30

ダーク、と男が紡いだだけで、彼は全てをやってのけた。
少女の襟首を掴み、喉に果物ナイフを押し当てる。息を飲む音が此処まで聞こえた気がした。
ボールから出て来たサザンドラはアダンの前で3つの口を大きく開け、威嚇の姿勢を見せる。彼の目が驚きに見開かれる。
全ては数秒としない内に行われた。

「アダンとやら。アナタは何か勘違いをしているようですね」

自分の抑揚が込められた話し方を記憶から引き出す。
理不尽な世界を手中に収めるために、繰り返した洗脳を男は今でも覚えている。忘れていない。忘れる筈がない。

「この子供はワタクシのものです。ワタクシが手に入れた人間です。圧倒的な恐怖と力とにより手懐け、ワタクシの忠実な僕としました。
アナタがどう足掻こうとも、ワタクシを止めることはできないのです。……そう、誰が何をしようと」

一人称を変えるのは容易い。嘘を吐くのも容易い。
堂々としたそれは、よもすれば真実にも成り得る強固さで、今だけはそれを真実とするべく唇に弧を描かせた。
あの子供はどんな顔をしているのだろう。茫然としているのか、呆気にとられたような表情をしているのか。……その小さな背中から窺い知ることはできなかった。

「去りなさい。アナタに危害を加えることなど、ワタクシには容易いことなのですよ」

彼は動かなかった。数秒の沈黙が流れた。
ダークは少女の首元にナイフを当てたまま、サザンドラは男の前に身構えたまま。
痺れを切らせた男がサザンドラを呼ぼうとしたその瞬間、彼は持っていた写真を突如として宙にばら撒き、笑う。

「エクセレント!」

少女はその言葉に息を飲む。十数枚の写真が白い床に散らばる。

「私の心配は杞憂だったようだ。……レディ、私の負けです」

アダンは少女と男とを交互に見遣った。彼はつい先程まで、二人の間に敷かれた天秤の傾きを汲み取ることができずにいたのだ。
その天秤は少女に傾いていたのか、男に傾いていたのか。彼はそれを計り兼ねていたのだ。しかし、ようやく腑に落ちる。傾きなどなかったのだと。
同じだけの質量がその天秤には盛られていて、つまるところ、第三者である自分が少女を案じる必要など全くなかったのだと。

「レディ、もし大人の助けが必要になったなら、私達を呼びなさい。君の覚悟と彼の言葉に免じて、私はいつでも君の元へ駆けつけよう。
……もっとも、立派なナイトがいる君には不要な手助けかもしれないがね」

その言葉に男は眉をひそめたが、その表情がアダンに更なる情報を与えてしまっていることに気付き、沈黙を貫く。
現にその表情を見たアダンは、満足そうに微笑んだのだ。食えない奴だ、と男は心の中で悪態を吐く。
少女はナイフを押し当てられたまま、小さく「はい」と返事をした。

「アダンさん」

「何かね?」

「……傘を、近いうちに返しに行ってもいいですか?」

アダンはその言葉に驚き、しかし、直ぐに笑い始めた。
一切の抑揚をなくした冷たい声音を貫いていた彼女は、アダンの知っている少女の姿へと戻っていた。
その強張った表情と声音の変化に、底知れぬ緊張と安堵が潜んでいたのだと、大人であるアダンが汲み取ることは容易い。

聡い割に、何もかもを背負い過ぎる少女だと思った。彼女のこの選択は、その覚悟は、あるべき倫理観が損なわれているが故に為されているものでは決してなかった。
少女が戦おうとしているものの正体に、アダンは気付いていたのだ。だからこそ彼は少女の背中を押した。
そこには思うがままに進む少女への、ある種の羨望が含まれていた。しかしそれを知る人間が、アダンの他にいる筈もなかったのだ。

「勿論ですとも、またルネに遊びにおいでなさい。ダイゴやミクリも待っていますよ」

踵を返し、ドアから姿を消したアダンは、特徴的な靴音を響かせてこの空間から去っていった。
その靴音が完全に聞こえなくなった頃、ダークがそっと果物ナイフを降ろした。ふわふわと宙を漂いやって来たジュペッタが場違いにケラケラと笑う。

「すまない」

ダークは少女にそう謝罪したが、少女は困ったように肩を竦めて笑ってみせた。
その表情はほんの数秒前、首元にナイフを添えられていたとは思えない程の柔らかさと穏やかさを持っていたのだ。

「前にも言いましたよね。私はもう、ダークさんがそんなことをする人じゃないって、知っています」

その華奢な背中に、男は声を投げる。

シア

少女は振り向いた。穏やかに微笑んではいるが、そこからは何の感情も読み取れない。
これに近い表情を、男はいつか見た気がしていた。しかし自分の首に手を掛けたあの時のそれに、今の少女はどうにも上手く重ならなかった。
小さな靴音を立てて男の目の前まで歩み寄った少女は、泣きそうに笑って左手を差し出した。

その手を力一杯払いのける。もう一度振り被る。パチン、という乾いた音がした。
左手が痺れるように痛い。少女に容赦なく平手打ちを食らわせたことに、男は時間をかけてようやく気付いた。
唖然とする少女の胸元を掴んで引き寄せる。深い海の色をした目が大きく見開かれ、ぎこちなく二回、瞬きをする。
少女はもう笑わない。

「お前に何が解る」

「!」

「お前にこの痛みが解るものか、この苦しみが解るものか! 何もかも悟ったような顔をして、挙げ句、私を侮辱するのか。
私の苦しみを背負うなどと軽々しく口にするな。簡単に解ったような口をきくな」

少女は打たれた頬に手を添えて愕然としている。
いつもの少女なら言い返す筈だ。少しの沈黙をもってしてその怒りを訴え、毅然とした態度で反論し、時には身をもって私に訴え掛けてきた筈だ。
しかし少女は何も言わない。男はそれをいいことに更にまくし立てた。

「こんな風になりたいとでも言うのか。これからの人生を自ら棒に振るのか。私のように落ちぶれるつもりか」

少女を責める言葉が止まらなかった。この惨い感情は何処から沸いて来るのだろう。
この子供を非難するのはお門違いだと、男は理解していた。
では私は何が許せないのだろうか。それは少女ではない。勿論先程去っていったあの男でもない。無くした右腕でもない。
自分が受け入れてしまった生温い感情が許せないのだ。
目を逸らし続けて来たそれをどうしても肯定できない、けれど拒絶することもできない。

男の感情は行き場を失くしていた。だからこそ、目の前の少女に縋ってしまった。


「手を殺いで、などと言ってくれるな」


それは彼にとって二度目の懇願だった。
『手を、殺いでください』
少女がそう紡いだあの瞬間、男は確かに痛みを感じたのだ。それはない筈の右腕の疼きではない。もっと大きく、奥深くを抉るような痛さだった。
相反する感情が渦巻き、苛立ちに変わる。それをぶつける。縋り付く。そして、懇願する。

『じゃあ、一緒に飛びましょうか』

お前はそう言ったのではなかったか。私はそれを受け入れたのではなかったか。

少女の手がぎこちなく男の背に回された。ごめんなさい、と欲しくもない謝罪が降る。らしくないことを言う少女に男は溜め息を吐く。
最早、多くを男は望まなかった。ただ、目の前で謝罪を続ける少女がいつものように、奔放に笑ってくれるだけでよかったのだ。
男に深く根付いていた筈の、一つの感情は、いつから忘れ去られていたのだろうか。

2013.1.11
2015.1.15(修正)

© 2024 雨袱紗