38

ずっと、息苦しさを抱えて過ごしていた。

何も思い出せない自分が悔しくて、真実に辿り着けない自分が歯痒くて、私を傷付けないためだと解っていても、彼等が何も教えてくれないことが悲しくて、泣いていた。
きっと、誰も、何も間違っていない。私は守られていたのだ。嘘という名の鎧を何重にも着せられて、決して傷付かないようにと守ってくれていた。

けれど、各々が重ね過ぎた嘘はいつか綻びを迎える。その綻びを見つけることも、その綻びの原点を辿ることも、容易い。
けれど、その綻びを紐解いて、真実を見つけ出すことはとても、難しい。
私はずっと、辿り着けなかった。辿り着けないまま、思い出せないまま、新しく上書きされる記憶を大事に抱えて、この数日間を過ごしてきた。

「……」

今なら、その全てを紐解くことができる。
トウコ先輩が私に話さず、隠していたその内容も、明らかに矛盾のあるダークさんの言葉を、彼自身が「一つの嘘も言っていない」としたその真意も、
この人が吐いたと告白してくれた「たった一つの嘘」の正体も、全て、全て解っている。

吸い過ぎていた息は、ぴたりと収まっていた。そのことに「彼」は驚いたようにその太陽の目を見開き、少しだけ、怪訝な表情をしてみせる。
喉元をせり上がるようにして駆けてきた衝動に従うことにした私は、あろうことかこの優しい人をあらん限りの力で再び突き飛ばすという選択を取った。
彼は小さく声をあげて、砂浜に倒れ込む。いつの間に取り上げたのか、その手には私が「彼」に宛てた手紙がしっかりと握られている。
今ならもう、その手紙の内容を諳んじることだってできる。何度も、何度も書いては読み直した旅の記録だ。忘れない。忘れてしまえる筈がない。
忘れる筈が、なかったのに。

「貴方はゲーチスさんじゃない」

その声は、自分の口から零れ出たとは思えない程に低く、抑揚のない声音で紡がれていた。
私は上半身を起こした彼の両肩を、爪が食い込むかと思う程の強さで掴んだ。

「あの人は、ゲーチスさんは、私のことを「シアさん」なんて呼んだりしない! 私に手紙を書いたりしない! 紅茶を飲んでいるところなんて見たことがない! あの人は……」

シアさん、」

「あの人は、両腕で私のことを抱き締めたりしない! できるはずがない!」

私は「彼」に縋り付いた。その胸を握り締めた手で何度も、何度も叩いた。
「彼」は止めなかった。言葉を失ったまま、私の行動を咎めることも制止することもしなかった。
だから私は、言葉を投げ続けた。

「私はあの人に「夢十夜」の話なんかしたことがない。あの人のサザンドラに一緒に乗ったことなんかない。あの人に本を借りたことなんか一度もない!」

次から次へと溢れる言葉を、私はどうしても止められなかった。

「どうしてゲーチスさんになれると思ったんですか? 誠実な貴方が、辻褄の合った嘘を吐き続けられる筈がないのに、どうしてそんなことをしたんですか?」

私は何に怒っているのだろう。何が許せないのだろう。
きっとそれは「彼」でも、トウコ先輩でも、ダークさんでもない。ましてやゲーチスさんでもない。
きっと、私は私のことが許せないのだ。私の欲張りの代償に皆を巻き込んでしまったことがどうしても許せないのだ。
そんな、欲張りの代償として失った記憶を守るために、私の大切な人に大きすぎる嘘を重ねさせたことが悲しいのだ。それを受け入れたくなくて、みっともなく喚いているのだ。

「私を支えるためにはゲーチスさんとして振舞うしかないなんて、本気でそんなことを思っていたんですか、アクロマさん!」

つまりはそういうことだったのだ。
トウコ先輩が私に、アクロマさんやゲーチスさん、プラズマ団のことを伏せて話したのは、私がまた「欲張り」になって、同じ過ちを繰り返さないようにするためで、
ダークさんが「アクロマさん」の名前にゲーチスさんの記憶を当て嵌めたのは、訂正しそびれた「アクロマさん」の容姿と、その直後のアクロマさんの嘘に辻褄を合わせるためで、
アクロマさんが吐いた嘘とは、彼自身の「名前」のことだったのであって、
彼等にそんな嘘と隠し事を重ねさせたのは、紛れもなく、このタイミングで記憶を失ってしまった私への最大の配慮なのであって、すなわち、

これは紛れもなく、欲張りな私が招いた最悪の結果だったのだ。

「……」

そして私は、息を飲む。
今度は、逆だった。以前は泣き出した彼に釣られるようにして、私の涙が止まらなくなってしまったけれど、今度は彼の方がその金色の目を不安定に揺らしていた。

「ごめんなさい」

弱々しく紡がれたそのテノールは私のものではなかった。私の十八番である筈の謝罪を彼は引き取り、許しを請うように紡いでいる。
今にも泣きだしそうな彼を、私は一度、見たことがあった。あれは旅立つ前、彼が自分の過去を話してくれた時に、彼は何も言わずに私を強く抱き締めたのだ。
あの時と同じ目をした彼が、此処にいる。彼はもう、ゲーチスさんではない。彼はもうこれ以上、嘘を重ねない。

「貴方をここまで追い詰めたのはわたしです。貴方のせいではありません。わたしは貴方を止められなかった。貴方を守れなかった。
……わたしは、貴方と出会わなかった方がよかったのかもしれない」

「!」

「あの日、わたしが貴方と出会わなければ、貴方に傘を差し出さなければ……!」

その言葉に私は右手を思いっきり振りかぶった。彼はその揺れる目を驚きに見開く。
今にも零れ落ちそうではあったけれど、彼のその太陽が泣くことはもう、なかった。

「やめて、……やめてください、アクロマさん。これ以上、私の時間を侮辱しないでください。私の大切な人を傷付けないでください」

私の手は震えていた。その気迫に彼は呆気に取られたように沈黙した。

「貴方はゲーチスさんになんかなれない。他の誰も、ゲーチスさんになることなんてできない。そして、それは貴方だって同じです」

それは紛れもない私の懇願だった。
お願いだから、そんなことを言わないでほしい。これ以上、その言葉で貴方のことを否定しないでほしい。
あの春に重ねた時間を否定しないでほしい。何通も送った手紙を、あの傘を、なかったことにしないでほしい。
私が取り上げられていた1年半の記憶にずっといた貴方のことを、大好きな、かけがえのない貴方のことを、これ以上軽んじないでほしい。


「誰も、貴方になることなんてできない。私と貴方の時間を奪い取れる人間なんて何処にもいない。私が好きになった人は、貴方の嘘で消えたりなんかしない」


二つの太陽が私を見ていた。
寄せては返す波が、その静けさをそっと破いてくれた。どれくらいその波の音を聞いていたのか解らなくなる程の長い時間の後で、彼は突然、力が抜けたように笑った。
そこに安堵の色を見た私は、疑問に思った。私はあろうことか暴力という手段を用いて彼を脅迫しているのに、どうして彼は笑っているのだろう。

「貴方はもう、ちゃんと「シアさん」ですね。あの春の雨の日に私に縋り、苺の紅茶に目を輝かせた貴方がようやく帰ってきた」

私は、彼にこれ以上ない程の大きな嘘を吐かせて、この一週間、ずっと彼を苦しめてきた筈だ。
それなのに、どうして彼はそんな私を笑って許してくれるのだろう。

「おかえりなさい、シアさん」

どうして、そんなことを言ってくれるのだろう。
その優しい人に、ただいまと紡ぐことはできなかった。私は彼の腕に縋って、みっともなく嗚咽を零す他になかったのだ。

私は間違っていたのだろうか。私の欲張りな選択は、誰かを苦しめるものでしかなかったのだろうか。
誰かが必ず苦しまなけらばならないようになっている、この理不尽な世界に、私は屈するしかなかったのだろうか。

そんなことはないと、心が悲鳴を上げていた。けれどその信念に従って欲張りになった結果、私はその「誰も」の苦しみを取り払うどころか、私の大切な「誰か」に大きな苦しみを負わせてしまっていた。
大切なもののためなら、他のものがどうなってもいいとは私は思えない。私はトウコ先輩のように、その全てを見限ることはできない。
けれど他の大勢のために、私の大切な人が傷付くことはこれ以上、もう二度とあってはならない。

私は何処へ向かえばいいのだろう。

「さて、シアさん。皆さんに挨拶をしなければなりませんね」

彼は困ったように笑って、私の後ろを指差した。振り返ると、コトネさんの家からトウコ先輩が飛び出し、こちらへと駆けて来るところだった。
あまりにも大きな声で喚いていたため、その騒ぎは家の中にまで聞こえていたらしい。
少しだけ恥ずかしくなって、私は涙でみっともなく濡れた頬を染めた。彼は小さく笑いながら、白い手袋を嵌めた手で私の頬をそっと拭った。
空になった茶葉の缶から、あの日を思い出させる苺の香りがした。

2015.2.22

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