当たった方が良いからと、何処で仕入れた知識なのか、少女が腰に手を当ててきっぱりと紡いだのがつい先日のことだ。
彼がプラズマフリゲートに戻ってきてから2日目になる。
初日こそ、全団員からの歓迎体制で彼は足を踏み入れたが、今日は目の回るような忙しさに追われていた。
大方、あの子供に丸投げされた事務仕事のせいだが、それ以上に奔走している彼女の姿に、彼が文句を投げることはあれど、その仕事を放棄することはなかった。
全てのことが大きく動き始めていた。その指揮を執っているのは他でもない、あの少女である。
彼女はたった今、彼の扉を叩いた人物でもある。そのことを彼は把握していた。だから沈黙で肯定を示したのだ。
沈黙は肯定である、それを彼女は理解してくれていたからだ。
それは面倒であるからではなかった。そんな効率重視の考えからなされた無言ではなく、そこにはもっと深い意味が込められていたのだ。
つまるところ、彼は少女を信じていた。
「こんばんは、ゲーチスさん」
少女は上下の揃った、水色のルームウエアを着ている。室内であるとはいえ、季節は冬だ。
もう一枚何か羽織りなさいと紡ごうとして、しかし彼は無言で二人掛けのソファを示した。その近くのテーブルには1年前と変わらず、膝掛けとマグカップが置かれていた。
「ありがとう」と少女は小さく紡ぎ、足を踏み入れてそのソファに身体を沈める。
彼は手元だけを照らしていた明かりを消し、部屋全体を明るくする為に立ち上がった。
「どうしました。何か急用ですか?」
そんな筈がないことくらい解っているのに、彼はそう尋ねてしまった。
少女は肩を竦めて困ったように笑う。そんなことを聞くなんて、ゲーチスさんは意地悪ですね。そんな言葉を含んだ雄弁な微笑みだった。
「いるかな、と思って」
「……は?」
少女は膝掛けを強く握りしめた。それを一瞥した彼はああ、と納得する。
そうだ、自分はこの子供を置いて来てしまったのだ。その言葉で、彼の意識は今年の夏に引き戻された。
この子供の為に自分の身の振り方を決定してからの月日は予想していたより遥かに短い。まさかこんなに早く戻って来られるとは思っていなかった。
待っていろと言ったのに、この少女はそうしなかった。迎えに行くのは私だと、気丈な笑顔でそう言ったのだ。
そのことをアクロマから聞かされていたゲーチスは、そんな気丈な少女の心が自分の想像以上に繊細で脆いことを知った。
彼はデスクから離れ、身を小さく縮こまらせている少女の隣に腰掛けた。
お仕事は?今終わったところです。お邪魔してごめんなさい。……お前は嘘を見抜くことだけは上手ですね。だけは余計ですよ。
そんないつもの言葉の遣り取りをする。それは意味をなさないものである筈だった。
しかし少女の目は揺れていた。海に浸されたように、その青い目はぐらりと危なげに揺らぐ。
彼は何か言おうとして、しかしそれは少女の笑顔に遮られた。
「笑って?」
その言葉が震えていて、彼はその儚いメゾソプラノが紡いだ意味を考える。
それは何に対してだったのか。彼女の弱さに対してなのか。それとも。
「お前はもっと強い子供だと思っていました」
紡いだのはそんな一節だった。少女は悲しげに笑った。
「嫌いになりましたか?」
「何故?」
彼は立ち上がり、デスクからお湯の入ったポットを持って来た。少女のマグカップを取り上げ、黒い粉を取り出してそこに注ぐ。
お湯がマグカップを満たすにつれて漂ってきた甘い香りに、少女はおかしくなって小さく笑う。
「ゲーチスさん、ココアを飲むんですか?」
「何処ぞの誰かの嗜好が移ったのでしょう。いけませんか」
「……いいえ」
いただきます、と呟いて少女はマグカップに口を付けた。こんな甘い飲み物を彼が飲んでいるということがどうしても信じられなかった。
それとも私の為に用意してくれていたのかしら。そう自惚れる方がまだ可能性としては高いような気がした。
ああ、でも彼はいかりまんじゅうが好きだから、意外と甘党なのかもしれない。
「おいしい」
「逆に不味いと言われても私にはどうしようもありませんがね」
いつもの皮肉に少女は破願した。そうだ、この皮肉だ。彼は平然とこんなことをいう人だったのだ。
徐々に少女の日常に「彼」という存在が戻ってきていることを少女は感じ取っていた。
それがあまりにも幸福なことで、だからこそ信じられなくなって、不安になって、眠れなくなる。
彼はきっと知っているのだ。少女が眠れずにいたこと、こんなにも不安定であること。
少しずつ、戻っていくから。だからもう少しだけ、持て余した不安を時間が流してくれるまで、縋らせて下さい。
彼と少女の時間はただ優しい。
「いい気味だ。お前は私がいないと生きていけないらしい」
それはほんの冗談のつもりだった。しかし彼女はその言葉に何か別のおかしさを見出したらしい。
「はい」
きっぱりと紡がれたたった一音、それは彼を沈黙させ、少女に穏やかな笑みを浮かべさせるに十分だった。
傍にいたい、私は貴方を守ります、傍にいます。以前はそんな言葉を並べて自分に訴えかけて来た。何とかして解って欲しいと、その言葉達は懇願していた。
そんな少女が、ただそれだけ紡いで口を閉ざしている。どうしてこれ以上彼が笑うことが出来ただろう。
「……それも今だけでしょう。お前はこれからもっと広い世界を見るべきだ」
「ありがとう」
彼は目を見開いた。どうにもこの少女はおかしい。一つの季節を跨いだだけなのに、この少女の「訴える」為の手段は変わってしまった。
それは日付をまたいだ深夜の眠気によるものなのか、それとも自分のいない季節が本当に彼女を変えたのか。
おそらく後者だろう。そう思いたかった。だからこそこの少女は此処で留まる訳にはいかないと彼は確信していた。
その全てを飲み込んで、少女は優しく笑う。
「でもね、たまに、此処に帰って来ても良いですか?」
「……他に何処か行く当てがあるのですか?」
その言葉に少女は目を見開いた。
「帰って来なさい。今度は私が待ちましょう」
お前はどうにも待つことが苦手なようですからね。
そう続けて言えば少女は本当に嬉しそうに笑った。しかしそれを彼が見ることは叶わなかった。何故なら少女はゆっくりと彼の肩に凭れ掛かったからだ。
やがてマグカップの中身を飲み干さぬ内に小さく寝息が聞こえ始める。彼は少女を起こさないように、慎重にその身体をソファに横たえた。
明日になれば、どうして起こしてくれなかったんですかと煩く責め立てられるだろう。そんな確信は彼の心を穏やかにした。彼はそっと少女の名前を紡いだ。
「シア」
返事はない。解っているからこそ彼は少女を呼んだのだ。
「おやすみ」
2013.12.12
25万ヒット感謝企画作品。
ミヤビさん、ありがとうございました!