34

海に濡れた服は、降り注ぐ日差しによってもうすっかり乾いていた。

「私は、どんな人間でしたか?」

彼はその質問に、少しだけ驚いたように笑ってみせた。
今まで私は、ずっと「誰か」に関する質問ばかりしていた。けれどそれは間違いだったのかもしれないと思い始めていた。
私のことを知りたいのなら、私の真実を探りたいのなら、先ずは私のことを知るべきだ。
彼は少し悩んだ後で、白い指を立てて私にそっと突き付けた。

「ではシアさん、わたしと交渉をしましょうか」

「交渉……?」

「わたしは貴方に、貴方が忘れてしまった一年半の間の「貴方」のことを教えます。貴方が他に知りたいことがあるのでしたら、それにもできる限り答えましょう。その代わり、」

この「交渉」には覚えがあった。私はいつかも、こうした交渉をしたのだ。今まで受けたことのなかった会話の方法に私の心臓は高鳴り、高揚で頬が僅かに赤くなった。
覚えている。私はこの心臓の揺らぎを覚えている。この「対等」な立場から交わされる言葉の尊さを、私は知っている。

それまでの私は、ただ生温い現実を与えられるだけか、理不尽に期待を奪われ、砕かれるかのどちらかであったのだ。
大人が子供に与え、奪う行為はどこまでも一方的で、それは時に子供の主体性や希望や自尊心を失わせる。
「甘えてもいいんだよ、まだ子供なんだから」「我慢しなさい、まだ子供なんだから」
そんな矛盾に溢れた彼等の言葉が私は大嫌いだった。そして、そんな大人に庇護され生きていくしかない自分のことも、あまり好きではなかった。
けれど、彼の「交渉」はそうではなかった。彼は私に、私が望んだものを与えてくれ、更には私に何かを求めようとしてくれている。
その交渉は、私が彼に縋ってもいい理由を与えると同時に、私が一方的に彼に縋るのではないのだと私に知らしめさせてくれたのだ。私達は対等な立場にいるのだと感じられた。

「私は、何をすればいいですか?」

私は期待に胸を膨らませ、思わず身を乗り出して尋ねていた。
彼は楽しそうに笑いながら、「簡単なことですよ」と私の肩に手を伸ばした。そしてそのまま、私を強く抱き締める。

「時々、こうさせてください」

「!」

「貴方が泣いていない時でも、わたしがこうすることを許してください。そしてわたしがみっともない顔をした時は、傍にいてやってください。
ただし、わたしの名前は呼ばないでください」

その不思議な交渉に、私は沈黙を置かずに頷いた。
彼は安心したように微笑んで、その手をそっと放した。

私は、私の周りにいる人の嘘に気付いていた。彼等の口から「それは嘘だ」と聞かずとも、その声音や仕草が持つ違和感に私は気付けていた。
けれど、その違和感を全く感じ取れなかった彼に「嘘」の告白をされてしまった。だから私は、その告白を信じることにした。
彼はこれ以上、嘘を吐かない。だから私は、最後にもう一度だけ、人を信じてみることにしたのだ。

「貴方は嘘を吐かないと思っていました、ダークさん」

その日の夕方、私はコトネさんの家の前で、そのポストに持たれるようにして立っているジュペッタのダークさんを見つけた。
伏せられた目は私を待っていたことが明白で、私は思わず彼に駆け寄り、いきなりそんな言葉を投げてしてしまった。
何のことだ、と不機嫌そうに尋ねる彼に、私はもう一度、丁寧に言葉を紡ぎ直す。

「ダークさんは、私が「アクロマさん」と出会ったのは去年の夏、7月の終わり頃だと言っていましたよね。
でも、もしそれが本当なら、私が6月に旅立った直後に「アクロマさん」からの手紙を受け取れた筈がないんです」

「……」

「私が持っている手紙の事実は、動きません。だから、貴方が嘘を吐いているということになってしまうんです、ダークさん」

私はダークさんの、色素の薄い目を真っ直ぐに見据えた。
彼は私と目を合わせることはしなかった。代わりにその視線を泳がせて、遠くを見遣った。
何を見ているのだろうと思い、私も彼の視線を追うと、ワカバタウンの東に広がる海に突き当たった。

ゲーチスさんと、同じ目だと思った。
ジュペッタのダークさんも、ゲーチスさんも、とても感慨深そうに海を眺めるのだ。余程、海に思い入れがあるのだろうか。

「あいつもよく海を見ていた。お前がスケッチブックに緑の海を重ねているのを見て、おかしそうに笑っていた。海は青以外の何物でもないのにと。私の戯言を本気にしたのかと」

そう紡ぐダークさんの中に、やはり嘘を見つけることはどうしてもできない。彼には「違和感」を感じない。
けれど、彼の言葉が真実である筈がないのだ。だって私は手紙を持っているのだから。私に宛てられたその手紙は、彼の言葉通りの「アクロマさん」が送れる筈がないのだから。
けれど、私はダークさんの言葉に嘘を見つけられない。

「辻褄が合わないのは当然のことだ。だがその嘘を吐いたのは俺ではない」

「……どういうことですか?」

「最初に言った通り、俺はお前に真実をそのまま伝えるつもりだった。だが、思わぬ嘘がその後に重ねられてしまった。
俺はその嘘を軸にして、やや強引に辻褄を合わせた。だが、それだけだ。俺は嘘を言っていない。俺が言ったことは、全て嘘ではない」

それは鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
ジュペッタのダークさんは、嘘を吐いていなかった?
この「アクロマさん」に関する大きな嘘の綻びは、彼によってもたらされたものではなかった?

「お前の言う通り、その手紙は真実なのだろう。それは確かに「アクロマ」がお前に送った手紙だ。それと照らし合わせれば、俺の言葉に矛盾が生じる。そこまではいい。
では、お前はこれからどうするつもりだ。この綻びが誰の、何の嘘から生まれたものなのか、お前は解っているのか?」

彼の目は怖いくらいに真剣だった。色素の薄い目が射るように私を見据えていた。
足が地面に縛り付けられたように固まったまま、私はずっと、考えていた。

ジュペッタのダークさんはきっと、解っている。この綻びの原点を彼は知っている。そして、それを私に伝えてはくれないであろうことも、私は知っている。
現に彼のその目は私を挑戦する色を含んでいた。その射るような目に私は試されていた。
真実に辿り着いてみろと、私はその目に訴えられていたのだ。そして、それは私がずっと追い求めてきたものでもあった。どうして私がその目を拒むことができただろう。

「もう少しだけ時間を下さい」

彼は満足したように頷いて立ち上がり、ワカバタウンの静かな道を歩いていった。
私はそんな彼の背中を見送ってから、彼が凭れていたポストに同じようにして体を預ける。

「……」

『この綻びが誰の、何の嘘から生まれたものなのか、お前は解っているのか?』
『わたしは貴方に、一つだけ嘘を吐いています』

ジュペッタのダークさんの言葉と、ゲーチスさんのあの告白。この二つが無関係であるとはとても思えなかった。綻びの原点は、きっとゲーチスさんの唯一の嘘にあるのだ。
けれど私は、彼が紡いだ全ての言葉を覚えている訳ではない。ゲーチスさんの言葉を一つ一つ検証していくのは不可能だった。
では、どうすればいいのか。私はこれから、何を求めればいいのだろう。

ぐるぐると回る思考は、やがて一つの懇願へと戻って来る。
思い出せ、思い出せ。私は確かに覚えている。「誰か」の言葉を、覚えている。
早く思い出したい。しかしその思いが過ぎて、自分の首を絞めていることも解っていた。それでも、焦らずにはいられなかった。
たとえ、全てを思い出したその中に、私の求める真実がなかったとしても、それでもこうして私の大切な人に嘘を吐き続けさせるよりは、ずっといい。

私は立ち上がり、コトネさんの家のドアをそっと開けた。
おかえり、と笑顔で手を振ってくれたトウコ先輩に、私も笑顔で挨拶を交わす。
私が大切に思われているからこその嘘だと解っていた。だからこそ、これ以上そんなことをしなくても済むようにしたい。それができるのは、私しかいない。

2015.2.22

© 2024 雨袱紗