40.5▽

1、Nの場合

シアが記憶を失っていた。彼女を愛する者たちが取った行動は各々で異なっていたけれど、全て彼女を思うが故の行動であったことは変わらない。

トウコは、シアの失われた記憶に驚き、狼狽し、しかし直ぐに頭を働かせ、彼女に「伝えてもいい記憶」と「伝えてはいけない記憶」の分類を始めた。
彼女はきっと、シアがこのまま全てを思い出さない場合のことも視野に入れていたのだろう。
アクロマのこと、ゲーチスのこと、ダークトリニティのこと、彼女が旅の途中でプラズマ団と戦ったこと。それらを彼女は全て隠した。
シアは去年の夏に、ポケモンを貰って旅立ち、そのまま順当に8つのジムを勝ち抜いてポケモンリーグに向かい、チャンピオンになった。
そんな、何事もない平和な冒険を彼女は造り上げた。シアはそれを信じ、かつて自分が体験したというその平和な冒険に思いを馳せた。

コトネやシルバーも、彼女の意向に従った。
どうしてシアがジョウト地方にいるのかについては、彼女達にも嘘を重ねて偽りの理由を作ってもらう必要があった。
そのための示し合わせはやはりトウコが主導となって行われた。コトネはその嘘に順応し、とても自然に嘘を重ねた。
シルバーは嘘が苦手だと言い、あまりシアと話をすることはしなかった。言ってはいけないことをうっかり零してしまいそうだからと、彼は困ったように笑っていた。

ダークトリニティがやって来た時も、トウコが「嘘」の情報を伝えた。
プラズマ団という名前は一切出さず、彼等のことを「旅の途中で知り合った人物」としてシアに紹介した。
彼等が何故、シアを探してジョウトまでやって来たのか。その理由は解っていた。
彼等はゲーチスを慕っていた。その彼が警察に出頭し、いなくなった今、彼が最も大切に思っていた人物に仕える為に彼女を探していたのだと容易に想像が付いた。
けれどそんなダークトリニティも、トウコの指示に従った。ただ一人、ジュペッタの従えたダークだけは、そんな中で真実をシアに告げようとしていたようである。

しかしそんなダークも、「ゲーチス」の登場によって、嘘を吐かなければならなくなってしまった。
彼はその名前を偽り、ゲーチスとしてシアの前に現れた。大き過ぎるその嘘にその場にいた全員が驚き、困惑した。
唯一、その名前を真実としたのは、彼の本当の名前を忘れてしまったシアだけだった。
トウコは勿論、彼の嘘に激昂した。けれど彼は譲ることをしないまま、ゲーチスと名乗り続けることを選んだ。
ダークはその嘘に辻妻を合わせるように、シアから尋ねられる「アクロマ」のことに、ゲーチスと彼女の過去を当て嵌めて話した。

しかし、各々がこうして重ね過ぎた嘘はいつか綻びを迎える。シアにはそれが解っていた。
そして彼女はその綻びを辿り、10日をかけて、その真実にようやく辿り着いたのだ。

これからどうなるのか、シアがどのような選択をするのかは確信をもって言うことはできない。
けれど彼女はとても賢くて勤勉で、それでいてとても欲張りな子だ。トウコは彼女のことをそんな風に表現していた。
そんな彼女がこれから取るであろう、誰もが望まなかったその行動に、きっと誰もが気付いている。そしてきっと、誰もがそれを止められない。

それをきっと、トウコは解っている。だからその目にはもう既に覚悟の色が宿されていた。
後輩である彼女を支えるのだという強い覚悟の色が、かつてNに向けられたのと同じ色が、そこにはあった。
『私は私のためにあんたと戦うけれど、そのついでにNのことだって救ってみせるわ』
イッシュのリュウラセンの塔、気丈にそう言い放って笑う彼女の姿が脳裏を掠めた。Nとトウコの旅からもう3年が過ぎていた。


2、コトネの場合

ほらね、やっぱりシアは全てを思い出した。

トウコちゃんが私達に「あの子に起きたことの一部を無かったことにして話したい」と言った時、実のところ、私は信じられなかった。
この、とても強くて素敵な私の親友は、あろうことか自分のエゴで、後輩であるシアの記憶を捻じ曲げようとしている。
私はそれを止めたかった。おそらくあの時、私の家にいた4人の人物の中で、それができるのは私しかいなかった。
シルバーは「お前がそれでいいなら」と、何の感情も示さずにトウコちゃんに賛成した。
Nさんは端からトウコちゃんの味方だ。私だって彼女の親友だけれど、それでもこれはやはりいけないことなのではないかと感じていた。

けれど、それを告げることはできなかった。その、今からとても狡いことをしてシアを騙そうとしている当人である彼女が、泣きそうな顔をしていたからだ。
彼女の、シアに対する報告はとても淡々としていて、私達への懇願も、とても理性的な、彼女らしいものだった。
だからその表情も、いつもの彼女らしく冷静なものであると思っていただけに、その顔は私を驚かせ、私から非難の言葉を奪った。
トウコちゃんのしていることがいけないことであると、私はずっと感じていた。私の良心は、最初からそう叫んでいた。
けれど私は、小さな人間だった。小さな人間である私は、シアよりも、トウコちゃんの方が大切だった。
だからこれ以上、彼女にそんな顔をしてほしくなかった。こうして私は、トウコちゃんが造り上げた嘘の共犯者となったのだ。

けれどその一方で、私は祈っていた。
どうか、シアが全てを思い出しますように。全てを思い出したとして、彼女がトウコちゃんを責めたりしませんように。

私は、シアにとって一人の第三者に過ぎなかった。第三者は、出しゃばってはいけないのだ。
だから私は、こっそりと「彼女」を見守り、祈り続けた。トウコちゃんもNさんも、アクロマさんもダークさんも、皆がシアのことを思っていた。
けれど私は、少しだけ違っていた。勿論、シアのことも思っていたけれど、それによって私の親友が傷付いてしまうことの方がずっと怖かったのだ。

だからあの日、私がお姉ちゃんに電話をかけたのも、きっとシアのためではなかったのだ。

私は小さな人間だった。だから小さな人間は、シアが全てを思い出すことを確信していた。
そして、小さな人間の小さな勘は当たった。後は彼等次第だ。私はただ、見守るだけ。頼ることが苦手なトウコちゃんの代わりに、助けを求めるだけ。
だって私は、こんなにも小さな人間なのだから。


3、アクロマの場合

『だから私は貴方の傍にいます。貴方が私を大切だと言ってくれたから、私は貴方を守ります。誰に何を言われようと、傍にいます。ずっと!』

その瞬間、少女の天秤は「彼」の方向へと傾き、二度と戻ることはないのだと思われていた。

出頭の申し出を受け入れたのも、ゲーチスの全てに従ったのも、全てそれ故の行動だった。
男が愛した一人の少女に植え付けられていたその天秤は、もう男の方には傾かない。
彼女の先輩曰く「愛の意味が解っていない」少女は、男に抱く想いとゲーチスに抱くそれとを混同し、その位置はいつの間にか逆転したのだと思われていた。
あの言葉は、その真実をはっきりと示しているのだと、そう思っていた。

だから、彼女が全てを忘れた時、男は咄嗟に別の名前を紡いだのだ。
此処にいるのは、ゲーチスではない。男はこうして戻って来たけれど、それは少女の望んだ人物ではない。
だから男は「ゲーチス」になることを選んだ。彼女が全てを忘れてくれたのは、むしろ好都合だったのではないかと思っていた。その方が、自分はゲーチスの代わりになりきれる。

しかし、男のその選択を、彼女の先輩は許さなかった。
彼女は泣きそうな目で男を睨み上げ、「シアが忘れたのはあんたの記憶だ」と、「他でもない、あんたがいなくなってしまったことがシアには耐えられなかったのだ」と告げた。
シアが想う相手は、あんたに出会った時からずっと変わっていなかったのよ、アクロマさん』
その言葉に男は驚き、狼狽した。しかしそれを真実だとするにはあまりにも根拠が薄弱であるように思われた。
何より、自分が吐いた大きすぎる嘘を、もうなかったことにすることはできなかった。
だから男は「アクロマ」を殺しておくことにした。

もし「アクロマ」が息を吹き返すようなことがあるとすれば、それは少女が全てを思い出し、真実がその目の前に掲げられた時なのだと、知っていた。

そして、その日は男が思っていたよりも早く訪れる。
聡明で勤勉な少女は、自らの周りに張り巡らされた嘘の違和感に気付いていた。記憶を取り戻し、真実が彼女の中に飛び込んできたその瞬間、少女は男を突き飛ばし、怒鳴った。

その天秤の針は、もう二度と男の方へと傾くことはないと思っていた。だが真実は、彼女だけが知っていた真実は、そうではなかった。
天秤は、ただの一度も動いたことなどなかったのだ。

男の愛したその少女は、その震えるメゾソプラノで次々と男が今まで立てていた観測を否定し、そんな推測をした男を責めた。
アクロマを殺した人物を彼女は許さなかった。ゲーチスに代わろうとした人物のことも、同様に決して許そうとはしなかった。
誰もゲーチスになることなどできないのだと、貴方だって同じなのだと、少女はその海の目で訴えた。

『誰も、貴方になることなんてできない。私が貴方と出会った瞬間を、奪い取れる人間なんて何処にもいない。私が好きになった人は、貴方の嘘で消えたりなんかしない』

少女が紡いだその言葉を、彼女の口から語られた真実を、きっと男は忘れることはないのだろう。
こうして彼等の思いは、あるべき場所へと戻って来たのだ。

2015.2.23

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