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氷のように冷たい鋭さは、肌を貫くことで鈍い痛みへと変化した。一瞬のうちに全身を駆け巡ったその感覚を、男が確認する術は最早存在しない。
鉛のように重かったのか、水銀のように美しくも身体を蝕むものだったのか、今となってはよく、解らない。

ただ、目の前が真っ白になり、続いて暗転し、延びて来たそれを左手で勢いよく振り払っていた。
憎悪、羨望、悲観、虚無、底に沈めていた何もかもが浮き上がる。痛みにより増幅されて勢い良く放たれる。
何故。と思った。何故なのだろう。何故、自分が。何故、私が苦しまなければならないのだろう。
突き付けられた理不尽は痛みという形で彼の心臓を抉った。何度目だろうか。その理不尽がこちらに刃を向けたのは。確かな鋭さと傷跡を残したのは。
その衝動に任せるようにして、手に触れた何かを投げつけていた。氷の割れる音が耳に突き刺さった。

「……」

無機質なナースコールの音が響く。
非力な自分の身体は、その場でかくんと膝を折る。忠実な僕の一人に支えられたことにより、ようやく落ち着きを取り戻す。
床に散らばる硝子は、元の花瓶の形を殆ど留めていなかった。火山灰と交換してもらったらしい、その小さな花瓶には、3日に一回の頻度で新しい花が挿されていた。
床に落ちた一輪の花の名前を、男は忘れてしまっていた。確かに昨日、教えてもらった筈だが、今はどうしてもその真っ赤な花の名前を思い出せなかったのだ。
粉々になった花瓶の欠片の中心にあの子供はいた。
驚き、動揺、それらをその幼い顔に焼き付けた後で、少女はその目に男の見慣れた色を映す。

ああ、同じ目だ。

イッシュより幾分温かい春が訪れたこの街に、少女は毎日のように足を運んだ。
まだ朝の早い頃にパタパタと足音を鳴らし、ドアを勢いよくスライドさせてから男の名前を呼び、にこりと笑ってお土産を掲げてみせる。
イッシュ地方からホウエン地方まで、それなりに距離がある筈なのだが、男が此処へ入院してからというもの、少女は週に5日のペースでやって来る。
あまりの頻度に、男は少女がこの馴染みの薄い土地で独り暮らしを始めたのかと疑った。
しかし彼女の会話の中に、イッシュでの知り合いである、アクロマやトウコといった名前が頻繁に出てくることに気付き、男はその可能性を消した。

『ホウエン地方はとても素敵な場所ですね。最近は此処へ来る目的が、ゲーチスさんのお見舞いなのか、ホウエン地方の観光なのか、解らなくなってきました』

そう言って彼女は笑った。しかしその言葉に反して、少女の手には必ずと言っていい程に、何らかの和菓子が提げられている。
その中には、シンオウ地方やジョウト地方など、遥か遠くの土地でしか買えないものも含まれており、どのように調達しているのかを男は訝しんでいた。
しかし「どれもイッシュのヒウンシティで手に入りますよ。船に乗ってポケモンバトルをすると、貰えるんです」と説明されてからはその疑問も解けてしまった。

「ゲーチスさん、おはようございます」

今日も同じように現れた彼女は、いかりまんじゅうと書かれた和菓子の小さな包みを掲げてみせた。
明るい声音で朗らかな言葉を選ぶ、それなりに聡明な彼女は、ホウエンの地で「友達」を作ったらしい。
「その子と一緒に遊んでいる時に出会ったんです」そう言って、白い身体に緑の帽子を被ったようなポケモンを抱き上げてみせたことは記憶に新しい。
男を見上げるその小さなポケモンの赤いツノは、淡い光を放っていた。

病院の最上階に構えられた病室、そこに設けられた大きな窓からは、広大な海が見渡せる。
ミナモという名のこの街は、あの子供にとても似合う。ふとそんなことを思う。
彼女はその目に海を飼っている。それは深い海を映したような色だ。何もかもを受け入れ飲み込む畏れを見出せる色だ。
そしてそこはおそらく自分が生きるべき場所ではない。

それなのに少女はやって来る。割れたガラスの破片で額に目立つ切り傷を付けた、その痛々しい顔は笑っている。
その姿はまるで自身を痛めつけているかのようだった。

少女は笑っている。自分は笑えない。

「痛みますか」

その瞬間、少女はその海を大きく見開いて、次の瞬間、冷気を纏う。
優しい氷で己の表情を固め、笑う。

「いいえ、大丈夫ですよ。ただ少し切っただけです」

とても解りやすい嘘を吐く。その目はひどく怯えていた。冷え切ったその色と、浮かべる笑顔があまりにも不釣り合いで男は眉をひそめる。
二回り程、年上である男が、そのような嘘を見破れない筈がない。そのようなこと、この聡明な子供は解っている筈なのに、それでも嘘を貫くことを止めない。

「だから、そんな顔をしないでください」などと、泣きそうになっているのは少女の方である癖に、そんなことを言ってまた笑う。
それはひどく滑稽だった。

その笑顔は誰が為に?男は沈黙の中に疑問を投げる。
まさかとは思うが、私にだろうか。お前を殺しかけた私に、お前のいる世界を見限ろうとした私に。
ああ、滑稽だ。おかしくて、滑稽で堪らないのに、少女はそこから抜け出そうとしない。自分で自分の首を絞めるような、この子供の生き様が解せない。

「私、よくドアの角に足の小指をぶつけるんです」

「……ほう」

「痛くて痛くて堪らなくて、私が何をしたっていうのよ! って怒ったりします」

殆どの時間において無言を貫く男の代わりに、少女は饒舌に話すことに慣れ始めているようだった。
それは明日の天気であったり、この窓から見える海の様子であったり、この病院へやって来る途中で見かけたポケモンのことだったりした。
今日は、家を出る瞬間に負傷した足についての戯言だったらしい。
いつものことだが、何の脈絡もなしに紡がれるその話題に少しだけ眉をひそめ、しかし聞き流すことのできない自分に少しだけ苛立つ。
しかし、こんかいの戯言は戯言のままで終わらなかった。少女は少しだけ声のトーンを落として付け足した。

「ゲーチスさんの「それ」は、何倍の痛さなんでしょうね」

それ、が指すものに辿り着いた瞬間の、自分の中に沸いた、ある筈のない感情をどう修飾すべきなのだろう。
嘘は得意だ。皮肉を交えて誤魔化すのにも慣れた。
しかし、自分の口は敢えて本音を紡ぐ。

「お前が知る必要はない」

その確固たる拒絶に少女は怯んだ。その目にいつかと同じ色を見たゲーチスは、彼女から視線を外してその色を見ないように努める。
この子供のせいで、生きることを選ばざるを得なくなった。しかし、それだけだ。自分は何も変わらないし、この子供に変えさせなど、絶対にしない。

「知らなくていい」

けれど少女は困ったように肩を竦めて笑う。
少女は笑っている。自分は笑えない。

「私はそうは思いません」

「……」

「ね、だから私、毎日此処に来るんですよ」

そのタイミングを計ったかのように、ダークがジュペッタを引き連れて現れた。
ジュペッタの更に後ろには、小さな風鈴のようなポケモンが涼しい音を鳴らして宙に浮かんでいる。
どうやら彼等もこの土地で、奇妙なものに好かれたらしい。

「わ、見たことないポケモンですね。図鑑をかざしてもいいですか?」

少女はダークに駆け寄り、確認を取る。
頷いた彼を見てから鞄に手を入れ、ポケモン図鑑を取り出してその小さなポケモンに向ける、その横顔から笑みが絶えることはない。

少女は笑っている。おそらくは、彼の分まで。

2012.12.25
2015.1.11(修正)

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