20

回想が何かを生むとするなら、それはしかし、悔恨や壊古などの無価値で無意義なものである筈だった。
ならば忘れてしまえばいい、戯言の積み重ねを記憶の棚に仕舞う必要はない。
それなのに、惜しむらくは記憶というものの性なのだろう、それを大事に抱え込んで離そうとしない。
男が苦しむ所以は、おそらくそこにあるのだ。

「雨ですね」

「空が泣いている、とでも言うつもりですか?」

そこまで詩的な思考は持ち合わせてないです、と返って来た言葉に男は眉をひそめた。
それではまるで私が詩人のようではないか。

薄暗い空が重い雨を降らせている。
傘を持ち合わせていなかったと告げる彼女は、その大きな鞄を頭にかざして駆けて来たらしい。
肩から手首にかけて泳いだように濡れている少女は、「雨ですね」などと呑気に紡いだその笑顔に反して、ひどく震えていた。
それは春の雨がもたらす寒さのせいかと思ったが、震える様子と顔色の悪さが、それだけではないことを示していた。
恐怖に似た感情を男が拾い上げることは容易かった。しかし、その原因までもを探り当てられる程に、少女に興味を示していた訳ではなかったのだ。

彼女が春の雨の冷たさに、殺されそうになったあの日を思い出して震えているのだと、男が知る筈もなかったのだ。

「これで拭きなさい」

タオルを2枚差し出せば、少女は目を見開いて驚きの表情を呈する。
僅かな苛立ちを感じた男は、気遣いを皮肉に切り替え、そのタオルを受け取らせることを選んだ。

「お前が風邪を引こうが私の知ったことではありませんが、床を濡らすのは止めて頂きたいものですな」

少女はぎこちなく笑ってみせた。その笑顔は些か楽しげでもあった。
その髪はポタポタと雫を垂らし、既に床に小さな水溜まりを作っている。今更床を濡らすなも何もあったものではない。
それを承知で皮肉を零す。そうすれば、この子供が笑ってタオルを手に取ることを知っているのだ。
けれど躊躇いがちに伸ばされたその手が驚く程に震えていて、流石に男も眉をひそめる。

「そんな風に無様な震えを晒さなければならない程に、外は寒かったのですか?」

しかし驚くべきことに、少女は首を振って否定の意を示した。
馬鹿げている。そんなに顔色を悪くして震えているというのに、寒くない訳がない。
男は溜め息とともにその呆れを吐き出そうとしたのだが、それを寸でのところで止めることになってしまう。

「少し、怖くて」

やっとのことで2枚のタオルを掴んだ少女は、消え入りそうに小さな声でそう紡いだ。
あり得ないと思っていた仮説が男の中に芽生えた。彼は一瞬の躊躇の後で、すぐさま引っ込めようとした彼女の手首を素早く掴む。

「!」

震える息と共にその手が物凄い力で振り払われた。
その反動で白い床に倒れ込んだ少女は、彼の掴んだ右手を庇うようにもう片方の手でしっかりと抱き、その目を僅かに揺らしている。
同じ目だ、と男は思った。そして男の仮説は確信へと変わる。この目をつい先日、確かに見ていたが、それよりずっと前から、男はその目を知っていたのだ。
この子供を手に掛けようとしたあの日、キュレムの凄まじい氷の力をもってして、少女の息の根を止めようとしたあの日。

あの日、この子供は真っ直ぐに自分を見据えていた。周りを無数の氷に囲まれ、数秒後に死が迫っていることを悟りながら、その目が恐怖に飲まれることはなかった。
その後、自分の言葉を鋭い声音で遮り、あろうことか挑発さえしてみせたのだ。
随分と肝の据わった子供だと思った。その生意気な目を潰せなかったことに苛立っていた。

『それに、今も、これからも、イッシュは美しいままです。だって、私が貴方を止めるから』
気丈にもそう紡いだ彼女は、しかし、恐れていたのだ。あれから半年以上の月日が流れた今でも、その瞬間を思い出させる、肌を刺すような冷たい感覚に怯えているのだ。
平気な顔をして彼の元へ通いながら、その額に傷を付けられたことなど忘れたように、笑顔でこの場所を訪れながら、
彼女は一度たりとも、あの時の恐怖を忘れたことなどなかったのだ。死が迫ってきたあの瞬間は、彼女に確かなトラウマを刻んでいたのだ。
そしてそれを最も連想させるであろう自分の元へ、彼女に手を掛けようとした張本人の元へ、彼女は笑顔でやって来る。

見事だ、と男は思った。

それは愚かだという呆れを通り越したある種の感心だったのかもしれない。
どこまでも自分を痛めつけるような矛盾した行動を取るこの子供に、超人的な何かを見出したが故の評価だったのかもしれない。
しかし、自分を何よりも恐れながら自分の元を離れない、この矛盾した子供とは対照的に、男は自分の感情を認めることができた。
そうせざるをえない基質は、きっとこの子供に与えられたのだろう。


この子供に、敵う筈がなかったのだ。


その恐怖を隠していたかった、この子供の心情は察するに余りある。何故なら男もまた、少女に隠し事をしていたからだ。
伝える必要などないし、告げる義理もない。そう思いながら、しかし何よりも知られたくないという思いが先行していた。
少女が隠していた恐怖のように、それもいつかは知られてしまうのだろう。それでもよかった。けれど彼女はどうだろうか。
この決定的な戦慄をもってしても、その気丈で生意気な目は、まだその恐怖を否定していたいと思っているように感じられたのだ。
そうした配慮を、男はできるようになっていた。そしてそんな配慮をしてしまった自分に苛立ち、眉をひそめる。それは最早日常と化した光景だった。
男もまた、自らの感情を認める訳にはいかなかったのだ。

「お前はその恐怖を隠していたいと思っていたのではなかったのか」

長い、長い沈黙の後で男はそう問い掛けた。
少女はその目を見開いた。その海には彼女に冷たい視線を落とす男の姿が映っていた。
やがて小さく頷いた少女は、「ごめんなさい」と訳の分からない謝罪を紡ぐ。その声音は当たり前のように震えている。

「では、見なかったことにしなさい」

「え……」

「私は何も見なかった。お前は滴る雨が作った水溜まりに滑って自分で転んだ。突然手を掴まれたことに驚いてそれを振り払った。何もおかしなことなどなかった」

彼女はその瞬間、掴んでいたタオルの1枚を顔に押し当てた。その奇行に男は眉をひそめたが、やがてその理由を察してからは口を閉ざして沈黙を貫いた。
タオルに顔を押し当てたまま、くぐもった声で「ふかふかですね」と少女は紡ぐ。
この少女はタオル1枚で幸せを手にすることができるらしい。ひどく便利で馬鹿げた能力だと思った。今は、そういうことにしておくべきだと思った。
長い髪に含まれた雨を絞るようにして拭く。拭いても拭いても彼女の顔からは雨が消えない。
男は思わず目を背けた。

「明日、ルネシティに行ってきます」

しかし、こんな時にも彼女はいつもの戯言を紡ぐことを止めない。呆れたことだと思ったが、彼はその中の一つの単語に注目した。
ルネシティ。確か隕石が墜落したクレーター跡に栄えている、周りを深い海に囲まれた町だ。そんな町に一体、何の用があるというのだろうか。
ようやく顔の雨を拭いきった少女は、暗い窓の外を見る。その声音はもう震えてはいなかった。

「空が丸いんです。一度見てみたくて」

写真を撮って来ますね、と笑う少女に向き直り、男は溜め息を吐く。
まさかこの子供は、クレーター跡の輪郭によって視界の端を丸く覆う、ただそれだけの光景に男が感動すると本気で思っているのだろうか。
愚かだと思った。馬鹿げていると思った。しかしそんな少女を傍に置くのは楽でもあった。
自分の未来を切り取り、共有を約束する。そんな高尚で堅苦しい行為をほんの些末な事柄に持ち込む。
それに付き合っても構わないと思える程には、男の体調は快方に向かいつつあった。

「……好きにしなさい」

それが精一杯の了解だと知っているらしい彼女は、本当に嬉しそうに笑ってみせた。

不要なものなら忘れる筈だ。そう思っていた時期が彼には確かにあった。
ならば、この記憶は自分にとって必要なのだろうか。
何処を探しても小綺麗なものなど在りはしないのに、負の遺産でしかないこれらは自分にこれ以上何を与えようとしているのか。

ほら、丸いでしょう?そう言って空の写真を見せに来る少女の未来が安易に想像できる。そしてその未来には自分も含まれているらしい。
自分の未来を切り取り共有する、そんな少女は男に後ろを振り向かせない。ひどく不安定な割に強情で、嘘を多用して己を誤魔化す割に涙脆い。

『誰を踏み台にしてもいい。私でもいい。生きてください』

ただし、思い出したくないと思っていた記憶の中身は、そう、悪いものばかりでもなかったらしい。
黒ばかりの記憶に潜り、他の何物にも触れないように、慎重にあの懇願を引っ張り出す。
生じた沈黙は、止まない雨が埋めていった。

2012.12.26
2015.1.11(修正)

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