39.5◆

シアは私を、責めなかった。

トウコ、キミがそんなに泣いてどうするんだい」

私は泣くために、Nを連れて2階へと上がった。Nは私の頭をぎこちなく撫でながら、困ったように笑ってそう紡いだ。
解っている。けれど透明な血が止まらなかった。でも、今なら泣くことも許される気がした。
私の涙は、Nにしか見せないと決めている。そして此処にはNしかいない。だからきっと、泣いていてもいいのだろう。

彼女を守るために私が彼女の記憶から消したことは、あまりにも多い。
アクロマのこと、ゲーチスのこと、プラズマ団のこと、シアの苦しみのこと。
私はあくまでも、彼女が平和にイッシュ地方を旅して、ポケモンリーグのチャンピオンになったのだと言い聞かせていた。彼女もそれを信じていたようだった。
それは私の、シアがこれ以上傷付かないようにという、私のエゴに過ぎなかった。シアが傷付くことを望んでいるかもしれないなんて、考えてもみなかった。
ただ、私が嫌だったのだ。これ以上、彼女が傷付くことが耐えられなかった。彼女が自身の選択によって苦しむ姿を、傍で見続けることがどうしてもできなかったのだ。

けれどシアは、記憶を全て失っていた筈のシアは、それを拒んだ。

夜中に時折、彼女は自分の鞄から二つのものを取り出して眺めていた。
一つは、あのスケッチブックだ。ゲーチスが入院していた病室の、大きな窓から見える海を、彼女は毎日のように描いていた。
「この絵を、私が描いたんですか?」と、彼女は信じられない様子だったけれど、その中に記憶の手掛かりがあるかもしれないからと、それを見ることを止めなかった。
その中には、ゲーチスの姿も描かれていたのだ。

彼女はそのスケッチブックを何度も読み返している筈なのに、その中の「緑の髪をした人物」について、私に尋ねることはしなかった。
彼女なりに、何かを察したのだろうか。あるいは私があの日、シアからスケッチブックを物凄い勢いで取り上げてしまったから、彼女は薄々、勘付いているのだろうか。
この人物が、自分にとって「思い出してはいけない」人物であることを。ゲーチスを思い出してほしくないと、私が願っていることを。

もう一つは、手紙だった。その内容を知らない私は、シアが外でポケモン達と遊んでいる時を見計らって、その手紙を盗み見てしまった。
それはアクロマが、シアに宛てた2通の手紙だった。彼女はこの手紙を旅が終わってからもずっと大事に、鞄の中に仕舞っていたのだ。

そして、その二つの情報……「アクロマ」と書かれた差出人と、スケッチブックに描かれた緑の髪の人物という情報から、彼女がどんな誤解をしたのかは想像に難くなかった。
彼女は全てを忘れた日から10日間、ずっとアクロマのことを「緑の髪をした背の高い男性」だと思っていたのだ。
そして、その「アクロマ」が自分に深く関わっていることにも気付いていた。だから彼女は、何も話そうとしない私の代わりに、他の人物に情報を求めていた。

「アクロマ」が「緑の髪」をしている。そんな誤解を更に助長させたのは、他でもないアクロマの吐いた大きすぎる「嘘」だった。
『わたくしの名前はゲーチスです』
あの嘘は、シアの中でアクロマの存在を完全に塗り替えてしまう一言だった。彼はその重みを知っていた。知っていたからこそ、相応の覚悟をもってその名前を紡いだのだ。
誰もが嘘を重ね過ぎていた。全ての嘘がシアを中心に回り始めていた。

シアはとても賢い子だった。けれど嘘が下手な、とても誠実で正直な子だった。
だから私は、解っていた。
シアが私の下手な隠し事に気付いていることも、彼女が何かを探っていることも、何度も何度もスケッチブックと手紙を見返していることも、全部、全部解っていた。
私の下手な隠し事や、アクロマのたった一つの大きすぎる嘘が、彼女を苦しめていることなど、知っていた。解っていたのだ。解っていながら、止められなかった。
彼女が再び傷付く道を選ぶことが、どうしても許せなかった。彼女が再び苦しむことが、怖くて堪らなかった。

これは私達の、彼女を苦しめまいとして重ね過ぎた嘘が招いた、最悪の結果だったのだ。

「どうして、私を責めないのかしら」

「……」

「だって私が、隠していたのに。シアの大切なものを私は全て奪い取って、あの子が触れられないようにしていたのに」

私達の重ね過ぎた嘘が彼女を混乱させ、過呼吸さえもを起こしてしまったというのに。

アクロマからそれを伝えられた時、目の前が真っ暗になった。
泣く時の嗚咽から誘発される過呼吸は、ストレスによるものだということくらいは、いくら文系の私だって知識として持っていた。
「思い出したいのに思い出せない」というその苦しい事実は、真綿のようにじわじわと彼女の首を締め上げていたのだ。
良かれと思って彼女の目を塞いでいた。けれどそれが最悪の形で裏目に出たのだ。私は自分のエゴによる選択に絶望し、自分を責めた。

トウコ、キミは悪くない。誰も、何も間違ってなんかいない」

「嘘よ、だって私が、」

「誰も悪くないんだ。シアもそれを解っている。誰もが誰もを想い過ぎた結果だと、カノジョも知っている。だからキミを責めなかったんだ」

Nのそんな言葉に私は驚いた。
私がこうして泣いている時、彼が宥めてくれるのはいつものことだったのだが、こうした人間に対する分析をしてみせることは滅多になかったのだ。

『不思議だね。ヒトの思いや意見はこうやって化学反応を起こすものなのか』
『ヒトは声に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だね』
彼は旅の途中で、そんなことを言っていた。ヒトを不思議だ、理解できないと言いながら、そのヒトの中に彼自身は含まれていなかった。
そんな彼に私は「同じでしょう?何も変わらないわ」と繰り返した。彼が私と彼との間に敷いた大きすぎる隔絶を、私は何とかして取り払いたいと必死だった。

そんな彼が、こうして交差する人の思いの本質を解き、私に「誰も悪くない」と言い聞かせている。
その姿は私に衝撃を与えた。彼はいつかもこうやって、私にとんでもないことを言ってのけた気がする。
『カレはシアを手放したくないんだよ』と、彼はシアでさえも気付いていなかったゲーチスの心を読み当てた。
あの時も私は驚いたけれど、その後でNは誇らしげに笑ったのだ。

『人の心を聞く方法は、トウコが教えてくれたよね?』

私が守っていると、支えていると思っていた相手は、いつの間にか大きく変わり始めていたのだ。
『私の世界は私とNとを中心に回っているのよ』
それは私の常套句だった。私はその言葉を皆に知らしめるように、時に自身に言い聞かせるようにそう紡いでいた。
私はその世界を、一人で守っている気になっていた。けれど、違った。私が守り支えたその相手に、私は守られ、支えられていた。

私が強いなんて嘘だったのだ。
一人で生きていけるなんて、誰にも頼らずに生きていけるなんて、そんなこと、ある筈がなかったのだ。

「ただ、トウコには悪いけれど、」

Nは思い出したようにそう付け足す。
何よ、と嗚咽混じりに尋ねると、彼は困ったように笑ってその言葉を紡いだ。

シアはきっと、また同じ道を選ぶと思うよ」

……解っている。解っていた。

私がどんなに真実を隠したとして、皆がどんなに嘘を重ねたとして、それでも彼女は全てを思い出すだろう。
思い出して、そして同じように傷付く道を選ぶのだろう。馬鹿な選択を繰り返して、その身に傷を増やしていくのだろう。
私には、それを止めることはできない。アクロマにだって無理だったのだ。彼女の愚行を止められる人間など、何処にもいない。

けれど、このまま彼女が再び愚行に走るのを許せる程、私は優しくも強くもなかった。
だからこれは、卑怯な時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
彼女が全てを忘れて、彼女が選んだ、彼女を苦しめる全てのものを忘れて平和に暮らせる時間が、少しでも長く続きますようにと祈っていたのだ。

「解っているわ、そんなこと。でも、私はあの子の「先輩」なの。あの子を大事に思う、我が儘な人間の一人に過ぎないの。
だからそんな私がシアの邪魔をしたとして、もうこれ以上馬鹿なことをしないでほしいと、彼女の意志に反してそう思っていたとして、それは別におかしなことじゃないわよね?」

私は同意を求めるようにそう紡いだ。
Nは「そうだね」と笑った。その手が広げられたので、私は声をあげて笑いながら彼の胸に飛び込んでみた。
彼の服が少しだけ透明な血で濡れたけれど、知ったことではなかった。

「よかった」

それは心からの言葉だった。
……おかしい。シアが何もかもを思い出さないことを、私は望んでいた筈なのに。
それなのに、彼女が全ての記憶をその目に宿して「トウコ先輩」と微笑んだ時、私はどうしようもなく安心したのだ。
思い出してほしくないと思っていた。けれど同時に、この一年半を忘れ去られてしまっていたというその事実は、確実に私の心を抉り取っていたのだ。

ようやく、彼女が戻ってきた。だからもう、いい。
彼女がまた、欲張りにも全てに手を伸ばしたとしても、その結果、彼女がまたあの時のように傷付き、苦しんだとしても、構わない。
私はシアの先輩だ。あの子をちゃんと支えてみせる。私にはそれができる。だって、私を支えてくれる人が、いつでも直ぐ傍にいてくれるから。
……男にしては細すぎるその手は少し、頼りないかもしれないけれど。

私は透明な血を乱暴に手で拭って、彼の長髪をくいと引っ張って笑う。

2015.2.23

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