彼は驚く程に強い力で私の腕を掴み、そっと手紙を取り上げた。
まるで先程の食器を扱うような繊細さと丁寧さで、私の手から宝物のようにそれが奪い取られた。
恐ろしい程の強い目眩が私を襲おうとしていて、何とか立っていようとして、彼の金色の目を縋るように見上げた。
「どうして、「アクロマさん」への手紙を、貴方が持っているんですか?」
「……」
「もう一度だけ、見せてください。お願いします……!」
ぐらりと視界の膜が揺れた。みっともなく泣きながらの懇願に、彼は長い沈黙の後で私の頬へと手を伸べた。白い布の手袋は、私の涙を吸って僅かに色を変えた。
けれど今、思考を放棄してしまう訳にはいかなかった。きっとあの手紙には、私が「アクロマさん」に宛てた手紙には、真実が書かれている。
私がずっと探し求めてきた真実が、その白い紙の上に綴られている。だから、ここで涙に溺れる訳にはいかない。みっともなくても、狡くても、求めなければ。
彼のもう片方の、手紙を持っている方の手は震えていた。彼はその手を私に差し出した。
私は迷わず受け取り、一番上にあった手紙を読もうとした。
しかし、読むまでもなかった。これは私が宛てた手紙、私が書いた手紙なのだから。私はその内容を覚えていた。思い出せていた。
『手紙を書いてください。どんな些細なことでも構いません。何処にいるのか、どのような人と出会い、どのようなポケモンとバトルをしたのか。一行でも、一言でもいい。
もし何か伝えたいことができたら、この住所に送ってください』
私が旅立つ前にかけてくれた、彼のその言葉を覚えている。忘れない、忘れる筈がない。私はどうしようもなく嬉しかったのだ。
旅に出ることで、この人との繋がりが完全に切れてしまうものだと思っていた。けれど、そうではなかった。彼は手紙と言う手段で、私が連絡を取ることを許してくれた。
そして彼も、仕事の合間を利用して、私に手紙を送ってくれたのだ。私の中に入っていたあの2通の手紙は、確かに真実を示していたのだ。
『私は今まで、そうした存在を持つことは、とても幸せなことだと思っていました。
しかしそれは、必ずしも幸福なことばかりではないのだと、私はこの旅で知りました。
かけがえのない存在だからこそ、その存在が脅かされた時、彼等は盲目となります。それは凄まじい憤りを引き起こす火種にもなり得ます。
大切だという思いが過ぎて、それが彼等の足枷となっているようにも感じられました。
けれど、それでも彼等はかけがえのない存在を想うことを止めません。自らが怒り、傷付き、苦しんでも、それでも彼等は大切だと紡ぐのです。
だからこそ、その思いは素敵な輝きと温かさを持っているのだと、私は思います』
『P.S. アクロマさんは、かけがえのない誰かに出会ったことがありますか?』
覚えている。私はこの手紙を覚えている。
ポストに投函する直前の心臓の高鳴りも、彼への文字を綴る時のあの高揚感も、時折返ってくる手紙に刻まれた「届いていますよ」という言葉への安堵も、全て、全て覚えている。
全ての手紙に、私の旅の記録が詰まっている。毎日の些細なこと、新しく出会った人やポケモンのこと、彼等とのバトルのこと、新しく訪れた場所のこと。
何一つ書き落とすことなく、その全てを伝えたくて、夢中でペンを動かしていた。
「彼」に、私の旅の記録を伝えるために。
けれど、違う。……違う。
この、目の前で私に、私が「アクロマさん」に宛てて書いた手紙を差し出したのは、「アクロマさん」ではない。
「アクロマさん」は、緑の髪に赤い目をしている筈なのだ。この人は、違う。この人は「アクロマさん」ではあり得ない。
それなのに、どうして私の記憶には目の前の彼が焼き付いているのだろう。どうして、……どうして。
だって、彼が「アクロマさん」である筈がないのだ。
私は「アクロマさん」の首を絞めた覚えなどない。そんなことは絶対にしない。それなのに。
「どうして?」
私は涙を拭おうとしてくれた彼を突き飛ばした。思わぬ衝撃に彼はぐらりと揺れたが、倒れることはしなかった。
ただ驚きにその太陽の目を見開いている。その目は驚きと恐怖と不安に揺らいでいる。
「だって貴方は「アクロマさん」じゃないんでしょう? 貴方はゲーチスさんなんでしょう?」
私はそんな彼に言葉を投げ続けた。止まらなかった。
だって、誰も真実を話してはくれない。だから私一人で暗闇を探っていた。そしてようやく辿り着いた真実は、この優しい人の存在を否定していた。
こんな苦しいことがあるだろうか。こんな悲しいことがあっていいのだろうか。
「私は貴方の首を絞めたんでしょう? ゲーチスさん!」
彼はその言葉に、その場に縫い付けられたように動かなくなった。私はそのまま泣き続けた。
私が思い出した全ての記憶が、手紙に書かれた全ての情報が、この人が「アクロマさん」であると告げている。
仮にこの人が「アクロマさん」であったなら、全てに辻褄が合うのだ。
彼が「旅立つ前」の私の様子を細かく知っていたことも、私がロトムのタマゴを受け取ったことも、彼と手紙のやり取りをしたことも、紅茶を一緒に飲んだことも、全て。
それなのに、この人は「アクロマさん」ではない。では、彼は何処へ行ってしまったのだろう。
そして、ジュペッタのダークさんが私に教えてくれた方の「アクロマさん」も嘘ではないのだとすれば、どちらの彼が正しいのだろう。
もし、どちらの彼も正しい「アクロマさん」の姿なのだとして、それならば、「ゲーチスさん」は何処にいるのだろう。
私の真実は何処にあるのだろう。
「!」
すると、目の前に彼の気配があった。彼は白い手袋で私の口元をそっと抑えていた。
また、私は息を吸いすぎようとしていたのだろうか。彼はそれを止めようとしてくれたのだろうか。
でも、足りないのだ。いくら息を吸っても、過呼吸が収まっても、息苦しさは何処へも行ってはくれない。
ずっと、苦しかったのだ。それが表面に現れただけのことで、私はずっと、息苦しかった。
世界を見られない自分が悔しくて、思い出せない自分が悔しくて、私はずっと息を止めるように生きていた。
もう、耐えられない。
「シアさん、落ち着いて。また苦しくなってしまいます」
違う、と私は震える体を僅かに動かして否定の意を示した。
確かに過呼吸は私の心臓を握り潰さんばかりの痛みを私に突き付けていた。いくら吸っても苦しいままであるこの現象を私は恐れていた。
けれど、それだけだ。この過呼吸が収まっても何も変わらない。私の息苦しさは、この心臓の痛みがもたらすものではない。ああ、どうして、
どうして、この人が「アクロマさん」ではないのだろう。
「ほら、これで口を塞いでください」
彼はそう言って、不自然に膨らんだ白衣のポケットへと手を入れて、灰色のハンカチを取り出した。
そのハンカチと一緒に、平らな丸い金属の缶がポケットから零れ出た。
それはスローモーションのように空気を切り裂いて、砂浜の上へと落ちた。その衝撃で缶の蓋が開き、中身が少しだけ砂浜に零れた。
深い緑を更に濁したような、暗い色のそれはとても軽いようで、吹いてきた風がそれを勢いよく空へと舞い上げた。
苺の、香りが、した。
『世の中には、その人に「かけがえのない存在」を見出している訳ではないにもかかわらず、その人に手を貸したい、その人を支えたいとする複雑な思いが確かにあるのですよ。
そしてシアさん、貴方はそうした思いを抱く傾向が強いようだ』
『ですから貴方は、貴方の正義をもってしてわたしと戦いなさい。そしてわたしに、こんなひどく屈折した正義は間違っていると、どうか知らしめてください』
『シアさん、貴方は何も解っていない!貴方が大切だと思う人物の数だけ、貴方も同じように思われているのだと、どうして気付かないのですか』
『なんと愚かなことだ。こんな子供に絆されるとは』
『お前にこの痛みが解るものか、この苦しみが解るものか!何もかも悟ったような顔をして、挙げ句、私を侮辱するのか。
私の苦しみを背負うなどと軽々しく口にするな。簡単に解ったような口をきくな』
『……馬鹿な子だ』
『だって私が知りたいと思ったのは貴方だから。私が好きになったのは貴方だから』
『手を、殺いでください』
『シアさん、貴方の目は海の色をしているんですね』
海の、音が、聞こえた。
2015.2.22