いのちの色

Nとカラクサタウンを歩いていた。用事など何もなかった。ただ、気分転換がしたかったのだ。
憂鬱な日々を過ごしている訳では決してなかったけれど、それでも毎日、カノコタウンの静かすぎる町の中にいると、たまにこうして出掛けたくなるのだ。
いい思い出を見つけることの方が難しいこの土地であっても、そうした苦い記憶に触れないように歩いている内は、特に問題はない。
たまには別の町の空気も吸ってみよう。そうした軽い気持ちだった。

カラクサタウンは、カノコタウンから一番道路を真っ直ぐ北へと抜けた先にある。ポケモンジムも大きな施設もない、ただちょっとカノコより人口が多いだけの町だ。
けれどこのちょっとした散歩であっても、行き先が特に見所のない小さな町であったとしても、
私の隣を歩く、この大きな子供にとっては、未知なる世界への大冒険になってしまうのだということを、すっかり忘れていた。
そんな大事なことすら失念してしまう程に私は、ここしばらくの平穏に慣れ過ぎていたのだ。

「カノコタウンでは土の上を歩くのに、この町ではコンクリートの上を歩くんだね。どうしてわざわざこのようなもので土壌を固める必要があったんだろう?」

「人の多い町は大抵、こんな風にアスファルトで舗装されているものよ。観覧車のあったあの町もそうだったでしょう?」

息をするように疑問が飛ぶ。だから私も息を吸ってから答えを返す。
私が適当に組み立てたそれが正しい答えであるのか、誰も判断してくれない。けれど正しいか正しくないかはこの際、問題ではないのだ。
重要なのは、私の答えにNが満足するか否かの一点だけであったのだから。
けれどそれは私の「信念」などという頑丈なものではなかった。ただ自分に言い聞かせているに過ぎない、少し強い風が吹けばぐらついてしまうような頼りないものだった。
私は間違っているのではないか、正しくないことをこいつに教えてしまっているのではないかと、不安になる。そしてその不安を取り払うことは、きっと誰もできないのだろう。

この不安は私のもの。私だけのものだ。そんな倒錯的な方向へと思考を持っていくことで少しだけ気が楽になった。

私は豪胆で粗暴で、いつだって気丈に振る舞っているように見られているのかもしれないけれど、それは私が分厚く纏った装甲であることを、きっと殆どの人間が知らない。
イッシュの人とポケモンの繋がりを守った「英雄」が、その実、とても臆病な人間であるのだと、知る人間は片手で数えられるくらいしかいない。
私は誰にも知られていない。故に私は誰のことも知らなかった。私のことを知っているのは、家族とポケモンだけ。それでよかった。それがよかった。
もっとも、今では私の臆病さは、隣を歩くこの大きな子供にも知られてしまっているのだけれど。それでもいいと寄り添える程度には、私も覚悟を決めていたのだけれど。

トウコ、あれは何だい?」

さて、今度は何を見つけたのかとNが指差した先を目で追えば、花屋の店先に並べられた菊の大輪が視界に飛び込んできた。
イッシュでは珍しい花だ、と思っていると、それはNにとっても同じだったようで、
「あんな花は見たことがない」と小さく呟いたかと思うと、その鮮やかな大輪に吸い寄せられるようにして花屋の方へと歩を進めた。
やれやれ、アスファルトの次は花か、と私は苦笑してその後をのんびりと追う。

どの通りに何が建っているのか、どの店にどんなものが売られているのかさえもすっかり把握してしまったこの隣町で、
けれどこの王様は、彼にとっての新しい事実を次々と引っ提げて「あれは何だい?」と疑問を絶やさない。
凄まじいスピードで彼の世界は広がり始めていた。その広げた世界を咀嚼しようと疑問が飛ぶのは当然のことで、だからこそ、私は彼から離れることができずにいる。
だってこいつの疑問に、直ぐに答えられる人間が傍にいてやらないといけないでしょう?

この大きな子供よりも私は3歳程、年下であるけれど、それでも私は彼から目を離す訳にはいかなかった。
保護者のように、彼を案じ、彼を導かなければいけなかった。
このあまりにも無知な青年の手を引き、数多の問いに答えを返して彼を満足させ得る人間で在ることを、決して止めてはいけなかったのだ。

年を経れば自然と大人に、親になれる訳ではないのだと、私は知り始めていた。
逆に私のような子供でも、たった14歳の女の子であったとしても、大人に、親になることだってできるのだと、覚え始めていた。
そうした立場を決めるのは自分の意思でも他人からの評価でもなく、そうした立場を必要とする大切な存在が近くにいるか否かなのであると、
私は望むと望まざるとに限らず、私の前に敷かれた運命とかいうものによって知らざるを得なくなってしまったのだ。
そのことを、知ってしまった奇妙で悲しい、けれどどこか退廃的な温かさを覚えるその理を、そうした理を私に覚えさせた数奇な運命を、憎むつもりなど更々ない。
私にはこいつが必要だった。だってこいつがいなくなってしまえば、私は何になればいいのか解らなくなってしまう。

凄まじいスピードでNという存在が私の中に組み込まれ始めていた。

どれがいい?と尋ねれば、「買ってもいいのかい?」と質問で返って来た。
花を飾る洒落た趣味など持っていないけれど、たまには悪くないかもしれない。頷けば、彼は迷わず黄色い菊を指差した。
「この黄色いのを一輪下さい」と店員に声を掛け、財布を取り出すために鞄へと手を突っ込む。
会計を済ませて受け取った菊の大輪をNに投げ渡せば、歓喜の色がひどくだらしのない笑みをその端正な顔に作った。

さて、そんな私の片割れ、とまで言えばあまりの可笑しさに笑い出したくなってしまうけれど、そう表現しても差し支えない程に近しい存在になってしまった彼が今、泣いている。
私よりもずっと背が高く、私よりも年上で、けれど私よりもずっと無知で無学で常識を知らない、誰よりも愛しい青年が、ぼろぼろと透明な、大粒の血を流している。

家に持ち帰ったその花を挿す花瓶、それを探すためにほんの数分、Nから目を離した。
そのたった数分間の間に起きてしまったその出来事、その結果として生じてしまったこの無残な状態、それを見て、もうすっかり慣れてしまった眩暈が私を襲う。

「どうしよう、トウコ。戻らなくなってしまった。どうすることもできないのかい?ボクが殺してしまったのかい?」

そんな風な、手当たり次第に浮かんだ言葉を紡ぎ尋ねては泣いている。溢れるものを拭うことはしない。何故ならその骨張った両手は別のもので塞がっていたからだ。
こんもり盛られた、鮮やかな黄色い菊の花だったものが、指の間からまた一枚、零れていく。それを見届けて、彼はまた泣く。
頬を伝い、顎からぽとりと落ちた透明な血が、ぼろぼろに千切られた菊の花弁の上に落ちて弾ける。

放っておけば彼は延々と泣き続け、ついにはその目を真っ赤に腫らしてしまうだろう。解っていた。解っていたから私はNに手を伸べた。
私よりもずっと背の高い青年、背伸びをすることでその頭にようやく手が届く。

「落ち着きなさい。大丈夫だから」

「でもトウコ、花が、」

「そんなもの、どうせすぐに死んじゃうのよ。
地面に生える鮮やかな花、それを切り取った段階でもうその子の生きる術は絶たれているんだから、今更、あんたが殺したなんて物騒なことが起こる筈がないわ」

「じゃあ、ボクは死者を侮辱したんだね」

またしてもこの世の終わりを見たかのような表情で、その震える口から零れる嗚咽がより一層大きくなる。
困った王様、呆れた青年だ。私はくたりと眉を下げて笑った。しかしそんな余裕も次の言葉ですっかり失われてしまう。

「だって、キミみたいだと思ったんだ。だからもっと見たくて、この美しい花の中には何があるのかを知りたくて、こんなにしてしまった」

花に似ている、と言われたことなど、今までの人生でただの一度もなかっただけに、彼のその言葉は私を驚かせ、少しだけ新鮮な高揚感を私にもたらしたけれど、
しかし彼が私に似ているとしたその花が、彼の広げた両手の上で見るも無残な姿になっているという事実に、私はどのような感情を表出すべきであるのかを計り兼ね、困惑した。
とんでもないことを言い出したこの王様、彼が私に似ているとのたまった菊の花は、彼の手の中でぐしゃぐしゃに花弁を千切られている。その惨さに思わずふいと目を逸らした。

やめてよ、そんな花に似ているなんて、馬鹿げたことを言わないで。私はそんな花みたいな美しい生き様を残した覚えなんか、これっぽっちもないような人間なんだから。

けれどそう告げる代わりに笑ってみせる。細めた目に慈愛に似た何かを宿してみる。
滅茶苦茶に千切られた、つい先程、家に帰るまであまりにも美しかったその花に私を重ねられてしまったことに対して、全く気に障っていないような表情をしてみせる。
この場において追いつめられているのは私ではなくこの大きくて小さな王様であり、故に私まで彼の絶望と混乱に飲まれてしまう訳にはいかないと知っているからだ。

「その花の中に、何かあった?」と尋ねれば、彼は長い髪を振り乱すかの如き激しさで首を振る。

「そう、何もないのよ。生き物が美しいのはその外側だけなんだから。よく覚えておくことね、N」

こうしてまた一つ、彼は新しいことを知っていくのだろう。
生き物が美しいのはその外側だけ。私の紡いだその言葉が本当は間違っていたとしても、彼に掛けるべき言葉としてもっと相応しいものがあったとしても、構わない。
何故なら重要なのは私の言葉が正しいか否かではなく、私の言葉で彼が透明な血を流すのを止めてくれるか否かであるからだ。ただ、それだけのことだったからだ。

知ることは残酷なことだと、こいつも覚えていくのだろうか。
知ってしまった世界の理に絶望し、私のように世界を見限る日がやって来るのだろうか。
そうあってほしくないなあ、と思う。この無知で無学で常識のない、あまりにも大きくて小さな王様には、私のようになってほしくないと思う。
凄まじいスピードでNという存在が私の中に組み込まれ始めていたけれど、私という存在は、こいつの中に、でき得るならば組み込まれてほしくないと、思っている。

けれど、もしそうなったとして、そうした、私にとてもよく似てしまった彼ですら、私がいないと生きていけなくなった彼ですら、私は愛する準備が出来ている。
大嫌いよといつものように紡いで笑う覚悟は、いつだって此処に持っている。だから「これ」くらい、どうということはないのだ。

「さあ、片付けるわよ。あんたも手伝ってよね」

そう言って手を伸べて、頬を流れる透明な血をやや乱暴に拭えば、もう新しい血は目から溢れて来なかった。
この菊には悪いけれど、まとめて可燃ごみに捨ててしまおう。彼が私に似ているとしたこの無残な花弁よりも、この大きくて小さな王様の方が遥かに大事であるのだから。


2015.12.9

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