重ね塗られた冬と夏

※曲と短編企画。参考BGM「ルミナス」

「お前に描いてほしい景色があります」

彼からその言葉を聞いた時、私がどれ程驚いてしまったか想像に難くないだろう。私は目を見開いて、ガラスのコップを持ったまま不自然に固まった。
今、この人は、何と言ったのだろう?絵を、描いてほしいと。誰に?私に?どうして?

「いつでもいい。描けたら渡しなさい」

「だ、誰にですか?」

「……少しはその小さな頭を働かせなさい。私以外に誰がいるのですか」

私が、ゲーチスさんに絵を渡す。
その恐ろしい事実に私は心から震えた。恐怖ではなく、不安と羞恥に震えていた。
私がスケッチブックに、水彩色鉛筆を使って毎日のように風景画を描いていることは彼も知っている。それを彼に見せていたのは他でもない私だ。
彼は殆どの場合、何も言うことをしなかったけれど、私はそれで満足だった。私の描いた絵を誰かに見てもらえる。それがどうしようもなく嬉しかったのだ。

けれどそれと、絵をそのまま彼に渡すのとは訳が違う。それに、私は自分で描きたいものだけを書き続けていたのであって、「リクエスト」されたことなど未だ嘗てない。
その「初めて」の現象に私の胸は高鳴った。けれどそれ以上に不安だった。恥ずかしさもあった。だから私は、躊躇ってしまった。

「どうして……?わ、私の絵なんて、そんな、大したものじゃありません。もし切り取っておきたい景色があるのなら、写真を撮ってきますから、だから、」

「お前は今まで「大したものではない絵」を私に見せ続けていたのですか」

ゲーチスさんは非難の目を私に向けた。私は慌ててジュペッタのダークさんに助けを求めたけれど、彼もさっと目を逸らして肩を竦めるだけだった。
味方を失った私に、ジュペッタが冷やかすように飛んできてケタケタと笑う。

冗談だと思いたかった。だって、そんなこと、ある筈がないのだ。彼が私の絵を欲しいなんて。私に、その景色を切り取ってほしいなんて。
正確な景色が欲しいのなら、写真を撮ってきてほしいと頼めばいい。それなら私は何も悩むことなく、快く了承することができただろう。
しかし、彼はそれを選ばなかった。他でもない視覚の媒体に、私の絵を選んだのだ。その理由を私は計り兼ねていた。

「……上手く、描けるかどうかわかりません」

「技術は求めていません」

間髪入れずにそう返されたことで、私はもうやけだ、と開き直ることにした。
下手でもいい、と彼が言っているのだ。だからもし、私がその指定された景色を上手にスケッチブックの上に落とせなかったとして、それでも構わないのだ。
彼はこんな私の下手な絵でも貰ってくれると言っているのだから、彼の言う通りにしようではないか。
私は覚悟を決めて彼の赤い目を見据えた。ゲーチスさんは満足そうに頷き、私に無地の封筒を手渡した。

「場所はこの地図に示してあります。帰ってから確認しなさい」

「……今じゃ、駄目なんですか?」

彼は不機嫌にその赤い目を細めた。私は慌てて「そうします」と困ったように笑い、コップの中身を飲み干した。
少しだけ開けた窓から入ってきた夏の風が、チリーンを揺らして綺麗な音を立てた。

そして私は、あの樹海にやって来ている。
冬の間、ゲーチスさんはこの樹海の中に息を潜めるようにして過ごしていた。ぽつんと佇む小さな家に、私は毎日のように通っていた。
あの冷たい季節から半年、今では日の差し込まない樹海を歩いていても、僅かに汗ばむ程になった。
私はあの家を見つけ、思わず駆け寄る。わっと何かが胸からせり上がって来る心地がした。その正体に私は辿り着いていた。これはきっと、懐かしさだ。
私は鞄からスケッチブックを取り出して、膝の上に広げた。

「……」

ゲーチスさんが渡してくれた封筒の中には、イッシュ地方のタウンマップが入っていた。彼はその中の、ヒオウギシティの西に印をつけていた。
この樹海を示していることは明白だった。けれど彼が何故、私の描いた樹海の絵を欲しがったのかは解らなかった。
けれどそれは、私がこの家を見た時に抱いた感情に、限りなく等しいものなのではないかと思ったのだ。そして、そうであればいいと思った。
違うのかもしれない。寡黙で表情を滅多に変えない彼が考えていることなど、私には全く解らない。
だからもし、私の予測が外れていたとしても、それはそれでよかったのだ。私はその予測よりも大きな確信を、つい先日、抱くに至ったのだから。

『私は、嫌いな人間を傍に置いておける程、器の広い人間ではない。』
あの言葉は私に、氷の割れる音を運んできたのだ。
鉛筆でおおよその輪郭を刻んでから、私は緑の色鉛筆を取り出した。

私が旅に出て、もう一年が経つ。
私はその度の中でゲーチスさんに出会い、彼に本物の殺意を向けられ、殺されかけていた。
彼は私を憎んでいる。恨んでいる。少なくとも、私は拒絶されている。私はずっとそう思っていた。
それでも私は彼の元へと足を運んだ。私を殺しかけたその目が光を失っていると知った時、私は確かに恐怖したのだ。この人を死なせてはいけない。死なせたくない。

だから、どんなに彼に拒絶されようと、憎まれようと恨まれようと構わなかった。
私はどんなに傷付いても構わない。私はそれを自分の「罰」なのだとする準備ができている。ただ、彼が生きていてくれさえすればいいのだ。
私はあの時、ただそれだけを願っていたのだ。

そして、その願いはようやく叶おうとしていた。

『このような、無様な男の話を、お前は聞きたいのですか。』
『そんなに私が滑稽か、私は死なせるのも惜しい程の都合のいい娯楽か。』
寡黙な彼は、私に話してくれた。彼のこと、寄り添い続けた私に、彼が抱いていた屈辱のこと。
私達の思いはどちらともがとても鋭利で、諸刃のように尖っていた。互いが互いを切り付けるように言葉を投げ続けた。

『それでも私は傍にいたい!』
『貴方の左手は私のものです。』
私はその言葉に懇願をのせ、彼に突き刺した。
その懇願は半年の時を経て、ようやく彼に届いたのだ。きっとこの樹海の絵はそれを示唆しているのだ。

私は持ってきていた水に筆を浸し、色鉛筆で描いた絵をそっとなぞった。水に彩られたその絵はもうすぐ完成しようとしていた。

「ど、どうぞ」

次の日、私はゲーチスさんにその絵を手渡した。彼は何故かその赤い目を僅かに見開いて驚きを示した。
もしかして、あれは冗談だったのだろうか。私は慌てて差し出した手を引っ込めようとしたが、彼は反射的に身を乗り出してその絵を掴んだ。

「……」

「……放しなさい。私にくれるという約束だったでしょう」

「あ、ご、ごめんなさい」

私はぱっと手を放し、彼は視線をその緑の絵に落とした。
私達が過ごした季節には、樹海の葉の多くは散ってしまい、地面にその鮮やかさを映していた。
夏になり、その枝には新しい葉が青々と茂っていて、季節が移り変わったことを感じさせた。
とても、懐かしい時間だった。きっとゲーチスさんの頼みがなければ、私はあの場所を訪れることはなかっただろう。
それ故にその時間は私にとって、大きな意味を持っていたのだ。

「あの、どうして私の絵を欲しいと思ってくれたんですか?」

私は困ったように笑いながらそう尋ねた。ゲーチスさんは不機嫌そうな顔をこちらに向ける。
解っている。彼との時間を半年、重ねてきた私には、この質問に彼がどう返すのか解っている。
寡黙で滅多に表情を変えないこの人のことを、私はまだ理解できずにいたけれど、それでも彼が次に紡ぐ言葉を私は知っている。

「さあ、ご想像にお任せしますよ」

「……はい、そうしますね」

私は肩を竦めて微笑んだ。彼はその眉間のしわを消して僅かに微笑み、私の絵に再び視線を落とす。


2015.2.24
匿名さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

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