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「何故、あのようなことを言わせたのですか」

そう尋ねたダークの隣で、彼のパートナーであるジュペッタがケタケタと笑った。男の本のページを捲る音が妙に乾いて聞こえる。
今日も少女の訪れは遅い。男は徐に時計を確認し、そのついでだと言わんばかりにそのまま視線をダークへとずらした。

「……何のことだ」

「いいえ、貴方はそれを解っている筈です」

突き付けられた言葉に男は閉口した。
このまま取り合わないようにするのは男にとって簡単なことだった。事実、今まではそうしてきた。
……いや、それ以前に、この忠実な配下が主である男に対して、こうした質問を投げることなど今までなかったのだ。
「何を」「何処へ」「誰に」そうした質問は確かに行われていたが、「何故」を配下である彼に問われたのは初めてだった。
そんな彼との「対話」に、男は僅かに狼狽える。
どうしたものかと沈黙を重ね、先に口を開いたのはダークの方だった。

「ではこちらから言いましょう。幻肢痛の件です」

男のページを捲る手が止まる。その本を閉じ、机の上へと置いた。
こんなことがあっただろうか。男はそんなことを考える。忠実な配下の一人であるこの人間と、こうして向かい合い、対話をしたことがただの一度でもあっただろうか。
きっとその経験があったなら、男はもう少し冷静でいられたのだろう。

『ゲーチス様の幻肢痛は、その大半が心因性のものだった』
『心因性……心を変える薬があるんですか?』
『お前の言葉だ』

ダークが告げたあの言葉が、男により指示されたものであったことを少女は知らない。
寡黙で言葉の下手な男が、ただ淡々と事実だけを告げるダークの言葉に自らの思いを委ねていたことを、知る者は当人である男の他にはいない筈であった。
しかし、目の前のダークは全てを見通しているかのような流暢さで男に質問を重ねる。

「あの現象の原因は分かっていないと、貴方は医師から説明を受けた筈です。
心因性のものかもしれない、脳の働きによるものかもしれない、という言い方を医師はなされました」

「心因性のものでないとは言い切れないだろう」

「いいえ、ゲーチス様。我々が知りたいのは真実ではない、貴方があのようなことを言わせた理由です」

尚も食い下がるダークに、男は溜め息を吐く。
ダークがしているのは、間違いなく個人的な質問だった。それに答える必要などなかったのに、男は拒むことができなかった。
それは男がいつもの平静を保てずにいたことも一因していたが、何よりそんな質問を投げるダークの意図を計り兼ねていたのだ。

「それを聞いてどうする」

彼等が個人的な質問を男に投げることなど皆無に等しかった。
ただ自分の命を受けて、ひたすらに動く。彼等はそういうものだった。だからこそ傍に置いていた筈だ。
そんな彼が、問うている。何故、と。彼は何を聞こうとしているのだろう。男にはそれが解らなかった。
しかしその疑問は、次のダークの言葉で直ぐに氷解する。

「もし我々の感じている違和感が正しいのだとしたら、シアを貴方と同じ位置に据えて、扱い、お守りしなければならないからです」

ああ、そうか。そういうことだったのか。
男は僅かながら唇に弧を描いた。

「その必要はない」

短く紡がれた否定の言葉に、ダークはその目を僅かに見開いた。
男の赤い隻眼は、射るようにダークを見据えていた。ジュペッタが笑うことを忘れて覚束なく宙を漂う。

「あの子供は私のものだ。守る必要があったなら私が守ります。お前達の手など煩わせませんよ」

「では、」

ダークは一呼吸置いて、紡いだ。

「それは何故ですか」

その言葉に、男は思わず左手を強く握り締めた。その左手は一人の少女のものだったのだ。
毎日のようにこの場所を訪れる少女の柔らかなメゾソプラノを、男は覚えている。
「ゲーチスさん」と、道端の花を愛でるような気軽さで、しかし確かな微笑みをもってして男の名前を呼ぶその音を、男は忘れることができない。

『右腕がないことに悲しむ必要なんてなかったんです。だってゲーチスさんは生きているから』
『それでも私は傍にいたい!』
『手を、殺いでください』
『ゲーチスさんは、私のことが嫌いなんじゃなかったんですか?』

「あの子供を手放したくないからです」

その言葉は、思っていたよりも美しい響きをもって口から零れ出た。苛立ちを付加するものでも、不快なものでも、ましてや屈辱を思い起こすものでもなかった。
嘘を吐く訳でもなく、皮肉を言うのでもない。ただ事実だけを、自分の口は淡々と紡いでいた。

いつからだろう、と男は思う。
『なんと愚かなことだ』
あの時、愚かだと一笑に付した感情が我が身を蝕み始めたのは、その感情を受け入れてしまったのは、一体、いつからだったのだろう。
どの言葉が契機となっていたのか、今ではもう思い出せなかった。
少女が積み重ねた嘘をいつの間にか真実としていたように、男も拒み続けたそれをいつの間にか我が物としていたのだ。


「あの子供が大切だからですよ。そう思っているのはお前ではない、私だ」


だからこその言葉が此処にあり、つまるところ、それは紛れもない真実だったのだ。
訪れた沈黙はしかし心地良く、男はその隻眼をもってしてダークを見据えた。

「あの言葉を言わせたのは、私に、そうした理由が必要だったからです。
痛みが起こった原因も、痛みが消えた原因も解らない。そんな不条理な現象に悩まされることがあってはならない。
他でもない、私がそう思いたかっただけのこと。あの子供の為ではない、私の為だ。……まだ、納得がいきませんか」

時計の短針と、冷房の音が響く。いつもならここに、少女の鉛筆を動かす音が加わる。
彼女は水彩色鉛筆で、この部屋の窓から見える風景を毎日のように描いていた。
海に落とされた緑や赤の色が、他でもない男のたった一言に感化されたものであると、しかし当人は気付いていない。
去年の冬から始めたスケッチは順調にその量を増やし、今では3冊目のスケッチブックとなっていた。

「いいえ」

徐にダークが紡いだ一言が、その静寂を裂く。

「その通りです、ゲーチス様」

話はどうやら終わったらしい。ジュペッタがその緊張をかき乱すかのように、ケタケタと笑い始めた。
男は本を手に取り、再び読み始める。ダークはココアとコーヒーを入れるために湯を用意する。先程の会話などなかったかのように、いつもの風景が訪れる。
もう直ぐやって来るであろう、少女を迎えるための空間が此処にはあった。

「呆れなさい。愚かなことだと、私を嘲笑えばいい」

「いいえ、ゲーチス様。笑ったりなどしません」

男が最後に吐いた言葉を、しかしダークは即座に否定する。
小さな足音を男は拾った気がした。しかし少女はまだ訪れない。

2013.6.13
2015.1.20(修正)

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