31

あれから数日後、私は約束を果たすために、クロバットに乗ってルネシティへとやって来た。
ジムの門を叩き、中にいたアダンさんとポケモンバトルをした。綺麗な色のバッジを貰い、自室へと通してくれた。
次の挑戦者が来ているからと、直ぐに席を外したアダンさんを見送り、私はダイゴさんとミクリさんに挨拶をした。

アダンさんの弟子であるというミクリさんはともかくとして、ホウエンリーグのチャンピオンであるダイゴさんは、こんなところで寛いでいてもいいのだろうか。
私はそれとなく尋ねてみたが、彼曰く、「4人目の四天王を勝ち抜くトレーナーは、半年に一度現れるか否か」であるらしい。
……確かに、そんな閑散としたチャンピオンの間に、一人でずっと待っているのはあまりにも虚しいだろう。
挑戦者が現れれば連絡が入るから、別にサボっている訳じゃないんだよ、と説明してくれた。

「アダンさんから聞いたよ。ゲーチスさんってプラズマ団の人だったんだね」

そんなダイゴさんは、私にそう告げて優しく笑った。それ以上言及しようとしない彼の姿勢に救われた。
彼は直ぐに、手元の石を磨き始めた。トウコ先輩が言っていた「石にしか興味のない奴」という情報はどこまでも正しかったらしい。
けれど、その隣で本を読んでいたミクリさんはその限りではなかった。パタンと乾いた音を立てて本に栞を挟んだ彼は、大きな溜め息を吐いて苦笑する。

「師匠から聞いた時には本当に驚いたよ。まさか君がプラズマ団のボスと関わっていたなんて」

「別にいいじゃないか。彼はそんなに大変なことをしたのかい?」

ダイゴさんが磨いていた石を、ミクリさんはそっと取り上げた。そう、取り上げた。
ただそれだけのことなのだが、ダイゴさんにとっては大変なことだったらしい。それまでの穏やかな表情からは信じられない程に大きな声をあげた彼に私は驚く。
しかし、ミクリさんにとっては日常茶飯事らしい。ダイゴさんが伸ばす手を慣れた様子でかわし続ける。

「ミクリ、何をするんだ、光の石を素手で触るなんて! 指紋が付くじゃないか! せめて手袋を嵌めてから」

「ポケモンの解放だよ、ダイゴ。ゲーチスは人とポケモンとを切り離そうとしたんだ」

そう告げて、ようやくミクリさんは彼に石を返す。
大切な石が手元に返ってきたことにダイゴさんは安堵の溜め息を零した。ミクリさんはそんな彼に呆れの溜め息を吐いてから、私の方を振り返り、微笑む。

「私はゲーチスという人の思想には賛同しかねる。君だってその筈だ。けれどそんな君が彼を支えるだけの理由が、私が知らないだけで、きっと二人の間にはあるのだろう」

「……」

「そんな思想を唱え、実力行使にまで出ようとした彼のことを、私は好きにはなれそうにない。けれど君のことは認めている。君の選択を信じてみることにするよ」

だから、そんなに不安そうな顔をしなくてもいい。
そう付け足した彼に私は頭を下げた。詳しいことを何も話さない私を、私とゲーチスさんの間にあるものを推し量ってくれる、そんなミクリさんの姿勢に救われていた。
ダイゴさんは、そんな私達の会話を聞き終えてから、再び綺麗な布を取り出してその石を磨き始める。その口が徐に開かれる。

「ゲーチスが「本当は」何をしようとしていたのか、なんて、ボクには興味がないんだ。でも、その建て前がトレーナーに与えた影響は大きかっただろうね」

「!」

そして私は驚きに立ち尽くす。息を飲み、ようやく理解する。この人は全てを知っていたのだ。
彼がどんなことをした人なのか、ポケモンの解放という名義の元に何を目論んでいたのか、遠いこの地を療養の場所に選んだのは何故なのか。
トウコ先輩が全てを話したのかもしれない。「石にしか興味のない奴」というダイゴさんの性格を把握していながら、彼女は彼に敢えて全てを知らせていたのかもしれない。
あるいは、彼が自力でゲーチスさんのことを調べたのかもしれない。真実はどうだったのかを、私が知る術はない。
いずれにせよ、彼は全て知っていたのだ。知っていて、受け入れてくれたのだ。私は今更、それに気付く。

「ダイゴさん、ありがとうございます」

「ん?」

深く、深くお辞儀をする。
ダイゴさんは小さく笑って、「何のことかな」と呟いた。

「ボクは石にしか興味のない、ただの男だよ」

その後、やって来たアダンさんの審判の元、私はミクリさんとポケモンバトルをした。
彼のパートナーであるミロカロスは強敵だったが、ロトムに与えられる有効打はなかったらしく、私は辛くも勝利を収めた。
ミクリさんがこのルネジムのジムリーダーを継ぐ予定であり、このバトルはその予行演習も兼ねていたのだと、私が知るのはずっと後の話だ。

アダンさんはジムの外まで私を見送ってくれた。私は忘れないようにと傘を返す。
気に入ったのなら差し上げますよ、と言ってくれたが、この美しい傘を自分のものにしてしまうことはどうしても躊躇われた。
何より、私の目の前にはその傘よりも広大で美しい、ルネの空が広がっていたからだ。

唯一、残念だったのは、この空を写真に収められなかったことだ。
カメラは持ってきていたが、レンズ越しに映りきらない程に空は広く、写真ではその景色を上手く伝えられそうになかったのだ。
ルネシティの真ん中に立ち、その場でくるりと一回転して、初めてその空の美しさを理解することができたのだ。

この風景を写真に収めると約束した相手が、二人いた。
一人は「では、近いうちに連れて行ってください」と笑ってくれるだろう。
もう一人は「空を小さなレンズに収めようなどという子供の戯言を、私が本気にする筈がない」と、いつもの皮肉で返してくれるだろう。
けれど、気にすることではなかった。
ルネから見える空は狭い筈なのにとても広くて、その広さに比べたら、この世界のことも、彼の言葉のことも、大したことではないように感じられたからだ。

「世界は我々が生きるには狭すぎる。そう思いませんか?」

「……空は、こんなにも広いのに?」

その通りです、と彼は私の切り返しに感心したように微笑んだ。
世界は狭すぎる。抽象的なその言い回しが示唆する内容を、今の私は理解することができる。その「世界」が何を指しているのかを、私は知っている。
彼は案の定、あの日のことを紡ぐべく口を開いた。

「彼と生きるのは難しいですよ」

「はい」

「それでも?」

勿論です。私は頷いた。
あの人の為ではない。誰かの為に此処までできる程、私は美しい人間ではない。
それは間違いなく、私の為。積み重ね、真実になってしまった手放し難い事象の為。

クロバットに乗り、ミナモシティへと向かう。頬を撫でる風は涼しいが、降り注ぐ強い日差しはもう夏のそれになっていた。
また、季節が変わる。変わらないものばかりだと思っていた毎日は、確かな変貌を遂げつつあった。

『手を、殺いでください』

その言葉は、理不尽な世界を受け入れることができなかった私の、私なりの覚悟の形であったように思う。

私は裁かれたかったのかもしれない。
彼のように目に見える形で、彼の傍にいられる理由が欲しかった。彼に寄り添うための許しが欲しかった。
彼がその身に罰を受けていたように、私も裁かれるべきだと思ったのだ。
彼に寄り添うことが間違っているのなら、世界が私の行いを間違っているとするのなら、彼と同じように、何らかの罰を被るべきだと思ったのだ。

シアさん、貴方は間違っていません。もし間違っていても、私が支えます』
その優しい言葉に、あの時ばかりは甘えてはいけないと思ったのだ。間違っているのなら、その罰を受けてでも私はその思いを貫きたいと思ったのだ。
けれど、その覚悟だって、彼のあの言葉が背中を押してくれたに過ぎないのかもしれない。
大好きな彼に報いられるようになるのは、まだ遠い先の話になりそうだった。

『お前に何が解る』
あの人はそう言った。
解らない。解る筈がない。私と彼は違う人間で、同じ感情を共有するには何もかもが対極に在りすぎた。私達は何処までも似ていなかった。
だからせめて、許してほしかったのかもしれない。同じように罰を被ることを、痛みに共鳴することを。
全ては、私の為。積み重ね、真実になってしまった手放し難い事象の為。

『片翼で空を飛べると思いますか』
だってほら、ゲーチスさんには右腕が無くて、私に左腕が無くなったのなら、二人でひとつの形を取って一緒に飛べるでしょう?

低俗な考えだと呆れられるだろうか。愚かだと一笑に付されて終わるのだろうか。
それでもいい気がした。それだって、裏を返せば私の為なのだ。
『じゃあ、一緒に飛びましょうか』
あの言葉だけは、どうしても嘘にしたくなかったのだ。

2013.1.11
2015.1.15(修正)

© 2024 雨袱紗