※50万ヒット感謝企画、参考曲「鐘を鳴らして」(BONNIE PINK)及びその英語版「Ring A Bell」
あまりにも馬鹿げたことだと解ってはいるけれど、おそらく私が拒んだ「英雄」という肩書は、そのまま、私がこの広い世界で「彼」を探す理由となってくれていたのだろう。
そのあまりにも痛烈な皮肉を「懐かしい」と笑える程には、あの日から長い時間が経っていた。隣にこの青年がいることを、当然のことのように思えるようになっていた。
「あんたって勇敢よね」
故郷の田舎町を、Nと一緒に歩いていた。角を曲がれば、集まっていたマメパトが一斉に飛び立った。
「驚かせてごめんね」と困ったように彼が謝罪すれば、害を与えようとしている訳ではないと理解したそのポケモン達は、一匹、二匹と道端へ戻って来た。
彼はそれを見届けてから、「勇敢?そうかな」と、その困ったような笑顔のままに、色素の薄い瞳を私へと向けた。
「カラクサタウンでいきなり話しかけてきた時、私、凄くびっくりしたのよ」
「それはボクの台詞だよ。まさかこの世界に、ヒトのことを好きなポケモンがいるなんて、あの頃は想像だにしなかったからね」
ああ、それではあの瞬間というのは、私にとってもNにとっても、暴力的な衝撃を伴った邂逅だったのだと、もう4年以上前のことを思い出し、顔を見合わせて笑う。
この田舎町にだって、それなりに多くの人が住んでいる。イッシュ地方に視野を広げれば、そこに生きる人など数え切れない程に多くいる。
その中で、何故かNが私に話しかけてくれた。彼が「見知らぬ誰かに話し掛ける」相手として、あろうことかこの私を選んでしまった。
彼が為したあの一瞬の、勇気ある選択から、私達の全ては始まったのだ。
「けれどヒトに話し掛けることは勇気を必要とするものなのかい?」
「え?……あはは、そうね。少なくとも私はそうだったわ。誰かに話し掛けることって、勇気の要ることなの。とても難しいことなのよ」
誰かに話し掛けることは勇気を要すること。誰かに話し掛けられることは恐ろしいこと。
私はこの小さな田舎町で、そうした認識をずっと抱いて過ごしてきた。
だからこそ、まるで息をするかのような自然さで、人と関わるための一歩を踏み出すことのできる彼が、どうにも眩しく、恐ろしいものに思えてならなかったのだ。
おそらく、特殊という一言で言い表すのが困難な程に「異常」な環境下で育ってきた彼は、人と関わることが勇気を要することであることを理解していないのだろう。
その極度の無知が、しかし彼の踏み出す一歩を大きく後押しさえしているのだと、知ることは必ずしも人を良い方向へ導くものではないのだと、
もう何度目か解らないその気付きを改めて思い知らされ、苦笑し、けれどそうした彼に最早呆れることなどありはしない。
呆れて、退いて、距離を取るには、彼と過ごした時間はあまりにも長く、交わしたりぶつけ合ったりした言葉はあまりにも多すぎたのだ。
「ボクは自分のことを勇敢だと思ったことはないけれど、」と彼は苦笑しながら足を止めた。
背の高い彼が、空を仰ぐ。重ねすぎて青を纏ったその果てしない空気の層は、これから訪れる温かな春を予感させるように透き通り、かつ、深く高く伸びていた。
「キミはそれを勇気の要ることだと、難しいことだと言うよね。
難解なことだと理解していながら、それでもこうしてボクと話をしてくれるキミの方が、ボクにはずっと勇敢であるように思えるよ」
そして、そんなことを言うのだ。そんな「人間らしい」励ましに、けれど彼と親和性の極端に低い「嘘」の全くないその言葉に、私はこれ以上ないくらいの勇気を貰う。
キミは勇敢だと、彼のその言葉が私を勇敢にする。
Nは随分と人間らしくなった。
石鹸を使い、自分で顔を洗うことができるようになったし、食事の前に「いただきます」と紡ぐその言葉の意味を理解できるようになった。
店に売られているものを勝手に持って行かなくなったし、それらの商品はお金との交換で初めて自分のものとなるのだということを解するようになった。
けれどNが人間らしくなるに従って、私の世界は少しずつ閉じていった。
誰かを知ることも誰かに自分を知られることも恐ろしかった。だからあまりにも頑丈な装甲を身に纏い続けた。
本来の私とは違う理想の姿を求める、この小さな田舎町の住人に絶望した。私が望んでいない力や立場を悉く押し付ける、この土地の人間を見限った。
「もしそう見えているのだとしたら、きっと私はNの前でだけは勇敢になれているのね」
私も、同じように空を仰いだ。雲一つないその青をじっと見上げていると、自分の身体がふわふわと浮き上がっていくような錯覚にさえ陥りそうになった。
私はずっと、誰かが踏み出してくれるのを待つばかりの人間だった。
そしてそれだけならまだしも、踏み込んでくれた人間に対して、あろうことか拒絶の意さえも示してしまうような人間だった。
けれど幸いなことに、こんな私に、踏み込んでくれる人がいた。
そのうちの一人は、その一歩を勇気ある一歩だということすら認識できていないような、勇気を知らない、という不思議な勇敢さを持った人だった。
またある二人は、世界をずっと閉ざしていた私の扉を、長い隔たりの時を経て強引に、けれど真摯に叩いてくれた人たちだった。
更にある一人は、その勇敢さを、彼女を取り巻くあらゆる人に、……そう、彼女を殺しかけた男にさえも向け、誰もを取り零すことなく拾い上げることの叶った子だった。
彼等の勇気が私に教えてくれたことは、あまりにも沢山あった。
だから今度は、私の番だ。
「私、あんたの前で勇敢に振舞えているように、他の人に対してもそうでありたいわ。……でもそんなこと、できるかしら?」
私が彼等に救われたように、私も、誰かの扉を叩くことができるのだろうか。
私の音は誰かに届くのだろうか。
「勿論だとも」と、隣から降ってきた彼らしくない肯定の返事に思わず面食らう。クスクスと笑いながら「随分な自信ね」と言い返してやった。
数学や物理が大好きで、そうした難しい、理論的な言い回しを好むNは、嘘を嫌い、漠然とした言葉を操ることを厭う傾向にあった。
だからそうした根拠のない励ましを、ひどく異質なもののように感じてしまったのだ。
けれど「あんたらしくもないわね、そんな根拠のない励ましをくれるなんて」という私の言葉に、彼は空に向けていた目をこちらへと映して、首を捻った。
「根拠?あるとも。だってキミはボクの片割れだろう?」
今も、私とNのポケットにあるボール、その中に佇むドラゴンポケモンの姿が脳裏を掠めた。
Nは自らライトストーンを手にした。私は狡い大人達にダークストーンを押し付けられた。
そうした数奇な、私一人ではどうしようもない程に大きな見えない力によって、私達は「一人」ではいられなくなってしまった。
それまではお互い、一人で生きてこられた筈なのに、二つの石が、二つで一つの完全な姿を取るその神話が、私達を一人ではいられなくした。
きっとその「どうしようもなく大きな、抗え得ない力」のことを、人は運命と呼ぶのだろう。
その運命とやらを憎んだことだってあった。どうして私がこんなこと、と、ダークストーンを地面に叩きつけたことだって確かにあった。
けれどもう私は、一人では生きていかれない自分を受け入れていた。Nを「他人」だと、拒むことができなくなってしまっていた。
だってこいつは私がいないと、一人で顔を洗うこともできなかったのだ。私はどうにも、彼の傍だと息がしやすかったのだ。
そしてきっと、その運命は形を変え、今も私達の中に生きている。だからこそ、Nの口から「片割れ」という言葉を聞いても、私は驚かなかった。
寧ろ、そうだったのかとあまりにも容易く信じてしまった。そうした時間を私と彼は共に過ごしてきたのだと確信できた。
「ボクにできたことを、キミができない筈がない。だって、キミができていたことを、ボクはできるようになったんだ。
石鹸で顔を洗うことも、買い物をすることも、いただきますやありがとうの意味を理解することも、全て、キミと同じようにできるようになった」
「……」
「だから、ボクのようにキミが振る舞うことが叶ったとして、それは当然のことではないのかい?」
私の人生に誰かの存在を組み込むこと。誰かの人生に私を組み込ませること。これも「勇気」と呼べるのだろうか。
私が焦がれた勇気は、既に私の中にあったのだろうか。
「もし不安なら今度はボクがキミに教えよう。キミが、ヒトであるための全てをボクに教えてくれたように」
「……あんたに、上手く私の手が引けるかしら?」
「できるとも」と、またしても彼は即答する。強すぎる信頼を超えたそれ以上の何かがそこにはあった。
思い上がりだと言われれば確かにそうだったのかもしれない。なんと傲慢なことだと、笑われてもおかしくなかったのかもしれない。
けれどそうした驕りや傲慢は、私と彼の間では紛れもない真実の形を取るのだと心得ていた。信じることもまた、勇気であるのかもしれなかった。
それでも私は恐れる。私は傷付く。私が一歩を踏み出すことが叶ったとして、きっと一足飛びに勇敢になることなどできやしないのだろう。
けれどそうして臆病なままに踏み出した一歩は、私を確かに変えていく。そう、信じている。
空は当然のように青く、彼は当然のようにそこに在る。私達の勇気はきっと、二人で一つの形を取る。
2016.3.9
心からの祝福と感謝の気持ちを込めて。
秋雨さん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!