夜を夢見る藍

3

 もぬけの殻と化したギンガトバリビルに、抜け殻と化した少女がふらりと姿を現したのは、アカギ様たちがテンガン山に向かい、二度とは戻らなかったあの日から2週間が経過した頃のことだった。
 彼女がジムバッジを集め、ポケモン図鑑を埋める旅をしていたこと、その果てにシンオウリーグのチャンピオンに勝利し殿堂入りにまで名を残すまでになったこと……については、サターンもラジオのニュースで聞き知っていた。その幼さと、本人の希望を理由として、チャンピオンの座を交代する話がなかったことになったことも。

「何もなかった。何処にも、誰もいなかったよ」

 おそらく、殿堂入りの偉業を成し遂げてからも彼女は旅を続けていたのだろう。ポケモン図鑑を埋めるためか、更なる強さを求めてか、ニュースは彼女について様々な憶測を繰り広げていたが、真実はもっとつまらなく残酷なところにあったようだ。
 すなわち彼女は「探していた」だけだったのだろう。彼女にとっての正解を。彼女が愛し、彼女が焦がれた「あっちの世界」におけるハッピーエンドの再来を。

 その鍵となるのは他ならぬあの方だ。その粘ついた藍色の目をシンオウ地方中に巡らせて、彼女はそれこそ血眼になって彼を、アカギ様を探したはずだ。けれどもどれだけ時間を掛けようとも見つからなかった。「あっち」では出会えたのかもしれないが、同じことが「こっち」では起きなかったのだ。

「マーズさんやジュピターさんもいなかった。アカギさんにも会えなかった。ナギサシティにも戻りの洞窟にもいなかった。アカギさんを探している人もいなかったから、探している間、私、ずっと一人だったの」

 ピンク色のニット帽を深く被って俯いた彼女は、ぽつりぽつりとそうした言葉を零した。会えなかった、一人だった、寂しかったと繰り返しては、サターンが「そうか」とだけ短く返す相槌に僅かばかりの充足を得て、更に言葉を続けるのだった。

「旅を初めてから、少しずつ、いろんなことが違っていることには気付いていたよ。でも、ほんのちょっとの違いだって思ってた。こんな小さな違いじゃ何も変わらないって思ってた」
「……そうか」
「でも違ったね。ここにきて何もかもが全部、変わっちゃった。こっちはあっちじゃないから、やっぱり同じようにはいかなくて、同じ幸せは何処にもなくて……」

 別次元を見る力、その粘ついた藍色の目にのみ映っていた「あっち」の世界。そんなものに夢を見てしまったがために、長い時間、遠い旅路を棒に振ってしまったこの小さな子供をサターンは哀れに思った。そんな世界の可能性に期待などしなければ、お前はただ純粋に、お前自身の旅を楽しめただろうに、と。こんな歪んだ組織に拘泥せずとも、シンオウ地方には、愚鈍で純朴なお前を十分すぎる程に満足させてやれるような面白いことが、きっと山のようにあったはずなのに、と。

 到底手に入るはずのないものを本気で追い求めてしまったが故の、愚かな破滅。彼女に訪れたあまりにも情けないエンディングは、あの方がテンガン山で迎えてしまったそれにひどく似ている気がした。
 哀れだ。あなた方は普通じゃないものばかり求めすぎている。

「でも」

 短くそう零してから、少女はようやく顔を上げた。泣いているのでは、と案じたサターンのそれは杞憂に終わり、いつもの粘ついた藍色の目が、顔にぽっかりと空いた二つの不気味な深淵が、笑むように細められてサターンを真っ直ぐに射るばかりだった。

「あなたは此処にいてくれたね。あなたは何も変わっていなかったね、サターンさん」

 とろけた表情でこちらを見る少女の姿が、アカギ様に心酔するかつての団員達に重なる。にわかに恐ろしくなってサターンは思わず眉をひそめた。やはりどうかしているのだ。アカギ様も、お前も。
 クスクスと笑いながらビルの冷たい床へと座り込んだ彼女は、小さな手で小さな膝を抱えるという、小柄な子供にとって非常に収まりの良い形を取った。そして、その膝小僧に頬をぴたりと押し付けて、またあの粘ついた目でうっとりと、サターンを斜めに見上げるのだった。

「わたしだけは『あっち』と変わらない、か……」
「そう、変わらず此処にいてくれた。ただ一つだけ、嬉しい違いがあるんだよ」
「何だ、違うことは寂しく悲しいことじゃなかったのか」
「そうだけど、でもあなたに限って言えばそうじゃないみたい。面白いね」

 彼女は眠そうに呟いてその不気味な目を閉じた。二つの深淵が塞がれることで、ようやく彼女の有様は普通の子供のそれに戻り、サターンはいよいよ安心できるのだった。

「私の知っているあなたよりも、あなたはよく笑ってくれるの。いろんな表情を私に見せてくれる。それがとっても嬉しいんだ」

*

 それからというもの、少女は毎日のようにギンガトバリビルを訪れた。シンオウ地方を巡り尽くして、もう行く当てがなくなった、というところなのだろう。そして、同じように今後何をすべきか分からずこのビルに留まり続けていたサターンは、必然的に毎日この子供と顔を合わせることとなった。
 彼女が「それ」を目的としていることには気付いていた。首根っこを捕まえて放り出す気力もなかったから、そのままにしておいた。不気味な彼女の不可思議な訪問が彼にとっての当たり前になり、不本意ではあるが手放し難いものとして彼の意識へと定着するまで、そう時間は掛からなかった。

「そのジラーチに、アカギ様に会えるよう頼んでみたらどうだ。願いを叶えてくれるポケモンなんだろう」

 一度、そう声を掛けてみたことがある。ボールから出て常に彼女の後ろを付いて歩いていたそのポケモンは、サターンの言葉を受けて嬉しそうに彼女の手を取り、彼女を見上げた。けれども彼女は目を細めて悲しそうに微笑み、ゆっくりと首を振ったのだった。

「出会ってすぐの頃にね、お花が沢山見たいなあってジラーチに話したの。そうしたらすぐに、私の頭の上からお花がいっぱい降って来てね、とても綺麗だった」
「よかったじゃないか」
「よくなかったよ。そのお花、ソノオタウンの花畑から、鮮やかなお花の部分だけを勝手に千切って、持ってきてくれていたものだったの」

 瞬間移動か、とサターンは納得する。何もないところから新しく花を生成するという奇跡めいた事象は、どうやらこのポケモンをもってしても起こせないものであるらしい。
 それはそうか、とも思った。アカギ様の追い求めた「新たな宇宙」もまた、この世界を代償としなければ創造できないものだった。何の犠牲もなしに何かを生み出すことなどできないのだ。宇宙も、世界も、小さな花の一輪でさえも。

「ジラーチにお願いすれば、欲しいものは何でも手に入るし、会いたい人にもすぐ会える。分かっているよ。でもそんなお願いじゃ、本当の意味で嬉しくはなれないの」
「……」
「ジラーチに、アカギさんを連れてきてもらったところで、意味がないんだ。だってこっちのアカギさんは、私を、みんなを、心を、この世界を、嫌いなままだから」

 寂しそうにジラーチは手を離し、縋るようにサターンを見上げる。サターンは沈黙を貫くことでそのポケモンに同情してやることしかできない。
 上手くいかなかったなあ、と呟く彼女は、膝に顔を伏せるようにして、くぐもった声で「ごめんね」などと、誰も幸せにならない謝罪を、する。

「ごめんねサターンさん。悲しいまま、寂しいまま、何も変えられなくてごめんね」

 謝ってほしい訳ではない。何かを変えてほしい訳でもない。お前のせいでは決してない。だから謝らないでほしい。そう切実に訴えかけられる程、サターンは素直ではなかったから、どう言葉を返したものかと少しばかり迷ってしまった。

 ただ本音としては、サターンはもう「これ」だけで十分だったのだ。この状況にある種の希望を見てしまえる程度にはサターンも行き詰っていたから、これ以上を望むべくもなかったのだ。この子供と重ねた不毛な時間、そこに見出せるひとつの可能性があれば一先ずは十分だった。
 お前とならあるいは。アカギ様と同じように、ここではない何処かに何かを夢見たお前となら、変わらないわたしを変わらず慕うお前となら、もしかしたらまた再び歩き出せるのではないかと。もう少し有意義で現実的な何かを、為せるのではないかと。

「わたしに謝る必要はない。お前に『我々の状況を変えてほしい』などという期待は端からしていない。これからも、わたしはお前にそのようなことを求めはしない」
「……そっかあ」
「逆に訊こう、お前はいいのか。お前は……いつやって来るともしれないあの方のため、此処でわたしと不毛な待ちぼうけを今後ずっと続けていてもいいというのか?」

 なあ、そんなのは御免だろう。嫌だと言ってくれ。これ以上の停滞は無意味だ。辛くとも前に進むべきだ。お前とならそれができる気がするんだ。だから、どうか。
 けれどもそうしたサターンの「期待」を裏切るように、少女は粘ついた藍色の目を彼へとそっと向けて、ゆっくりと細めて、そして。

「いいよ」
「……馬鹿なことを」
「馬鹿でもいいよ。私はいい。幸せじゃない私がいてもいい。悲しくて寂しい私、何も聞かせてもらえなかった私、何もできなかった私が、一人くらいいたってきっといい」

 わたしは嫌だ、と叫べたならどんなにかよかったろう。けれども彼の喉は衝撃と困惑によりすっかり干上がってしまっていて、ろくな声を発せそうになかったのだ。
 そして彼が優しい沈黙を守ったのを良いことに、少女は更に惨い言葉を重ねてくる。

「最近ね、新しい世界の夢を見るんだよ。それも沢山」
「夢……」
「いろんな世界にいろんな私がいて、ちゃんと楽しくて嬉しくて幸せなの。きっと私、そんなみんなの悲しさと寂しさを引き取るために、今もずっと、一人きりなのかもね」

 眠そうなゆるい声でそう呟いた彼女はそれきり動かなくなった。ややあってから細い寝息が聞こえ始めた。「幸せな夢」を見ようとしているのだ、と分かった瞬間、サターンの心臓を限りなく冷たい何かが撫でた。その冷たい何かにはおそらく「孤独」とかいう名前が付いていたに違いなかった。

 無機質な蛍光灯が、少女の右側に短く濃い影を落としていた。サターンと少女を挟むように鎮座するそれが、彼を嘲笑うかのようにくたりと大きく揺れた気がした。

「……」

 この少女の粘っこい藍色の視線は、サターンにでもジラーチにでもなく、何処か別の銀河へと向けられている。彼女の夢見た通りに回る、楽しく穏やかな世界へと。こちらの寂しく悲しい世界では到底手に入らない何かへと。

「これほどか、ジラーチ」
「……」
「あの子の期待が己をすり抜けて遠くに向かい続けるのは、こんなにも虚しく、悲しく、寂しいものなのか」

 彼女の目はこの世界を見ていない。
 ジラーチが第三の瞳を決して開かないのと同じように、彼女の薄い腹にもきっと瞳があるのだ。その瞳はずっと閉じられたままで、その分厚い目蓋の裏に彼女はもう一つの銀河を作っているのだ。サターンには決して作り出すことのできない幸せな銀河、ジラーチにも決して叶えられない彼女の夢。そこにはアカギ様も、マーズもジュピターも、サターンさえいるというのに、何もかもが完璧な世界だというのに、こちらのサターンは最早お呼びじゃないというのだ。
 こんなにも近くにいるというのに、この子供はわたしに何も向けておらず、わたしはこの子供から一切を受け取る権利がないというのだ! 夢も、期待も、視線さえも!

 だが……それが一体何だというのだろう。何を動じることがあったというのだろう。何も変わらないではないか。あの方が我々のことなど気にも留めていなかったことと、今の彼女がわたしのことを見ていないことの間に、それ程大きな差はないはずだ。あの方の意識も、少女の夢も、此処にはない。同じこと、それだけのことだ。
 ただサターンは長い間、少女の「寂しいね」「悲しいね」を聞き続けてしまったがために、その心地を完全に否定しきることができなくなってしまったがために……あの方からは決して被ることのなかった心痛を、感情の一切を憎んだあの方が聞けば「それ見たことか」と一笑に付すであろう、そんな心痛を……強く、心が割れそうな程に強く、抱いてしまうことになるのだった。

 寂しい。悲しい。
 この少女と視線が交わらないこと、その粘ついた藍色の目に自身が映っていないことが、ただ寂しい。彼女がいよいよこの世界を諦めてしまったのだと、そう認めてしまうことがただひたすらに、悲しい。

2022.1.26

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