当たり前のことを当たり前に為すことが求められる。
生まれた時から子供は子供でなければいけない。年齢と共にそれ相応の思慮を身に付けなければいけない。
朝に起きて夜に眠らなければいけない。人のものを盗ってはいけない。
楽しい時には笑い、悲しい時には泣かなければいけない。
しかしそれではいけない場合もある。その境目を私達は判断しなければいけない。
それらを私達が身に付けるのは、実は大人達が期待するよりもずっと、ずっと後なのだ。
しかしそれは私達が、大人が期待するよりも無知で思慮が浅いことを指す訳ではない。更に言えば、子供が大人の期待を裏切ることばかりでは決してない。
子供は大人が思っている以上に、時に幼く、時に大人びている。
大人が期待しているより早く、分別を覚えることもあれば、大人が期待しているよりもずっと後に、ようやくそうした良識を自分のものとする場合だってある。
大人である彼等は、たまに忘れる。
私達には私達の世界があることを。大人の期待が私達の人生の駒を進める訳ではないことを。
私達だって、間違える。勘違いをする。強情になる。そして時に、嘘だって吐くのだ。
「おはようございます」
だから私は、聞き分けの悪い私は、そんな思慮を身に付けていない振りをする私は、今日もこの部屋を訪れる。
パタン。本を閉じる乾いた音が響いた。
「お前は昨日の話を聞いていなかったのですか」
「いいえ、聞きましたよ。でも従うなんて、言っていませんから」
そう言いつつ、そう返した私に苦い顔をしつつ、彼は私を拒まない。彼は私を拒めない。そうするだけの力を、最早彼は持っていない。
そしてそのように把握する私を、彼は許している。
「ドアに小指をぶつけた時の方が痛かったです。だから、大丈夫ですよ。
もしまた同じことがあったとして、二度も同じ手を食らったりしません。ちゃんと避けてみせます」
おどけたようにそう言えば、彼は小さく溜め息を吐いてから、窓の方に視線を逸らす。
心なしか、その横顔は穏やかであるようにも見える。
「好きにしなさい」
この場でのイニシアティブが私に譲られたのはいつからだったのだろう。
少なくともイッシュの地では、私は彼の下にいた筈だ。
怖くて怖くて、どうしようもなく恐ろしくて、けれど彼が死んでしまうことが何よりも恐ろしくて、だからこそ、震える足を叱咤して彼の元を訪れていた。
変わらないと思っていた日々の中で、確かに変わっていったものがある。
少し前までは彼の手元が定位置だった本は、私が話し掛けると同時に閉じられるようになった。
ダークさんが持ってきてくれるお茶に口を付けながら、私の持ってきた和菓子を一緒に食べてくれるようになった。
いかりまんじゅうが好きだとダークさんがこっそり教えてくれてからは、かなりの頻度でそれを調達していた。
それから、これは私の変化なのだけれど、彼に一方通行の世間話ではなく「質問」をするようになった。
彼がいつも読んでいる本の内容や、病院での生活、体調のこと。粒あんとこしあんのどちらが好きか、なんていう、くだらないこと。
それらを彼は一笑に付し、しかしちゃんと、答えてくれる。本当に答えたくない時には沈黙を貫く。その時は私も、それ以上の追求をしないように即座に話題を変えた。
この人のことを恐ろしいと思う気持ちが、完全に消えたわけではなかった。けれども私は、少し前とは別の見方をしていた。
私はきっと、この人とコミュニケーションを取るのが恐ろしく下手なのだ。だから会話が長く続かない。寡黙な彼から言葉を引き出すことが、私には上手くできない。
ただそれだけのことだったのかもしれないと思い始めていた。彼に抱いた恐怖は、気まずさ故のものだったのではないかとも思えていた。
しかし、そんな筈はないのだけれど。そんな筈はないことを、彼の先日のような行動が教えてくれるのだけれど。
春になっても、まだ朝や夕方の風は冷たい。私はまだ、あの冷たさを連想させる全てのものが苦手なままだった。
「!」
私は息を飲む。彼が僅かに微笑んでいるような気がしたからだ。しかしもう一度瞬きをした後には、もうその表情は過ぎ去ってしまっていた。
その目は真っ直ぐに海を見ている。ゲーチスさんは海が好きらしい。
彼の笑顔は儚い。
瞬きの間に過ぎ去ってしまうので、私の記憶にはあまり焼き付いていないけれど、時折、今のような表情をしてみせる。
それはよく晴れた夜空に似ていた。
夜に流れ星を見つける為に、何もない闇に目を凝らし続けるようなことはしない。本来なら宇宙のチリであるそれは、誰かに見られない限り流れ星では在れない。
一瞬のそれを、たまたま私が目に留めた。そこに私が、儚さを穏やかさと優しさを見出した。それだけのこと。そして、それでいい気がした。
「窓を開けてもいいですか?」
答えるより先に手を掛ける。どうぞ、という小さな返事を聞くやいなや、勢い良く開け放った。
春の風が、陽だまりと海の匂いを運んでくる。私は大きく息を吸い込んだ。ホウエン地方の空気は、とても美味しい。
リンリン、と風に揺られて、ジュペッタのダークさんが連れているポケモンが小さく鳴く。
この子は最近、この病室に出入りしている野生のポケモンだ。ジュペッタのダークさんに懐いているというよりは、ジュペッタと仲が良いらしい。
昨日、かざしたポケモン図鑑には「チリーン」と表示された。イッシュでは見たことのないポケモンだ。
そもそも、このホウエンという遠く離れた土地で、イッシュに住むポケモンと同じ姿を見つける方が難しい。
ミナモシティのすぐ近くの草むらを歩いているだけでも、新しいポケモンとの出会いが沢山あった。
見たこともないポケモンに図鑑をかざすときのあの高揚は、初めてヒオウギシティを旅立ったあの夏を思い出させた。
あと数か月で夏がやって来る。あれから、一年が経つ。
彼女は私に並んで、その目にミナモの海を映している。雲一つない空と、透き通る青の境界は少し解りにくいが、その水平線は確かに弧を描いていた。
「いい眺めでしょう? ゲーチスさんは此処を独り占めしているんだよ」
狡いね、とチリーンに話し掛ける。彼女はクスクスと笑うように身体を揺らして応えてくれた。
すると何処からともなく現れたジュペッタが、チリーンをつついてちょっかいを出す。
しかしチリーンにはそれが嬉しかったようで、リンリンと涼しげな音を鳴らしながら、ジュペッタの周りをくるくると回った。
澄んだ鈴のような鳴き声と、ジュペッタのケタケタという笑い声が混ざる。ココアを持って現れたダークさんが「ジュペッタ、少し静かにしないか」と窘めた。
その様子が、子供を叱る親のようだったので私は思わず笑ってしまう。しかし彼はその小さな笑い声すらも聞き逃さない。
「いいなあ、楽しそう」
だから思ったままを紡いでみる。ジュペッタのダークさんは「お前に次いで、またしても煩い奴が増えた」と溜め息を吐いてそう零した。
窘められた二匹は、開け放たれた窓から外へと飛び出し、空中で戯れながら遠くへと駆けていってしまった。
夏を知らせる筈のその音が、春の風に揺られて鳴っている。
夏。その頃にはあの空に真っ白な入道雲が沸いているのだろう。
この海に面した美しい町は、海水浴や観光に来た人々で賑わうに違いない。
夏になったら、お土産はヒウンアイスにしようか。そんなことを思ったが、ただでさえ気温の高い夏に、イッシュからアイスを溶かさずに運ぶ手段がない。
そもそも、この人が好きなのはおそらく和菓子だ。ヒウンアイスは口に合わないかもしれない。
そんな憶測を一人で重ねる。以前の私ならそれだけで終わっていただろう。
けれど私は躊躇わない。気難しそうな表情をした彼に、質問を投げることが、できる。許されている。
けれど、今の私はそうすることができなかった。
「海」という単語は、私にとって、アクロマさんと重ねた時間と、そこで彼から託されたオイル時計を指すものだった。
その時計は割れてしまったけれど、その愛しさに変わりはなかった。
けれど私はあの日から、海に関する記憶をもう一つだけ持っていたのだ。冷たい海、歪む視界、痛みを訴える右手、悲鳴に近い懇願、彼の赤い目。
『貴方は生きるんです! どんなに多くの人の手を煩わせても、どんなに生きることが苦しくても!』
「ゲーチスさん、夏になったら海に行きましょう」
あるべき思慮を持ち合わせていない振りをして、私は彼に笑いかける。
「……すぐそこに見えるのに、ですか?」
「すぐそこだから、ですよ」
「まだ春になったばかりなのに、気が早いことだ」
そうして彼は小さく笑う。一瞬だけ見せるその笑みはぎこちなくない。
彼と海に行きたい。燃えるように熱い砂浜の上を歩きたい。氷のように冷たいあの海ではなく、眼下に見える優しい海水に靴を浸したい。
彼を組み敷き泣きながら懇願するのではなく、その隣を笑って歩きたい。
そうすることを、きっと彼は許してくれる。
2012.12.25
2015.1.11(修正)