24枚目の楽譜

※曲と短編企画2、参考BGM「迷子の僕に」
アピアチェーレ後編27話にあったかもしれない話

アクロマさんがプレハブ小屋を開けていた一週間の間に私がしたことは、実は紅茶の練習だけではなかった。

彼との時間を重ねる中で、私は自分の記憶力に限界を感じるようになっていた。
アクロマさんが教えてくれる全てのことはとても素敵で、楽しいけれど、私は残念ながら、その全てを理解できるだけの力を持ちあわせてはいなかったのだ。
だから私は、彼との日々を書き留めておこうと思った。私が今よりも賢くなれた時に、もう一度彼の言葉を吟味できるように。

世界が広がっていくことはとても嬉しかったし、その更に先を望んで欲張りになる自分にも気付いていた。
けれど、知らなかったことを知る、この瞬間に起きる私の遍歴は、とても大切で貴重なものなのではないかと思ったのだ。
変わる前と変わった後のことは覚えていられるけれど、変わっていく最中のことは往々にして忘れられがちなのだと、何かの本で読んだことがあった。
だから私は、彼との日々の中で変わっていく自分を一瞬も見落としたくなくて、日記を書くという方法を思い付いた。

文具店でB5サイズの大学ノートを買った。走って家に帰り、青い表紙に油性ペンで自分の名前を書いた。
ペン立ての中から使い慣れたシャープペンシルを引き抜いた。半分ほど使って小さくなった消しゴムは机の引き出しに入れて、新しい角張った消しゴムを取り出した。
心臓が大きく高鳴っていた。私は表紙を開き、ペンを走らせた。

あの3月の雨の日に彼と出会ったこと。苺の香りのする紅茶をご馳走してもらったこと。不思議な科学を教えてもらったこと。また来てもいいと言ってくれたこと。
何故、彼の言葉がここまで私の心に響いたのか、私の心にどのような思いが巣食っていたのかということも、なるべく順序立てて書くように心掛けた。
それでいて、私のそのペンはとても衝動的だった。
止まらなかった。文字を間違える度に苛立った。消しゴムを使う時間すら惜しいと感じた。
もっと、もっとある。彼と出会って私が知ったこと、私が思ったことは、きっといくら書いても書き切れない。
せり上がって来るような衝動に身を任せ、私はシャーペンの芯をその日の内に1本使い切った。

自分の思っていること、考えていること。
大人への思い、この理不尽な世界への思い、私のこと、彼のこと、彼が教えてくれた全てのこと、私の中で広がった世界のこと。全て、全て書き記した。
人差し指と中指が痺れるように痛かった。時計の長針は3度回っていて、夕食の香りが隣のキッチンから漂ってきていた。窓の外は暗かった。
10ページに及んだその文字の並びを、何度も何度も読み返した。母が夕食の支度が出来たことを知らせてくれなければ、きっと私は永遠にそうしていただろう。

心臓が張り裂けそうな程に大きく高鳴っていた。小さく吐いた溜め息は震えていた。
私の思いが、彼のことが、あの時間が、こうして形を取って残り続けるという事実を噛み締め、涙が出そうになった。


これが、私が初めて書いた「レポート」だった。


その後も、私は頻繁にノートを広げた。
一日に何ページも書く時もあったし、何も書かない時もあった。
けれど書くことが沢山あった日が、必ずしもいい日であった訳ではなかった。寧ろ何もない日に幸せを見出すことが、私はこの日記を書く中で得意になっていた。
何もない日。彼と他愛もない話をして、一緒に美味しい紅茶を飲む時間を笑って過ごして、明日を誓って別れて。
何もない日が、愛おしかった。何かある日だって、同じように大切だった。
私の欲張りはもしかしたら、ここから始まったのかもしれなかった。

私がペンを動かすことで、過ぎる一瞬、私達の変化が永遠になる。それがとても嬉しいことのような気がして、私は日記を書き続けた。
30枚の紙が組み込まれたノートは、2週間も経てば最後のページまで埋まっていた。直ぐに私は同じ色のノートを買いに走った。
それは旅に出てからも続いた。彼に宛てた手紙は、実は私が書いた日記のほんの一部に過ぎなかったのだ。
旅先でノートが埋まれば、近くの町の文具店で新しいノートを買った。
表紙に名前を書く瞬間は、いつだって高揚した。この中に私の記録を残せることが嬉しくて堪らなかった。
2冊目からは「2」「3」と番号を表紙に書き込んだ。イッシュ全土を巡り終える頃には、その番号は10を超えていた。

一昨日も会えなかった。昨日も会えなかった。
プラズマ団は解散し、彼はいなくなってしまった。旅先で何度か出会うことはあったけれど、それは彼が私の旅の行方を知っていたからだ。
私から彼に会いに行く手段はない。一昨日も、昨日も彼を見つけられなかった。だから今日も見つけられないのではないか。そんな不安が頭をもたげる。

そんな時に、私は自宅へと戻り、この本棚の前に立つ。
ノートが埋まる度に私は新しいノートを買い、代わりに埋まった方を自宅の本棚の一角に並べていたのだ。
10冊を超える大学ノートの中には、私の「レポート」が詰まっている。
時に丁寧に、時に乱雑に書かれた私の記録は、色褪せることはあっても、決して消えることはない。
思い出せる媒体があるということは、私の心を楽にした。自己の遍歴が目に見える形で刻まれているその様は、私にささやかな勇気をくれた。

「……大丈夫」

私の記憶は此処に残っている。私もあの人も此処にいる。大きく頷き、自室を飛び出した。
今日こそは会える筈だと信じていた。

「レポート」の書き過ぎで痺れてしまった手をポケットに入れる。クロバットの入ったボールを取り出す。
投げる。


『アクロマさんへ

貴方に会うまで、私は全てのことが嫌いでした。
低い背が嫌いでした。私の背丈に合わせるように背を曲げて、頭に手を乗せ微笑む大人が嫌いでした。
可愛らしく着飾った美しい世界が嫌いでした。残酷な理不尽が嫌いでした。
それらを受け入れながら、強く生きていくことの難しさを噛み締めている私が嫌いでした。

貴方に会ってから、私は全てのことが好きでした。
あの雨の日に差し出してくれた傘が好きでした。一緒に飲んだ温かい苺の紅茶が好きでした。貴方の太陽のような目が好きでした。
私の知らないことで満ちている不思議な科学が好きでした。貴方のいるプレハブ小屋に向かうまでの道のりが好きでした。
貴方がくれた言葉で、貴方が広げてくれた世界で、変わっていく私が好きでした。

旅に出てから、私は嫌いなことも好きなことも、沢山、増えました。
旅の中で、諦めなければならなかったこと、受け入れざるを得なかったこと、沢山ありました。
受け入れられなかったことも、許せなかったことも、同じように沢山、ありました。
世界は、貴方が言ったように、醜く汚い部分を確かに持っていました。けれどそれと同じ数だけ、美しく優しい部分も確かにありました。
その全てを、話したいです。私のレポートを、いつか貴方に聞いてほしい。貴方に贈った手紙は、その一部だったのだと知ってほしい。
私の世界を、共有してほしい。

アクロマさん。
今、何処にいますか?何をしていますか?

貴方と話したいことが、沢山あります。

シア


私はクロバットの背中の上で、その手紙をぐしゃぐしゃに丸めてポケットに仕舞った。
旅をする中で、書き損じた手紙の数はあまりにも多くて、私はどの手紙を彼に贈り、どの手紙を渡せなかったのかをはっきりと思い出せずにいた。
彼に伝えたいことは、的確な文字の形をなかなか作ってはくれなかった。今、握り潰したこの手紙だって、その一枚に過ぎないのだ。

私は彼に何を伝えたいのか?彼に何を知らせたいのか?その思いを代弁する適切な言葉は何処にあるのか?
1行だけ書いて破り捨てることもあった。3枚以上書いた手紙を、結局出せずに仕舞い込んだことだってあった。
違う、違うと言い聞かせ、手紙を握り潰しながら時間は過ぎていった。
私は彼と別れたあの日から手紙を1通も出せていない。私は彼を見つけられない。

もっと、もっと賢くなりたい。彼の言葉に相応しくなりたい。彼がくれる世界に相応しくなりたい。
私はまだ彼に相応しくない。

ああ、だから会えないのかもしれないねと、私はイッシュの空の上で笑った。
冒険のレポートは今日も書き記される。彼への手紙も書き直される。私の手の痺れは当分の間、きっと消えてはくれない。


2015.3.18
伊雪さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

© 2024 雨袱紗