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少女は小さな声で「ロトム」と彼女のパートナーを呼んだ。小さな体は宙を駆け、少女とアダンの間にさっと分け入る。
彼女はまた、ポケットからクロバットの入ったボールを取り出し、ボールの開閉ボタンにそっと手を掛けた。
鉛のように重い足を動かして、アダンの元へと歩み寄る。アダンの行動次第では、ポケモンに技を指示することすら厭わない。そんな空気が少女から滲み出ていた。
しかしアダンはそんな少女に臆することなく、更に複数の写真を取り出す。七賢人、ダークトリニティ、N。プラズマ団に関わった人間の姿が全て映されていた。

「これは国際警察の方から頂いた写真です。プラズマ団の噂は、このホウエン地方にも少しだけ届いていましたよ」

「……」

「七賢人の中で、掴まっていないのは貴方だけのようだが、成る程、レディが彼のナイトだったとは」

「帰ってください」

短く発したその音には否とは言わせない気迫があった。拒絶を許さない力があった。
しかし男は自分の顎に手を掛けて暫し考え込む。尚も立ち去ろうとしない彼に少女は眉をひそめる。

気丈な態度でアダンと対峙していながら、しかし少女の心は不安で張り裂けそうだった。
強い口調で彼を拒絶しながら、その裏で縋るように訴え続けていた。
どうか彼を白日の下に晒さないでください。どうか見逃してください。やっと死の淵から免れた彼に、もう少しだけ、時間を下さい。
ポケモンに対する裁きを受けた彼に、人間に対する裁きが下されるまで、もう少しだけ、猶予を下さい。

「私には少々、理解に苦しみますな」

アダンは整えられた髭に触れながら、少しだけ首を傾げる。

シア、君の後ろにいる人間は、君がそれ程のリスクを冒してまでも庇うに値する存在なのですか?」

「……」

「彼のことが、大切なのですか? 誰よりも、何よりも?」

男は平静を崩さない。少女は怯まない。
少しの思案の後に首を振った少女は、アダンを見上げ、凛とした声音で紡いだ。

「大切な人です。元気になってほしいと、生きてほしいと、心から思っています」

少女の後ろでベッドに腰掛けていた男は、その言葉に僅かに表情を変えた。
大切な人。それはだ自分のことだろうか。この子供を殺そうとし、彼女のいる世界を見限ろうとした自分のことだろうか。
愚かだと思う。馬鹿げているとも思う。
しかしそうした呆れと侮蔑の思いにもかかわらず、男は少女の華奢な背中から目が逸らせなかった。数分前の会話が脳裏に浮かぶ。

『私はゲーチスさんを守ってもいいんです』
少女は笑っていた。男は笑えなかった。

「けれどそれは、他の全てを捨て置ける程の強い思いじゃありません。私の大切な人は、彼だけではないからです。
それでも、その人が「かけがえのない存在」じゃなかったとしても、その人を支えたいと思う気持ちがあったとして、……その思いが、間違っているとは思いたくありません」

「……彼を大切だとすることが、他の大切な人を脅かすことになったとしても?」

少女は頷いた。

「私は欲張りな人間ですから」

まるで全ての非が自分にあるのだと言わんばかりの口調でそう紡ぎ、少女は困ったように笑って肩を竦める。
少女は欲張りなのだ。そして同時に、我が儘でもあった。
誰かが必ず苦しまなければならないようになっている、この理不尽な世界を受け入れることがどうしてもできなかったのだ。
だから少女は、男の元へと通っている。自らが全てを奪った男の元へと、通い続けている。
そうすれば、何かが変わると信じている。自身に世界を変える力はないけれど、それでも、自分が奪ったものに対する責任くらいは取れるのだと信じている。
自分はまだ、その責任を果たせていないと感じていた。男の為ではない。自分の為だった。欲張りな自分の我が儘なのだと、言い聞かせていた。

アダンはそんな少女と男を見比べて、何かを考えている様子だった。彼はまだ、二人の間に生じた関係の天秤を見破ることができなかったのだ。
少女の言葉が演技であるようには見えなかったが、もしそれらが全て、彼女の背後にいる男に強いられたものだったのだとしたら。

「私は彼の居場所を国際警察に告げるためにやって来たのではないのですよ。
プラズマ団のことを私は殆ど知らないし、彼が本当に全ての黒幕だったのかも怪しいところだ。それを確認する術を、部外者である私は持ち合わせていない。
そんな私に、後ろの彼を悪者に仕立て上げることはできそうにない。イッシュの人間ならまた話は違ったかもしれないが」

「それなら、どうして此処へ来たんですか? 好奇心ですか? 私への叱責のためですか?」

抑揚のない声で少女はそう尋ねる。いつもの朗らかな口調の面影は微塵もなかった。
その声音に、少女の後ろにいた男は息を飲んだが、彼女と対峙しているアダンはその口調にも臆さず、笑って肩を竦めた。

「君の為です、レディ」

「私の……?」

「君は賢い子だ。けれど、それだけではいけない。これからもそのリスクのある選択を続けるというのなら、相応の覚悟を持たなくてはね」

私はそれを確かめに来たのです、と付け足してアダンは微笑む。
少女は勢いを削がれたかのように黙り込んだ。

「私を言い負かしてみなさい」

「……」

「君の持っている理由で、覚悟で、私を納得させなさい。エレガントな答えが聞けたなら、私は潔く去りましょう」

その言葉は、少女に長い沈黙をもたらした。それは困惑だった。
どうしよう。どうすればいいのだろう。少女は自分の持てる全ての語彙を総動員させて考えた。
しかし足りない。言葉では足りない。どんなに沢山の言葉で飾ってもそれらは小さすぎるように感じられた。
何か、何かある筈だった。重ね続けた嘘を真実にした確固たる言葉が、繰り返し自分に言い聞かせたそれを真実に変えた一瞬が。
彼の右腕がないという事実を知った時、私は確かに喜んだのだ。
彼は既に裁かれていた。これで彼が苦しむべき理由は何もない。私はようやく彼に、寄り添えるのだと。

『叶わないことを平気で言えるのは、無知な子供の特権だ』
『なんと愚かなことだ、お前ごときが私の踏み台になれると本気で思っているのか』
『お前が知る必要などない。知らなくていい』
『お前のような子供に守られる程、私は落ちぶれてはいませんよ』

何か、……何かある筈だ。そう言い聞かせながら、少女は記憶の海を泳ぐ。
程なくしてそれは現れた。初めからそこにあったかのような自然さで。愛しさと形容するに足る記憶を介在して。

『片翼で空を飛べると思いますか』

それはいつか聞いた、氷の割れる音に似ていた。
ああ、そうか。あれはそういう意味だったのだ。少女の唇は穏やかに弧を描く。
彼がその「片翼」に、自身の殺がれた右腕の記憶を重ねていたことを、少女は今になってようやく理解したのだ。だからこそ、彼は自身を「片翼」としたのだ。

『それじゃあ、一緒に飛びましょうか』
あの時はそれに気付けなかった。気付けないままにそんな言葉を紡いだ。……けれど、今は違う。
奥底で渦巻いていたものが、ようやく形を取る。積み重ねた嘘はもう真実以外の何物にも成り得なかった。そんな時間を少女は彼の傍で過ごしてきたのだ。
そして答えを見つけた少女は、左手を徐に差し出し、微笑む。


「手を、殺いでください」


2013.1.10
2015.1.15(修正)

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