涙で紡ぐ海

※雨企画

プレハブ小屋の屋根を雨が鳴らす。家にいる時とは全く異なるその音に私は思わず微笑んだ。まるで楽器を奏でているみたいだ。
アクロマさんはそんな私を一瞥してから直ぐに手元の本に視線を落とす。けれど少し置いて、「雨が好きなのですか?」尋ねてくれる。
私は此処にいていいのだと、彼の視線が、声音が、言葉が肯定してくれる。その時間は恐ろしい程に心地良かった。

「この屋根の音が好きなんです。歌っているみたいで」

「おや、気に入って頂けましたか。わたしは最初、この大きすぎる音に辟易したものですよ」

確かに、彼のように此処で研究という集中力を要する作業をしている人にとって、この音は些か煩く思えるのかもしれない。
けれど、そんな彼も今ではすっかりこの音に慣れてしまったらしい。その雨の音に微笑みを見せたのは、私だけではなかったからだ。

窓に歩み寄り、カーテンのレースをそっと開ければ、アスファルトに雨の粒が踊っているのが見えた。
曇天から降って来る雨は宙で細い糸を描き、落ちて弾ける。

「どうして、雨は糸のように見えるんでしょうね」

思わずそう呟いていた。
雨は空から降る雫だ。当然、糸のような形をしている筈がなく、雫は雫のままに落ちている筈だった。
けれど私の目はその雨を、細い糸のように捉える。雫の形を保ってはくれない。
私が見ているものは何なのかしら。雨の落ちる速度があまりにも速いから、残像を見ているのかしら。
そんなことを思いながら、しかし私は後ろで本を読んでいた彼の口が何の言葉も紡がないことに不安になる。
彼はいつだって、私の疑問に的確な答えを用意してくれていた。解らないこと、知りたいこと、全て難しい言葉で、けれど誠実に、丁寧に教えてくれた。
そんな彼が紡ぐ沈黙はとても珍しく、私は思わず振り返り、息を飲む。私以上の驚きを顔に貼り付けた彼と視線が交わったからだ。

「……」

眼鏡の奥の二つの太陽は、じっと私を見据えていた。私が少しだけ首を傾げると、彼は我に返ったように肩を竦めて微笑んでくれた。
すみません、と謝りながら、彼は私にとって驚くべき言葉を紡ぐ。

「わたしは、雨を糸のようだと思ったことは今まで一度もなかったものですから」

零した驚きの声は、屋根に落ちる雨の音が掻き消していった。
私よりも何年も多く生きてきた筈の彼が、私にとっての常識とも呼べるそれを持っていないことに、私は素直に驚き、困惑した。
彼は分厚い本を置いて立ち上がり、私の隣に立ち、窓の外を見遣った。そこには私にとっての糸が、彼にとっては雨以外の何物でもない雫が空から降り注いでいた。
彼はもう一度、その眩しい金色の目を見開いて感嘆の溜め息を吐く。

「ああ、確かに糸のように見えますね。……糸とは、貴方が考えた例えなのですか?」

「いいえ、でも本に書いてありました。物語の本にはよく「糸のように細い雨」っていう表現があるんです」

「成る程、文学的な観点から見れば、雨は糸と見なすことができるのですね。……わたしはそうした文学書を殆ど読まないものですから、そうした方面に疎くて」

困ったように笑った彼の背後にある本棚には、確かに物語の本は一冊もなかった。
それまで本と言えば物語のものが主流だと思っていた私にとって、知識を提供するための本というものはとても新鮮に映ったのだが、彼にとってはその逆だったらしい。
彼にとって物語の本は、とても遠い存在だったのだ。無論、そこで扱われる文学的な表現を知らないのは当然のことのように思われた。

「雨が糸のように見える、それはおそらくシアさんにとっての真実でしょう。けれどそれは、雨という物事の本質ではありません。
この目で見たものですら、真実ではない。世の中にはそのようなことが往々にしてあるものなのですよ」

この目で見たものですら、真実ではない。彼のその言葉は鋭い刃のように私の心を抉った。
雨が糸のような形をしていないことを私は知っている。けれどそれは真実だろうか?
本当は、雨は糸のように細く長く伸びているのではないか。私が思い違いをしているだけではないだろうか。
もし、私のこの目に映るものが真実でないというのなら、この目に映るものが必ずしも正しいわけではないのだとしたら、それじゃあ、真実は何処にあるのだろう?

大人達は、世界は夢と希望に満ちていると言う。けれどそうした世界はまやかしだと私は知っている。
チョロネコを奪われた幼馴染の慟哭を、私はこの耳で覚えている。世界は残酷で無慈悲であることを私は知っている。
この耳で聞いたことの中にも、正しいことと間違っていることが複雑に混ざっているのだ。そして、それは目で見たものでも同じことだったのだ。
目で見たものも、耳で聞いたことも、私に確信を抱かせてはくれない。でも、だとしたら、

「それじゃあ、私達は一体、何を信じればいいんですか?」

思わず零れたそんな言葉に、アクロマさんは困ったように微笑んだ。
その表情が何よりも雄弁に、彼がその答えを有していないことを告げていた。私は目元が熱くなるのを感じていた。

彼ですら、知らないのだ。何が正しいのか、解らない。世界はあまりにも広くて、私達はあまりにも何も知らない。
そんな世界でどうやって生きていけばいいというのだろう。どうやって強く在れるというのだろう。
開けた世界は私に希望を与えたけれど、知ることは同時に恐ろしいことでもあったのだ。
少なくとも、此処に来るまでの私は、世界がこんなにも複雑で難しいことを知らなかった。ただ残酷な色を宿したその世界を私は嫌っていた。
今は違う。私は確かに、この複雑な世界を恐れている。
怖い。

白い手袋を嵌めた手がそっと私の顔に伸びた。
その指先の白が、水を吸って少しだけ色を変える。泣いていたのだと認めた瞬間、いよいよ止まらなくなった。

「すみません。貴方を不安にさせたくて言った訳ではないのですよ」

彼はあやすような声音で私に話し掛けたりしない。いつもの静かな、柔らかなテノールで、まるで明日の天気を訪ねるように徐にそっと、紡いでくれる。
それは子供への気遣いではなく、私という一人の人間への気遣いだった。私はそれが何よりも嬉しかった。
だからなのだろう。彼の前で泣いてしまうのは。他の大人には見せない表情を浮かべてしまうのは。他の誰かには抱かない想いを向けてしまうのは。

「何を信じるか、それは人によって異なります。貴方が何を信じればいいのか、それは貴方がこれからの人生の中で少しずつ、決めていくものなのですよ」

「……はい」

「ですから、あまり焦らないでください。今はまだ見えてこないかもしれませんが、これから生きる何十年もの月日の中で、きっと貴方の探す真実が見つかりますよ」

わたしはその手助けができればいいと思っています、と続けてくれた彼の言葉に私は顔を上げた。
涙を吸った手袋の白は少しだけ濃い色になっていた。私の涙が文字通り引き取られているような気分になって、その衝動のままに彼に縋ろうとした。

「貴方を信じてもいいですか、アクロマさん」

彼は少しだけ驚いたようにその目を見開いたけれど、やがて困ったように笑いながら肩を竦めて私の頭を撫でた。
解っている。彼を、アクロマさんを信じていいのか信じてはいけないのか、きっとその判断だって、私にしかできないことなのだ。
彼が「信じてもいい」「信じるな」と、許可や禁止を下してくれたからといって、私の世界は変わらない。
私が、選ばなければ。

「信じます」

「!」

「私は貴方を信じます、アクロマさん」

雨が屋根を叩いている。窓の外では透明な糸が降り続いている。アスファルトの上では雫が踊っている。
私が生きるこれからの中で、それら全てが雨の本質なのだと、全てを否定せずに受け入れて微笑むことができるようになれたら、素敵だと思う。
けれどそんなこと、将来に願わなくとも叶えられるのかもしれない。
今だって、屋根を叩く雨も、糸のように細く伸びる雨も、アスファルトで踊る雨も、私は好きなのだ。だからきっと、そういうことなのだ。

「では、わたしは貴方の信頼に足るような人になりましょう」

咄嗟に出た「ありがとう」の言葉が震えていて、私は誤魔化すように笑ってみせた。彼はもう一度だけその白い手を伸べて私の涙を奪い取る。


2015.4.18
素敵なタイトルのご提供、ありがとうございました!

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