※トウコとNが、コトネとシルバーに知り合ってからの話
「いのちの色」の続き
コトネには双子の弟がいる。それ自体は、同じく双子の兄を持つ私にとって特に珍しいことではない。
けれどその弟が、私の兄以上に虚弱で病気がちで、今までに何度も入退院を繰り返していたのだと聞いたときは、この朗らかに笑う少女との間に少なからず壁を感じてしまった。
トウヤも虚弱で、外に出ようものならすぐに風邪を貰ってくるし、ちょっと走っただけですぐに眩暈で座り込んでしまうようなところがあったけれど、
1年の半分程をあの白い病院で過ごすなんて事態、トウヤや、勿論私にだって「非日常」過ぎる出来事だった。
けれど彼女の双子の弟にとってはそれが当たり前のことなのだ。
母が何週間もその付き添いで家を空けたり、3日に一度のペースでお見舞いに出掛けたりすることだって、彼女にとっては日常に組み込まれた出来事の一つに過ぎないのだ。
「そんな顔をしないで。もう慣れちゃったから」
首を小さく傾げて困ったようにコトネは笑った。栗色のツインテールがぴょん、と跳ねるように揺れた。
短いツインテールは彼女のアイデンティティだった。ぴょこぴょこと跳ねるその栗色は、快活で陽気な彼女を「そう」で在らしめるための証明のようなものだった。
けれど、自らを「そう」見せてきた彼女が、その実、その陽気で快活な外観の中に、私以上に重たく暗いものを抱えているのだと、私はようやく、知った。知ってしまったのだ。
彼女は、彼女の母は、コガネシティで働く彼女の年の離れた姉は、どんな気持ちでその弟と過ごしてきたのだろう。
いつ訪れるか分からない「それ」と向き合うとは、どういう気持ちなのだろう。
それを、私はどうしても想像することができなかった。
だって私は、そうした圧倒的な「死」という理を、今まで目の前に掲げられることなく生きてきたのだ。何度も繰り返すが、死は私にとって異次元の出来事だった。
だから、私よりも2歳年下のこの少女にとって、死はいつ弟に降りかかるか分からない、身近すぎるものなのだと、理解することはできても、受け入れることができない。
「凄いね。私、嘘でもそんな平気そうな顔なんてできそうにないわ」
「え?……あはは、そんなこと言わないでよ。私が薄情者みたいじゃない」
思わず言葉の中に滲ませてしまった毒にも、彼女は特に気に障った様子を見せずに、いつものように微笑んでいる。
この子は、私よりも2つ年下の女の子は、私の理解を超えたところにいるのだ。私にはまだ理解できない事象を、彼女はもうずっと前から自分のものとするに至っているのだ。
その圧倒的な隔絶にただ絶望するしかなかった。大切なものを失う準備と覚悟を何一つすることなく生きている私が、どうしようもなく惨めなものに思えてならなかった。
でも、そんな準備などしたくない。そんな覚悟など抱きたくない。
けれど彼女はずっと、そうした準備をせざるを得ない状況に置かれていたのだと、改めて頭の中で繰り返せば益々、居たたまれなくなった。
そんな準備も覚悟も必要でなかった私は彼女よりもずっと恵まれている筈だったのに、何故だか私は焦っていた。ひどく、不安になったのだ。
「だって今の今まで当然のようにあった存在が、瞬く間に過去のものになってしまうかもしれないって、受け入れる準備をし続けなくちゃいけないんでしょう?」
私なら、耐えられない。
思わず俯いた私に「トウコちゃん、どうしたの?」とコトネの心地良いソプラノが飛んできた。
しばらくの沈黙の後に、俯いて見られなくした私の顔が酷い表情をしていることを察したのだろう。
けれど彼女はそんな私を嗤うことも、慰めの言葉を掛けるために肩を抱くこともせず、ただあまりにも穏やかに紡いだ。
「でも、辛いことばかりじゃなかったよ。確かにヒビキは体が弱いし、危険だって言われたことも何度もあった。私もお姉ちゃんも、お母さんだってその度にいっぱい泣いた。
でも、だからこそ、ヒビキが今、こうして元気でいてくれていることが何より嬉しいんだよ。怖くて、悲しくて、寂しくて、だからこそ、ヒビキのことが大好きなんだよ」
生きているってきっと、そういうことだよね。
そう続けられた彼女の言葉の意味を、私は考え続けていた。けれど私にはまだその壁は厚すぎたのだ。
*
そして、そうした「喪失の準備と覚悟」を持たない私がいかに愚かな人間であるかということを、その日の夜、私は思い知ることとなってしまう。
リビングでジュースを飲みながら、何気なく今日のことをNに話して聞かせた私に、彼は少しだけ驚いた後で、コトネにとてもよく似た表情をしてみせたのだ。
「そうか、キミは喪ったことがないんだね」
それはとても幸せなことだよ、と、とても悲しい顔で彼が言う。そんな顔をさせてしまった自分の首を自分で締めたくなった。
私よりも年上で、私よりもずっと背の高いこの青年、けれど無知で無学で常識を知らない、大きくて小さな王様。
彼は難しい数学や物理については不気味な程に博識だったけれど、それ以外のことについては、5歳児以下の経験と知識しか持ち合わせていなかった。
あまりにも無知で無学な彼が、数学や物理のこと以外で私にイニシアティブを取ることなど、今まで一度たりともなかったのだ。そしてこれからも、ない筈だった。
「小さなポケモンである程、大きな声で助けを呼ぶんだ。視界に誰かの姿を捉えていないと心細いんだろうね」
それ故に、私の知らないそうした事象を彼が知っていて、その上、何度も何度も経験したことがあるという事実は、私の胸をあまりにも深く抉った。
出会った頃を思い出させるような、最近ではもうすっかり影を潜めていた筈の早口で、饒舌に、淡々と、けれどとても辛そうに話を続けた。
彼との生活に慣れ過ぎた私は、失念していたのだ。彼が幼少期からあの城で、どのような生活を過ごしてきたのかということを。
顔の洗い方も、ボールペンの芯の出し方も知らない。いただきますやただいまといった挨拶の意義を理解しない。テレビドラマや小説の中に住む人間の心理を解さない。
そうした異常な人間が以上たる背景があまりにも壮絶なものであったことを、私はすっかり、忘れてしまっていた。
自らが人間であることを忘れてしまう程に、彼はポケモンの近くに在り過ぎていた。
そんな彼が、あの異様な空間に送り込まれる傷付いたポケモンとの別離を体験したとして、それは不自然なことでも何でもなくて、寧ろ当然のことだったのだ。
だから、そうした彼の言葉に今から私が傷付いたとして、それは、彼が彼たる所以を忘れていた私への罰なのだろうと、知っていた。
それでも聞いていられなくなって、「ごめん、変なことを聞いて。もういいわ」と私が告げても、私への罰は止まらなかった。
「でも、ちゃんとこちらを見てくれている内はまだいいんだ。視線が合わなくなってくるんだよ。
見えないって、誰かが言ったこともあった。目を怪我しているわけじゃないのに、不思議だなって思っていたら、すぐだった」
「もういいって、N」
「でも皆、最期に「ありがとう」って言うんだ。カレ等を傷付けたのはボク達、人間である筈なのに、カレ等はそんな人間と同じ姿をしたボクに「ありがとう」って、」
「もうやめて!」
勢いよく立ち上がった。椅子が大きな音を立てて倒れた。ガラスコップに入っていたオレンジジュースが小さな波紋を作った。
突然の大声にNは驚いたようにそれまでの早口を閉ざして、目を大きく見開いて私を見る。
「だって私、解らないの。どんなに言葉を重ねられたところで、私はNの辛さも、コトネの寂しさも理解することができないのよ」
だからこんな私にそんな剥き出しにされた苦痛を向けないでほしい。私に共鳴を求めないでほしい。
だって、私は解らない。死などというものを見たことがないし、想像したくもない。こいつを喪う準備と覚悟など、でき得るならば一生、したくない。
そう思ってしまう私こそ、誰よりも弱い人間に違いなかったのだろう。
イッシュに蔓延る不条理に嫌気が差して逃げ出した私が、それ以上に残酷で抗いようのない喪失という不条理から目を背けていたいと願ったとして、
それは私が臆病な人間である以上、当然のことであり、また、仕方のないことであったのだろう。
Nはそんな私を許すように、自らの腕へと私を招いた。ここで泣いてもいいよと言うように、あまりにも優しく抱き締めた。
つい先日、菊の花弁をバラバラに千切り取ったその手が、丁寧に、壊れ物に触るように私の髪を撫でる。けれど私はもう、そのアンバランスをただ笑うことなどできやしない。
ひどくアンバランスなのは何もNだけではなかったのだと、気付いてしまったからだ。
オレンジジュースに入れられた氷がカランと冷たい音を立てたけれど、その音は私の嗚咽を掻き消してはくれなかった。
私はこいつを喪う準備と覚悟をすべきなのだろうか。答えはまだ、出そうにない。
2015.12.12