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あれから数日の間、私はゲーチスさんが働いていた研究所に向かい、彼の仕事が終わるまで本を読む生活を続けていた。
彼は「日常から見る物理と化学」という本の他にも、沢山の本を貸してくれた。ポケモンの生態を記したもの、人間の心理を細かく分析したもの、天体の移り変わりをまとめたもの。
それらは世界の広がりとして、私の目にとても鮮やかな色をもって飛び込んできた。私はそれが楽しくて、夢中になって本を読んだ。

こんな風に本を読み耽ったのは久し振りであるような気がした。私は旅に出てから一年と3ヵ月の間、あまり読書をせずに暮らしてきたらしい。
確かに旅をしながら本なんていちいち買っていたら、鞄がすぐに重くなってしまう。物理的に不可能だったのだ。
私はそう思いながら、その分を埋め合わせるように沢山の本を読んだ。

その本の中で解らないところは、ゲーチスさんの仕事が終わってからまとめて彼に聞いた。
彼は何でも知っていて、一つの質問にも言葉を濁すことなく丁寧に答えてくれた。
この人の頭の中には、一体どれだけの知識が詰まっているのかしら。私も彼と同じ大人になったら、彼のような人になれるのかしら。
彼にやわらかな憧憬を抱くのに、そう時間は掛からなかった。私は彼を尊敬し、彼に憧れていた。そして、彼と重ねる時間を好きになり始めていた。
ただ一か所だけ、彼の名前を呼ばないようにだけ、気を付けていた。彼は私にその名前を呼ばれた時、本当に悲しそうな微笑みを見せるからだ。

コトネさんは、研究所へと出かける私にお弁当を二つ、持たせてくれた。
シルバーさんが作ったというそのお弁当のうち、一つは研究所で働く彼のものだった。「一緒に食べてね」と言ってくれた彼女にお礼を言って、私はその一つを彼に差し出した。
その時の彼の驚きに、私は慌てたように付け足した。

「わ、私が作ったんじゃないんです。私が毎日、研究所に遊びに行っているから、シルバーさんが私とゲーチスさんの分のお弁当を作ってくれて……」

彼はきっと、この立派なお弁当を私が作ったと勘違いしたに違いない。
私は残念ながら、料理などしたことがない。キッチンに立ったことだってないし、食パンを何分トースターで焼けば綺麗な焦げ目が付くのかも知らない。
きっと私がこの量とこの品数のお弁当を作れと言われたら、きっと丸一日かかってしまうだろう。
ここ一年半の間に料理の腕も上達していないかしら、と思ったが、よく考えれば、旅の途中で料理をする機会などある筈もなかったのだ。

「そうでしたか。ではわたしからも、シルバー君にお礼を言わなければいけませんね。……それで、このお弁当は貴方と一緒に食べてもいいということなのでしょうか?」

彼は肩を竦めて笑いながらそう尋ねた。私は少しだけ照れて「お時間が許すならそうしたいです」と返した。
彼は私の頭をそっと撫でて「では、仕事を早めに終えられるように頑張りますか!」と頷き、お弁当をそのまま私に預けて駆けて行ってしまった。

昼の1時くらいには彼の仕事も一段落し、私達は研究所を出て少しだけ歩き、あの浜辺で昼食を取った。
両者がお弁当を食べている時の沈黙は、寄せては返す波の音が埋めてくれた。
美味しいですね、と感動の言葉を交わしながらそれらを完食した彼に、やはり大人は好き嫌いがないものなのか、と感心した。
私のお弁当に少しだけ残った野菜に彼は気付き、「さやいんげんはお嫌いですか?」と少しだけ笑いながら尋ねた。

「味は大丈夫です。ただ、口の中でキュって音が鳴りませんか?」

「……ああ、確かに音がする時がありますね。ではわたしが頂いておきましょうか」

彼は箸でひょいと私のさやいんげんを取り上げ、そのまま躊躇いなく口に運んだ。
まるで子供と大人だ。年齢上はその括りで正しいのだろうけれど、彼の前で子供っぽい自分を見せることに耐えられなくなって私は箸を持ち直した。

「ふふ、シアさん、無理をしなくてもいいのではないですか? 食べ物の好き嫌いくらい、誰にでもあります」

「貴方は、そうじゃないのに?」

その言葉に彼は少しだけ驚いたように動きを止めた。残った一つのさやいんげんに伸びていた彼の箸を止めて、私はそれを箸で摘まみ、口に運ぶ。
すかさず、キュ、という音がして背筋を冷たい汗が伝う。何度聞いてもこの音は苦手だ。顔色を悪くする私を見て、彼は困ったように笑っていた。

「私は「誰から見ても完璧な人間」になりたいんじゃないんです。貴方の隣にいても恥ずかしくない人間になりたい」

「……」

「私に沢山の事を教えてくれる、優しくて誠実な人に相応しくなりたい」

きっとその一歩が、このさやいんげんだったのだ。
私はそう言って笑った。秋の風が私の長い髪を掬い上げて揺らした。
それは紛れもない私の真実だった。彼と重ねる時間の中で、少しずつその「真実」は増えていった。その尊さを抱き締めるようにして毎日を過ごした。
時間にしてたった数日の間だったけれど、本当に楽しかったのだ。

その一方でまた、私は「私」に関する情報を彼に教えてもらっていた。
その中には、今の私にとって信じられないような内容も含まれていた。

「貴方はとにかく、賢い子でした。会話の中に出てきた本のタイトルから、貴方が難しい小説を沢山読んでいることも知っていました」

「……もしかして、」

「ええ、「夢十夜」です。12歳の貴方の口から、その名前が出てきた時にはとても驚きました」

私と彼は浜辺を歩きながら、沢山、話を交わした。
彼が話してくれる私はとても聡明で、勤勉で、それでいて少し、捻くれていた。その全てを、彼は懐かしむように、愛おしむように話してくれた。
私はその横顔を見る度に、胸が締め付けられるような心地がしていた。

「大人が嫌いだ、とも言っていましたね。本当は綺麗ではない世界を、夢や希望で美しく着飾って私達の前に差し出す彼等が嫌いなのだ、と。
彼等から与えられたものしか受け取ることのできない自身のことを、歯痒く思っていました。貴方はこの世界を「理不尽」だと、呼んでいました」

私は驚いた。大人を嫌っていたことにではない。世界を「理不尽」としていたことにではない。
それらの思いは全て、今の私の中にもしっかりと根付いていたのだ。
私は大人が嫌いだったし、美しくない理不尽な世界のことも、嫌いだった。そして、そんな世界で強く生きたいと願っていた。
問題は、それをこの人が知っていたということにある。私はこの人に、自分の思っていることを全て、話したのだ。
私はそのことに驚き、当惑し、しかしその意味に辿り着いた途端、温かい感情が胸を満たした。

「私は確かに、大人が嫌いだし、世界を理不尽な悲しさと苦しさに溢れた場所だと思っています。それは私の、本心です。
でもそれを、私は今まで誰にも言ったことがないんです。私は大人を信頼していなかったから、誰にも言わずにそれらを抱えてきた筈でした」

「……」

「ありがとう。私は貴方を心から信頼していたんですね。貴方も、こんな捻くれた私を許してくれたんですね」

この人は、捻くれた私を見限らなかった。こんな私に、彼は優しく、そして誠実であってくれたのだ。そのことが泣きたくなる程に嬉しかった。
こんな捻くれた子供は、受け入れられないと思っていたのだ。こんな逸脱した感情を持つ子供を、世界は許さないと思っていた。
だからこそ私は、誰よりも強く生きたいと願っていた筈だった。イッシュの神話を従えた二人の英雄のように。私の強い「先輩」のように。
けれど違った。こんな私は、彼という一人の人間に受け入れられていた。私は彼に許されていた。

「貴方は努力が得意な子でした。わたしが贈った本も、時間を掛けて読み解いてくれましたし、解らない箇所は今のように、わたしに尋ねてくれました。
……それから、貴方は私に紅茶を淹れてくれました」

「紅茶……?」

紅茶なら、母がたまに飲んでいた。不思議な紙で出来た包みに、凧糸のようなものが付いていて、それをお湯に漬けることで少しずつ色が付いていくのだ。
私がそう説明すると、彼は「少し違いますね」と苦笑し、再び口を開いてくれた。

「ポットに茶葉と沸騰したお湯を入れて、ポットの中で茶葉を3分間、対流させてから、カップに注ぐんです。
茶葉やティーセットはわたしが用意したものでしたが、貴方はとても美味しく淹れてくれましたよ。あんなに美味しい紅茶を、わたしは初めて飲みました」

「私が、そんなことを……」

私はキッチンになど立ったことがないし、お茶だって入れたことなど一度もない。お湯だって、沸かせと言われても上手く沸かせるかどうか甚だ疑問だった。
そんな私が、この人に紅茶を入れた。その事実がどうしても信じられなかったけれど、この人はもう、嘘を吐かないという大前提を思い出し、私はそれを真実として飲み込んだ。

「そうだ、ティーセットと茶葉を持ってきましょう。何か思い出すかもしれません」

「で、でも今の私は、その紅茶をどうやって淹れたのか覚えていません」

「構いませんよ。思い出せないなら、これから覚えていけばいいのですから」

その言葉に私は胸を撫で下ろした。そしてその「紅茶」という単語は、私が以前に思い出していたあの記憶を引きずり出した。
サザンドラの背中に乗って、買い物に出かけた記憶。あれは、この人との記憶だったのだろうか?
けれど、おかしい。私の記憶が弾き出した名前は「ゲーチスさん」ではなく、他でもない「アクロマさん」のものだった。彼ではない。けれど私は、彼に紅茶を入れていたと言う。
その記憶は紛れもなくこの人とのものである筈なのに、しかしその名前はこの人を示してはくれない。そのことがひどく悔しかった。

「続きは、また明日にしましょう」

私は素直に頷いた。波の音が鼓膜を穏やかに揺らしていた。

2015.2.22

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