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「最近、あいつと仲が良いのね」

トウコ先輩は夕食の席で、そんなことを言った。
5人分の春巻きを揚げ、更には麻婆豆腐まで作ったシルバーさんの料理の腕には恐れ入る。野菜サラダはコトネさんが用意してくれたらしい。
「そろそろ揚げ物くらい覚えろよ」とシルバーさんが文句を言っていたけれど、彼は料理の分担以前に、コトネさんと同じキッチンに立つことを楽しんでいるようだった。

「あいつって、誰のことですか?」

「誰って、その……ゲーチスよ。研究所で仕事を貰ってあくせく働いている、あの科学者」

彼女は憎き宿敵の名前を紡ぐかのように、トーンの低い声音でその人物を私に告げた。彼女はゲーチスさんのことが嫌いなのだろうか。
私はその問いに頷いたけれど、その一瞬だけ、場の空気が僅かに捻れた気がした。
彼等が「ゲーチスさん」という名前を口に出す時、一様にこの違和感があるのだ。私はその違和感に気付いていたけれど、それが何を意味するのかはやはり解らなかった。

「ねえ、シア。彼のことが好き?」

コトネさんにそんなことを尋ねられ、私は驚く。シルバーさんが「いきなりそんなことを聞くな、驚いているじゃないか」と彼女を咎めた。
けれど私は特に気にする素振りを見せず、何の抵抗もなく肯定の意を示した。

「話を、してくれるんです。私のつまらない質問にも、丁寧に答えてくれます。私は思い出せないことで彼を傷付けた筈なのに、それでも彼は私を許してくれる」

「……」

「好きです。尊敬しているし、憧れてもいます。
コトネさんとシルバーさんや、トウコ先輩とNさんが互いに持っている感情とは少し違っているかもしれないけれど、彼のことは、大好きです」

それは私の真実だった。どんな情報より、どんな記憶より、その感情は信頼性と確実性を帯びていた。
私は彼が好きだ。そして、私は彼が好きだった。きっと誰よりも、何よりも。
けれど、違う。私に手紙をくれた人物は、彼ではない。彼は「アクロマさん」ではない。そして私はあろうことか、そんな優しい彼の首を絞めようとしていた。
彼への想いが形を取り、真実になればなる程に、それ故の悔しさも増していった。彼は「アクロマさん」ではない。私は彼を、過去に傷付けていた。
その事実は揺らがなかった。私はコトネさんやトウコ先輩に冷やかされながら、少しだけ困ったように微笑んだ。

「今」の真実が形を持てば持つ程に、私は「過去」に対する執着を手放す筈だった。けれど彼の首に手を掛けた記憶が、それを許さなかった。
私が過去を忘れてから、明日で10日が経とうとしていた。

次の日の昼、ゲーチスさんは四角い黒の鞄を持って、研究所で本を読んでいる私の元へとやって来た。
何が入っているんですか?としきりに尋ねる私を華麗な話術で交わし、彼と私はいつもの浜辺には入らず、その浜辺を眺められる芝生の上へと腰を下ろした。

「風で砂がこの中に入ってしまうかもしれませんから」と彼は困ったように笑ってそう言った。そしてその黒い鞄を、私と彼との間にそっと置いた。
合皮のような肌触りで出来ている、小さめのトランクのような鞄だ。トランペットをこれに似た黒い鞄に入れて持ち歩く人を見たことがある気がする。
なかなかそれを開けようとはしてくれない彼を、期待を込めた目で見上げるが、彼は「どうぞ」と私にそれを開けさせてくれようとした。

「私が開けてもいいんですか?」

「おや、昨日の約束をお忘れですか?ティーセットを持って来ると、お伝えした筈ですよ」

質問に質問で返され、私はようやくこの上品な黒い箱の中身に思い至る。
ティーセットって、こんな風に収納されているんだ。私はその立派な箱をまじまじと見つめた。
確かに持ち手が付いているため、私は鞄だと思ってしまったが、ティーセットを入れておくための箱だと言われれば納得できてしまう、そんな上品さと高級感があった。

私は小さく息を吸って、その黒い箱をそっと開けた。

「わあ……!」

そこには十数点はありそうな白い食器の数々が、柔らかな光沢のある布に埋まるようにして綺麗に並んでいた。
何の模様も描かれていない、白いお皿。持ち手に小さく剣のマークが入ったスプーン。側面が波のように緩やかな凹凸を刻んでいるティーカップ。
ティーセットと言うからには、その陶器の側面やソーサーの縁に鮮やかな模様が描かれているものを想像していたので、その眩しい白で統一された食器に私は驚いた。

「これは「マイセン」という、遠い地方から輸入した食器だそうです。
私が学生時代、紅茶を飲み始めた頃に見つけたのですが、とても高価なものだったので、無地のものにしか手が出なかったのですよ」

高価なもの、と聞いて、私は慌ててティーカップに伸ばしかけた手を引っ込めた。
そんな彼の学生時代の思い出の品を、しかもとても高価なものだというそれを、私がもし不注意で割ってしまったら大変だ。
しかし彼はそんな私の行動に声をあげて笑いながら、ティーカップの一つを取り上げて私に持たせてくれた。

「いいんですよ、貴方だってこのカップで一緒に紅茶を飲んでいたのですから」

「え、私が?」

信じられない!私は慌てて首を振った。
紅茶なんて、飲んだことがない。だって私は子供だ。紅茶を飲む機会など、あった筈がない。
けれどこの人なら、飲ませてくれたのだろうか。自分が紅茶を飲むのと同じ感覚で、私にもそれを勧めてくれたのだろうか。
仮にそうだとして、私は紅茶という飲み物を飲めたのだろうか。

「紅茶はまだ12歳の貴方にとって、少し物足りない味だったかもしれませんね。ですからわたしは、魔法をかけたのですよ」

彼は不思議な言い回しをした。
常に論理的で丁寧な説明で、私の質問に答えてくれた彼が、「魔法」という言葉を使って現実から飛躍しすぎた結論を私に示したのは初めてのことだった。
彼はその大きな箱から、丸い筒のような陶器の入れ物を取り出した。彼がその蓋を指で押さえてから軽く振ると、中でカラカラと心地よい音がする。私は息を飲んだ。

角砂糖の、音だ。

『ではシアさん。わたしは紅茶をストレートで飲みますが、貴方もそれで良いのですね?』
『紅茶はその香りを楽しむものですから。飲むのは初めてでしたか?』
『気が付かなくて申し訳ありませんでした。貴方のような方と接する機会がわたしにはないものですから』

「あ……」

一気に脳を埋め尽くしたその記憶は、私の心臓を大きく揺らした。
確かに、私は紅茶を飲んでいた。味がしないと呟いた私に、彼はこの陶器から角砂糖を取り出して、私の分の紅茶に一つだけ入れてくれた。
彼は紅茶をストレートで飲めない私に、オレンジジュースを出すことはしなかった。いつだって、彼が飲んでいるものと同じものを出してくれた。
私はそれがどうしようもなく嬉しかった。

けれど違う。違うのだ。その記憶は彼のものではない。その記憶に引きずられるようにして浮上したその名前は、目の前にいるゲーチスさんのものではない。
この記憶は「アクロマさん」のものだ。それなのに、どうして脳裏にはこの人の姿が過ぎるのだろう。どうして、その記憶に彼の太陽の目を見てしまうのだろう。

「……シアさん、大丈夫ですか? 顔色がよくありません」

「あ、いえ、何でもないんです」

私は誤魔化すようにそう言って笑った。真っ白なティーセットに視線を落として、そして気付いた。
鞄の形をした箱の、上の部分にある大きなポケットから、白い紙が何枚も覗いていることに。
強烈な既視感が頭を射抜いた。私は彼の許可も取らずに、その紙へと手を伸ばしていた。

「あの、これは……」

私がその紙の束を一度に引き抜いたその瞬間、一陣の風が二人の間に吹き付けた。
私は思わず、持っていたその紙を手放してしまった。

秋の空に、折り目の付いたその紙が舞い上がった。私は慌ててそれを目で追った。
白い紙にびっしりと書かれた文字は、あまりにも見慣れ過ぎた形をしていた。

はっと我に返り、浜辺の方へと飛んでいった紙を追い掛けようと立ち上がった。

「ご、ごめんなさい! 直ぐに拾ってきます」

私は駆け出したけれど、それより早く彼も地面を蹴っていた。一瞬だけ見えた彼の顔は、私の顔色の悪さを指摘できない程に青ざめていた。
彼は近くに飛び散った紙から素早く拾い始める。あまりにも俊敏なそれに私は狼狽えながら、遠くへ飛んで行ってしまった紙を探した。
その一枚は、迫り来る波の近くにまで飛ばされていた。私は慌てて砂浜を蹴った。粒の細かな砂は私の足を絡め取り、走ることを困難にした。
その感覚にも強烈な既視感を抱きながら、私は波が打ち寄せる寸でのところでその紙を拾い上げた。

「読まないで、シアさん!」

秋の空を、彼の悲鳴に近い大声が切り裂いた。
私はあまりの衝撃にその場から動けなくなった。駆け寄ってくる彼の目に映る私は、とても怯えた表情をしていた。
私はやっとのことで、その手紙を盗み見る。紛れもない、見間違えようのない私の字が、そこには並んでいた。
宛名を、見る。


『アクロマさんへ』


2015.2.22

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