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「いいえ、笑ったりなどしません」

ジュペッタのダークさんの声が聞こえた。彼が手に取った本のページが、小さな音を立てて捲られた。
私の背後に立っていたダークさんは、私の口を塞いでいた手をそっと離した。
私はゆっくりと踵を返して廊下を歩いた。彼の病室から十分に遠ざかってから、私は両手でみっともなく目を擦った。
音もなく追いかけてきてくれたダークさんに、私は振り返り、紡いだ。

「これって、盗み聞きですよね」

「……では、私も共犯だな」

まるで悪気のなさそうに肩を竦める彼がおかしくて私は笑う。
そんな彼に、しかし私は聞いておかなければならないことがあった。

「どうして、二人の話を聞かせてくれたんですか?」

ゲーチスさんの指示でないことは明らかだった。彼等があのような質問をして、尚かつそれを私に聞かせてくれたその理由を、私は未だに計り兼ねていたのだ。
彼は明後日の方向に視線を逸らし、私の頭をぎこちなく撫でる。

「礼だ」

……これは、どのダークさんにも言えることだったのだが、彼等の言葉は簡潔で、しかしそれ故に鋭く私の心に突き刺さる。
その「礼」の正体に、私は気付いていた。誰よりもゲーチスさんを案じる彼等が私に「礼」をくれる意味を、私は正しく理解していた。
だからこそ、こんな冗談を言うことができたのだろう。

「いかりまんじゅうのお礼なら、私はいつも美味しいココアを貰っているじゃないですか」

本当に呆れた顔をした彼に「冗談です」と付け足して笑う。

「ダークさん、聞かせてくれてありがとう。私、彼に報いられるような人になれますか?」

「勿論だ」と紡いだ彼にも、報いられるような人になりたい。
そう口に出せば、しかし彼は即座に「その必要はない」と否定するだろうから、心の中で付け足すに留めておいた。
大丈夫だ、私はもう迷わない、迷える筈がない。

その日から数週間が経った。私達は今までと何ら変わりのない毎日を送っていた。
夏の暑さは相変わらず厳しいままだったが、その景色を描くための色鉛筆は段々と短くなっていった。
私は文具店に足を運び、ばら売りしている色鉛筆のコーナーへと向かい、青と緑の水彩色鉛筆を購入した。
「緑など何に使うのです」と呆れたように投げられた彼の言葉に、私は笑って返した。

「だって、海を青で描かなければいけない決まりなんてないって、ゲーチスさんが言ってくれたんですよ?」

「……」

「ゲーチスさんの目には、海は何色に見えていますか?」

私は買ったばかりの色鉛筆を掲げてそう尋ねた。
彼は僅かに目を泳がせ「青以外の何物でもないでしょう、海なのですから」と紡いだ。
その隣で、ジュペッタのダークさんが笑いを堪えていた。
『あのお方が見る海は、青以外の何色でもない。断言しよう』
以前、彼が言っていたことは正しかったのだ。しかし彼が何故そう断言したのか、何故その推測が当たっていたのかを、私が知ることはなかった。

そしてもう直ぐ秋を迎えようとしていた暑い夏の日、ゲーチスさんの病室に、イッシュから大勢の来客が訪れていた。

「あらゲーチス、まだ生きていたのね。ちょっと顔色がよくなった? 残念だわ」

「お前も相変わらずで安心しましたよ」

「あんたに安心されるとか虫唾が走るわ」

トウコ先輩は、部屋に入るなりゲーチスさんと言い合いになった。けれどそこには思っていたよりも憎悪の色が少ないような気がしていた。
アクロマさんにスケッチブックを見せてから、私はいつもより多くの飲み物を用意しに行ったダークさんを手伝うために追いかけた。

「要件は何です」

「そろそろ退院するんじゃないかと思ってね。行く当てがあるのかどうか、一応聞いておいてあげるわ」

「確かに退院は来週です、お前に心配される筋合いはありませんがね」

私はコーヒーの粉が入った瓶を落としそうになった。
退院?私は自分の耳に届いた言葉が信じられなくて立ち尽くす。怪訝そうな顔をしダークさんが、私の手から瓶をそっと奪い取った。
私はしばらく、ぽかんという音が聞こえそうな顔をしていたのだろう。ようやく立ち直って、彼に詰め寄る。

「ゲーチスさん、聞いていません!」

「つい先程、決まったのですよ。お前には言うつもりでしたが、珍客がごろごろといたものですから言いそびれました」

「珍客とは何だ、珍客とは」と、トウコ先輩がすかさず反論する。
彼はもう、大丈夫なのだろうか。確かに顔色は随分と良くなったし、幻肢痛の痛みに苦しむ姿も見なくなった。
その身体から覗く手足は相変わらず細いままだったけれど、それでも彼の赤い目には生気があった。生きることを選んだ者の光がそこにあると信じられた。
よかった、と思う。本当によかった。彼の命は繋ぎ止められたのだ。私は心から安堵していた。

「さて、ゲーチス。これからどうするの?」

トウコ先輩は満面の笑顔で彼に尋ねた。

「私としては、あんたには素敵な刑務所ライフを過ごしてほしいんだけど。
でもイッシュの奴らは、あんたが野望の為にプラズマ団を使役していたことを知らないわ。
あんたのしたことはあくまでも「ポケモンの解放」という思想が暴走した結果、って捉えられている」

「……」

「ねえ、シア。どうするの?」

彼女は私の方に振り向き、その美しい顔をこてんと傾げてみせた。
その決断を彼女が私に委ねる意味を、私は正しく理解しているつもりだった。

「あんたがこいつを生かしたんだから、最後まで面倒を見なさい」

私は即座に頷いた。

彼はキュレムに裁かれていたけれど、それだけではいけないことを私は知っていた。
彼が率いた組織のせいで、引き離された人やポケモンの痛みを考えるなら、このままにしておく訳にはいかない。
何よりプラズマ団のしていたことは、ポケモンの泥棒であり、ポケモンの誘拐だったのだから。
誰にも理不尽なことを働く権利はない。たとえそれが、理不尽を働かれた側の人間であったとしても。

「ゲーチスさん、一緒に考えましょう」

私は私が振りかざした正義において、彼のしたことを許すことはできない。
けれどそんな彼を、そのまま世間の叱責や糾弾の渦中に放り出すこともできなかった。何故なら私はこの人と、3つの季節を共有してきたからだ。

「どうすればいいか、私も考えます。だからお願い、逃げないでください。辛くても、苦しくても、生きてください」

「……」

「退院、おめでとうございます。元気になって、本当によかった」

それは心からの言葉だった。
彼は少しの沈黙の後で、僅かに肩を竦めてみせた。それは半年前なら絶対に見ることのできなかった仕草と表情を伴って私の視界に突き刺さった。
私は、返せたのかしら。彼から何もかもを奪った私は、その心を、その居場所を、彼に返すことができたのかしら。
きっとまだ、終わってなどいないのだろう。けれども彼の退院は、一つの大きな節目になるような気がしていた。

「祝いの言葉など不要ですよ。世話焼きな何処かの子供のせいなのですから」

相変わらずの、皮肉が込められたその言い方がおかしくて私は笑った。
アクロマさんがそっと歩み寄り、私の頭を撫でてくれた。ふわりと苺の紅茶の香りがした。

「……ねえ」

するとトウコ先輩が徐に口を開いた。その声のトーンの低さへの驚きは、私のものだけではなかったようで、全員が彼女に注目する。
彼女の顔はただドアの方を見つめていた。

「これでもあんたはシアを連れて帰りたいのね」

その言葉が終わると同時にドアが開いた。飛び出して来た紫色の身体は、確か妹の元にいた筈のポケモン。
その後に続いて姿を見せた彼は、その場で視線を泳がせ、その燃えるような赤い目で真っ直ぐに私を見据える。

2013.6.15
2015.1.21(修正)

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