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「で、散々色んな事を嗅ぎ回っていたあんたは結局、何をきっかけに全てを思い出したの?」

……見抜かれている。
私はとても苦い顔をして、テーブルの向かいに足を組んで座り、楽しそうに微笑む彼女を見つめた。
この豪胆で強い先輩は全て、知っていたのだ。私が「アクロマさん」のことを知ろうと躍起になっていたこと、ゲーチスさんだった彼から私のことを話してもらっていたこと。
簡単に騙せるような相手ではないと解っていたけれど、こうも私の思考と行動が筒抜けであると不安になってしまう。
私の思考回路は余程、見抜かれやすい単純なものなのか、それともトウコ先輩が異様に強い洞察力を持っているのか。
せめて前者ではありませんように、と私は心の中でそっと祈った。

コトネさんの家のリビングには、多くの人が押し掛けていた。
椅子に座っているのは私とトウコ先輩、アクロマさん、そしてNさんとコトネさんだ。
ダークさん達は、ソファに並んで腰掛けている。シルバーさんは先程から、人数分のお茶を用意して配ってくれていた。
総勢9人の大所帯となってしまったこの空間に、コトネさんは「賑やかで楽しいね」と笑ってくれた。
トウコ先輩の知り合いであるとはいえ、それまで全く面識のなかった私を10日間、家に置いてくれた彼女には頭が上がらない。

「アクロマさんが、紅茶の茶葉が入った缶を持っていたんです」

その言葉に、私の隣に座っていた彼が、白衣のポケットからその缶を取り出した。蓋を開けて、テーブルの上を滑らせるようにトウコ先輩の方へと渡す。
風に吹かれてその中身の殆どは空へと飛んでいってしまったけれど、その甘い芳香はまだその缶に残っていた。
彼女は缶の端に僅かに残っていた茶葉を摘まみ、顔に近付けてから驚きにその目を見開く。

「うわ、苺だ。アクロマさん、こんな甘い紅茶を飲んでいるの?」

トウコさん、甘い香りがするからといって、紅茶まで甘いとは限らないんですよ」

最初に苺の紅茶を飲んだ私と同じ勘違いをしているトウコ先輩に、私とアクロマさんは顔を見合わせて思わず笑った。
そう、彼はあの春の雨の日に私を、あのプレハブ小屋へと招き入れてくれた。服がエアコンの乾いた風により乾いて来た頃に、彼はこの紅茶を出してくれた。
その甘い香りにもかかわらず、とても薄くて繊細な味に私は驚き、当惑した。そんな私に、彼は魔法をかけてくれた。
それは「角砂糖」という魔法だった。甘い飲み物になった紅茶を、私の脳は「苺のホットジュース」だと錯覚した。その不思議な現象を説明され、私の胸は高鳴った。

あの時の、一気に開けた世界に眩暈がするような感覚を、私はちゃんと、覚えている。
どうして、忘れてしまえていたのかが不思議な程に、記憶が戻ってきた私の頭は鮮明にそれらを覚えていた。
紅茶だけではない。一つの季節が過ぎる間、あのプレハブ小屋で一緒に過ごしたこと。旅に出ている間、頻繁に手紙を送っていたこと。彼と、あの大きな鉄の船の中で戦ったこと。
いつだって、私を支えてくれたこと。私の涙を拭ってくれたこと。
その全てを覚えている。もう、忘れない。忘れられる筈がない。

「でも、不思議だね」

トウコ先輩の隣に座っていたコトネさんが、その缶を手に取り、首を傾げる。

「きっと、この苺の香りは、シアにとって特別なものだったんだよね。それは解るの。
でも、それまでにもシアは、連れていたポケモン達やアクロマさんに出会ったりしていたじゃない? スケッチブックも、手紙だって手元にあったんでしょう?
どうして、その時に思い出せなかったのかな。苺の香りじゃないと駄目な理由があったのかな」

……確かにそうだ。
私は与えられた情報の中で、時折世界の開ける感覚を味わうことがあった。無くした一年半の記憶の一部分が、そっと降りて来るような感覚。
それは確かに、皆の会話や名前の響きの中に隠れていた。私はそれらを拾い集めて、断片的な記憶を覚束ないままに組み立てていた。
その苺の香りだって、その中の一つにすぎない筈だった。にもかかわらず、その苺の香りは、それ以上の記憶を私の中に運んできたのだ。
それこそ、一気に霧が晴れるように。喉元を燻っていた違和感が、息苦しさが、一瞬にして弾けて消えてしまったかのように。

「苺の香りでなければならなかった理由は、わたしも解りません。しかし「香り」でなければならなかった理由の説明なら、できるかもしれませんね」

アクロマさんはそう言って、白衣の内ポケットから折り畳み式のタブレットを取り出した。
このタブレットに彼は図を描いて、色んなことを教えてくれた。私は目を輝かせて彼の説明に聞き入っていた。あの日々から、もう一年と半年が経とうとしているのだ。
折り畳まれたタブレットが開く様子に、コトネさんとシルバーさんは驚いて声をあげた。トウコ先輩はそれを恨めしそうに見て、「派手なタブレットね」と感想を零した。
彼はペンを取り出して、そこに人間の脳らしき図を描き込んでいった。

「人間の脳はこのようになっていますが、感情の処理をする部位は此処にあります。
これに対して、匂いの感覚は此処に送られるのですが、その際、この「感情を司る部位」を経由することが判っています」

「視覚や聴覚じゃ、駄目なんですか?」

私は思わず口を挟んでしまった。彼は「いい質問ですね」と微笑んでから、説明を付け足してくれた。
タブレットに視覚、聴覚、味覚、触覚などを記入して、それらが処理されるルートを書き込んでくれた。

「視覚や聴覚といった他の感覚は、処理される時、この部位を通らず別のルートで運ばれるのです。
実験の結果、嗅覚によって思い起こされる記憶がより「感情」と連動したものであると同時に、他のどんな感覚から思い起こした記憶よりも正確で強力だということも判っています」

「成る程……」

「プルースト現象、という言葉を聞いたことがありませんか?
香りと記憶、しかも感情をより大きく揺り動かすような「情動的な記憶」が密接に関連しているのは、こうした脳の仕組みによるものだとされているのです」

シルバーさんは興味深そうに相槌を打っていたけれど、トウコ先輩はかなり最初の段階で、聞くことを放棄していた。
Nさんはそんな彼女に呆れ、コトネさんは私の方を見て「なんだか難しいね」と言って笑った。
私は、久し振りのアクロマさんの説明に胸を躍らせていた。この、一気に開けた世界に眩暈がするような感覚。私はこの瞬間が大好きだった。

香りにより引き出された記憶が最も正確で情動的である、という彼の説明には思い当たる部分があった。
確かに私は、誰かから聞いた言葉や自分が見たもので、自分の記憶を思い出すことがあった。
けれどそのどれもが、上手く言えないけれどぼんやりしていて、「真実だ」と確信を持てるまでにかなりの時間がかかった。
この苺の香りが運んできてくれた記憶は、とても強くて、確かなものだった。人間の脳には不思議な現象が詰まりすぎている。私はそんな風に思いながらただ、感心していた。

「まあ、いいじゃない。取り敢えずシアが全てを思い出してくれたんだから、もう何も焦ることはないわ。今日はもう解散!ゆっくり休もうじゃないの」

トウコ先輩は両手で手を叩いて、直ぐに立ち上がった。私は思わず「待ってください」と彼女を引き留めていた。
何?と私の方を見た彼女は、しかし私の言いたいことなど解っているのだろう。その目には覚悟の色が映っていた。だから私も、躊躇わなかった。

「ゲーチスさんは、無事なんですか?」

その言葉に、隣に座っていたアクロマさんが小さく息を飲んだような気がした。
私は知らなければならない。それが私にとってどんなに苦しいことであるとしても、今度こそ逃げずに向き合わなければならない。
苦しんでもいい、傷付いてもいい。けれど絶対に、逃げてはいけない。私は誓ったのだ。彼等を居場所と心を奪った責任を取ると。彼に、寄り添うのだと。

トウコ先輩はただ静かに、肩をそっと竦めて笑った。しかし私の質問に答えをくれたのは彼女ではなかった。
彼女の言葉を引き取ったかのように、その隣に座っていたコトネさんが口を開いたのだ。

「ゲーチスさんはね、アクロマさんと一緒に出頭しているの。国際警察のイッシュ支部、だっけ?」

「え……」

思いもしなかったその情報に、私の頭は思考を止めて固まってしまった。
出頭?ゲーチスさんと、アクロマさんが?どうして、今、この時期に?どうして、誰にも告げずにそんなことを?一体、何のために?
次々と湧き上がる疑問は、言葉にならずに頭の中をぐるぐると回っていた。
それに、ゲーチスさんだけではなく、アクロマさんまでもが一緒に出頭していたのだとしたら、それならどうして、彼は今、此処にいるのだろう?
不安に青ざめた私の顔を見て、トウコ先輩は困ったように笑った。

「詳しい話は明日、ちゃんとするから。しばらくろくに眠れていないのよ、少し休ませてね」

そう言った彼女の目には深い隈が彫られていた。
ごめんなさい、と言いそうになった私の口を彼女は乱暴に塞ぎ、いつものように気丈に笑ってみせた。

「はいはい、もういいから。私があんたを心配するのは、別にあんたに非があるからじゃないわ。私があんたを放っておけないからなの。だから、謝罪なんていらないのよ」

彼女はNさんの手を引いて2階へと上がっていった。
解らないことが多すぎる中で、けれど一つだけ確かな真実があった。

「ゲーチスさんは、生きているんですね。よかった」

泣きそうになりながら、それだけ紡いで微笑むと、階段に足を掛けようとしていたNさんが振り返って私に告げた。

「当然だよ、シア。カレがキミを置いて死ぬ筈がない。死んでしまえる筈がない」

2015.2.22

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