夜を夢見る藍

5

 今日も彼女はこの場所を訪れる。ビルの冷たい床へと膝を抱えて座り込み、眠そうな目を濁らせながら「今日もアカギさん、来ないねえ」と傍らのジラーチへと囁くのだ。

 あれから更に変わったことと言えば、白いラグの隣に背の高い本棚が置かれたこと、そしてアジトに残っていた元ギンガ団員が少しずつこの部屋に集まり始めていること、あとは……彼女の「お昼寝」の頻度と時間が大きく減ったこと、くらいだろうか。
 宇宙エネルギーの開発という、表向きのギンガ団の活動をもう一度。そんなことを唱えて子供と共に再度歩き出した幹部の男を、最初こそ団員達は冷やかし半分で訪れていたが、やがて一人二人と、率先して彼の活動を手助けする者が現れ始めた。意味のない停滞にうんざりしていたのはサターンだけではなかった、ということなのだろう。

 元々、表向きとはいえ「エネルギー資源の開発を行う会社」として構えたビルに集った団員達だ。科学やエネルギー工学の知識は人並み以上に持ち合わせている。加えてヒカリという、科学や工学の知識が皆無な「新入り」がそこへ混ざったことにより、みんなが目を輝かせて彼女に色々と教え込むようになったのもまた、良い変化だったのだろう。本気でこの組織を再興しようと思うなら間違いなく足手まといになるはずの、この子供。けれども彼女を中心とする人の輪が出来ることにより、この小さな組織は以前に比べてずっと「いい組織」になった。「アカギ様の頃より楽しいかもしれない」と呟く団員を、みんなは笑いながら嗜めこそしたが、誰も真っ向から否定したりはしなかった。
 上手くいく保障などまるでない、手探りの取り組みであったが、それでも、サターンを含めた団員達の表情は以前よりずっと明るい。以前の規模には到底及ばず、まだ何も成し得ていないお粗末な状況ではあったものの、少女が一人でこのビルを訪れた日からは想像も付かない程、この場所は賑やかになった。一先ずはそれで十分だとサターンは思うことにした。

 彼女の昼寝癖は、減ったものの完全になくなりはしなかった。眠そうな、粘つきと濁りを呈したあの目に、一日に一度は必ずなって、彼女は足元に伸びた濃い影に誘われるまま、今日も幸せな夢の中で遊ぶのだ。別次元の夢を見る力、その正体も、彼女から離れて遠くへ行く気は更々ないようで、彼女を飽きさせないようにと様々な夢を、次から次へと差し出し続けているようであった。

 彼女があの影を振り払わない限り、あの影が彼女を見限らない限り、彼女が完全に「こっち」へと戻って来ることはないのだろう。彼女が「此処ではない何処かに夢を見る」という時間は、少しずつ減りこそすれ、ゼロになることはきっと在り得ない。
 だが、それでもいい、とサターンは思うことにした。彼女が夢を手放すことができず、また夢の方も彼女から離れる気がないのであれば、無理矢理引き剥がすのは得策ではないし、そもそも引き剥がすための力をサターンは持たないのだから。それに要はちゃんと、最後に目覚めることができればいい話なのだ。今の彼女には目覚める意思があり、彼女を起こす役目を、成り行きではあるがいつもサターンが担っている。夢の話をする彼女は相変わらず不気味で不可思議だが、少なくとも哀れではない。彼女の世界はまだ変わらず「あっち」にあるが、「こっち」の世界も捨てられてはいない。こちらにおいてもやはり、一先ずはそれで十分だと思えた。

「今度の世界ではね、アカギさんが女の人だったんだよ」

 やがて彼女は、ある特定の世界の話を繰り返しするようになった。ヒノアラシやモクロー、コトブキ村など、聞き慣れないポケモンや土地の名前を口に出しては本当に楽しそうに笑うので、サターンも何故だか嬉しくなってしまって、その話にはいつもよりも幾分か長めに耳を傾けてしまうのが常だった。
 そんな日が数日続いた頃に、彼女の口から飛び出した言葉がこれである。あの方が女性である世界なるものが存在すると知り、その愉快さに思わず口角が上がった。成る程それは随分と面白そうだ。夢も彼女から離れたくないがために、これまでとは違う、風変わりで意外性のある舞台を用意するようになった、ということなのだろうか。

「他にも知っている人がいっぱいいるの。でも性別とか年齢とか背格好とか、違いが沢山あって数えきれないや。世界も、私の知っているシンオウ地方じゃないみたい」
「面白そうじゃないか。そこまで違いがあるとお前も新鮮だろう」
「そうだよ、知っている人が大勢いる、全然知らない物語なの。新しい冒険が始まるみたいで、とてもわくわくする。これからどうなっていくんだろう。楽しみだなあ」

 楽しみ、と口にしながら、けれども彼女は再度眠りに落ちることはしない。「物語の続きはまた明日」とでも言わんばかりに、しっかり目覚めて夢へと線を引き、すっかり親しくなった団員達の輪に招き入れられて、科学の専門書を囲みながら賑やかな会話を繰り広げるのだ。

 団員達と並ぶと、彼女の足元に伸びた影の異質性がよく分かる。彼女の影は他者のそれより濃く、縁にもやがかかったかのように時折大きく揺らめくのだ。そんなところを住処にする存在がいるとにわかには信じ難かったし、それがそこへ留まることをこのまま許していていいのかという疑念は変わらずサターンの中にあった。だが、彼よりもずっとポケモンに詳しく、伝説と呼ばれしあの存在さえボールに収めた彼女なら、夢を愛しながらこの現実で生きることを選び取れた彼女なら、今後、この二者の力関係がどのように動こうとも、きっとどうにかなってしまうのだろうと思われた。
 少なくとも、今の二者の関係性はとても良いように見える。それが見せる夢が彼女を楽しませ、また彼女が喜ぶことでその存在の孤独が埋められているのなら……それもまた、彼等が見つけた「共生」の形であるのかもしれなかった。
 ならばそこにサターンが踏み入るべきではない。その影が、ヒカリを起こし、こちらの世界へ連れ戻すような言葉を掛けたサターンに危害を加えてこなかったように、サターンもまた、その影からヒカリを完全に取り上げてしまうべきではない。曲がりなりにも彼女が愛した世界の主だ。彼女の心を害さない範囲において、できる限り尊重していたい。影が、サターンにそうしてくれたように。

「なあ、ヒカリ」
「どうしたの?」
「その世界に」

 そこまで口にして、サターンは慌てて咳払いをした。何でもないと、気にしないでくれと、目を細めてきゅっと笑えば、彼女はあっと驚いたような顔になって、それから花でも咲かせるかのようにふわりと微笑んだのだ。

「今の、私の一番好きな顔! サターンさんがそうやって笑うの、私、大好きなんだ」

 ドーナツが好きなんだ、とでも言うような気軽さで告白紛いのことを口にして、彼女は再び本へと視線を落とした。周りの団員達が冷やかすようなにやついた表情でサターンを見てきたので、眉をひそめつつ右手を大きく振って彼等の視線から逃れてやった。

「……」

 ふわふわとジラーチがサターンの傍へとやって来る。閉じられた三つ目の瞳は今日もその小さな腹の中で眠っている。このポケモンが彼女を主とし続ける限り、その目が見開かれることは未来永劫ないのだろう。力の持ち腐れになっている状況にやはり沈黙での同情を示しながら、サターンは彼女が語ったあの夢の話を思い出していた。

 彼女の言葉通りの次元が何処かに在るのなら、アカギ様と思しき人物はちゃんと「そこ」にいるのだろう。だが……わたしは?
 わたしはその世界にいるだろうか。わたしは再び、お前に会えるだろうか。
 分かっている。人間一人など世界においては些末で矮小なものだ。サターン一人が欠けていたところでその世界は素晴らしく美しいままに変わらず回るだろう。だが彼女にとってはどうだ? わたしが全く変わっていないことをこれ以上ない程に喜んでくれた彼女は、けれどもその世界に変わらないわたしどころか、その存在さえないと気付いた時、何かを……思いやしないだろうか?

 彼女はサターンの不在に、果たしてどれくらい心を揺らすだろうか。どれくらい「寂しい」と、「悲しい」と、思ってくれるのだろうか。

「もし『その世界』にわたしがいないのなら、そっちのヒカリは随分と哀れだな。そうは思わないか、ジラーチ」
「……」
「こちらのヒカリがやっとの思いで得始めている幸福を、知ることさえ叶わないなんて」

 それは、どういうつもりで発せられた言葉だったのだろう。負け惜しみだろうか、今後における前進の宣誓だろうか。それともサターンがこれまでそうしてきたように、ジラーチにも、沈黙という形でサターンの思いに同意してほしかっただけなのだろうか。あるいはその、全てだろうか。

 とにかく、うんとマシな未来を創ってやろう、と思った。別次元で楽しい物語を生きる彼女に「どうしてサターンさんがこっちにはいないんだろう」と口惜しく思わせられるような、そんな素晴らしい日々をこの子供と共に過ごしてやろうと思った。
 分かっている。新しいものを生み出すには相応の犠牲が必要だ。だから捧げるのはサターンの時間と想いの全て。どれだけ時間が掛かろうとも構わない。どれだけの想いがその不気味な瞳をすり抜けていこうと構わない。どうせ、このジラーチにさえ叶えられない願いなのだ。一生を懸けて運よく成功すれば御の字といったところだろう。

 いつか、寂しいままで、悲しいままでよかったのだと言わせてやる。彼女がその藍色の瞳の裏に見た幾つもの素晴らしい世界、素晴らしい夢のどれよりも、この世界がいっとう素晴らしく幸福であったと思わせてやる。アカギ様やマーズやジュピターがいるあちらの完璧な世界より、サターンしかいないこちらの不完全な世界の方が、ずっと面白く楽しいのだと信じさせてやる。
 そうとも、我々はこの寂しく悲しくままならない世界で、どんな別次元の幸福よりも楽しく面白い時代を、かけがえのない時を生き抜いていくのだ。

 彼の孤独を埋め、無力感を否定し、その笑顔が好きだと笑った、たった一人の少女を道連れにして。

2022.1.27
Thank you for reading their story !

+ Afterword

< Prev

© 2024 雨袱紗